ある村の幼馴染の話 後編
裏口から数分程進めば、その先には私達の生まれ育った村に繋がる門とは別の門がある。
そして私の記憶が確かなら、その方角にはまた別の村があるはずだ。
脳裏で彼女がそこへ逃げなさいと告げる。
聞こえないはずの彼女の声が、聴こえた気がした。
「イーク。村の奴等が彷徨いてる」
え、と呟いて、彼と同じ方向に顔を向ける。
あの日逃げ出すまではよく見ていた顔の、少し窶れた姿がそこにはあった。
「………どうするの…?」
その姿はどうやらこちらに来ているようで、私達は一度立ち止まると小声で話し合う。
「ここを通らないとあの門には行けない。一旦戻ってやり過ごすか…?」
建物の影でもう少し進んだところにある門を見ながらそう言うと、彼は私の手を引いて来た道を引き返した。
それに引かれるまま進みながら、私は彼の手を強く握って言った。
「ねぇ、ルー。あの人達がもしも私達を探しているなら、あの進行方向には家があるだけで何もないはず。行き止まりを引き返したらこっちの道に来るんじゃないかな?もしくは…」
そのまま直接、この道にやってくるか。
彼は言い淀んだ私の言葉の先を察してくれたようで、一度浅く頷くと、村の人達を見つけたところからほんの少し道を戻ったところで立ち止まった。
そこは建物の角を曲がってすぐのところで、彼は一度私と向き合うように振り返ると、手を引いて後ろに移動させた。
「絶対に俺の傍から離れんじゃねーぞ」
それから背後に私がいることを確認し、小さくそう呟いた彼が繋いでいた手を離す。
「う、うん」
私は少し躊躇いがちに頷くと、角の向こう側に意識を集中させていつでも動けるように構えているその意図を察し、同様に角の向こう側へと意識を集中させた。
数は二人だった。
先程見えた限り他に人影はなく、徐々に近づいてくる足音も二人分。
あの二人で間違いはないだろう。
「それなら俺はあっちに行くよ」
そうして私達が様子を伺っている間にも、近づいてくるのに比例して大きく、ハッキリと聞こえるようになった足音は遂に、私達のいる道と行き止まりへの分岐地点へ辿り着いた。
「あぁ、頼む。俺はこっちに行く」
足音が一つ、こちら側へと近づいてくる。
それに反応した彼がゆっくりと腰を落とし、音を立てないように右半身を引いた。
私も先程見た男の顔の位置を思い出して簡単に視線が合わないよう軽く屈むと、無意識に胸の前で組んでいた両手にギュッと力を込めて、目の前にある彼の背中を見つめる。
そうして私も彼も動かず待っていれば、遂に、後たった一歩、踏み出せば見える位置に、男がやって来たことを察した。
どことなくゆっくりと、私の視界に足が映る。
窶れた顔が、こちらを見ようと、動いて。
「っ!?んぶっ」
彼の鋭い蹴りが男の脛にぶつかると、男は突然の衝撃に力が抜けたように崩れ落ち、追撃の拳を後頭部に入れられたことで顔から地面に倒れた。
同時に立ち上がった彼が振り返って私に片手を伸ばす。
名前を呼ぶ声も進むことを促す言葉もなかったけれど、私はその手が自分の手を取るよりも先に縋るように掴んで、倒れた男の横を彼と共に走り抜けた。
次いで痛みを堪えるように荒い息を繰り返す男が僅かに動いた気配を感じる。
「いたぞ!二人共っ見つけた!」
後ろからの声は大きく、まだ静かだった村によく響いた。
一番近いのは先程行き止まりへ向かった男のこちらへ走ってくる足音で、それ以外にも村のあちこちから早い足音が聞こえる。
二桁より少ないくらいの足音が迷いなく私達のほうへと向かっていた。
“捕まれば良くて離れ離れになる上に過酷な環境に置かれるでしょう。悪ければ死、かしら”
彼と繋いでいる手をギュッと握って、私は追いつかれる前にと必死で走る。
そうして門に辿り着いたとき、目の前に現れたのは、どことなく窶れた私達の村の人達だった。
「お前達の…」
門の外、右や左から走ってくる人の姿も見えることから、恐らく全ての門で待機していたのだろう。
その全てが、手に刃物や鈍器と言った武器を持って立っていた。
「お前達のせいでっ!」
進行方向を塞がれてしまったことで立ち止まった私達をどこか血走った目で睨みつけ、先頭に立つ男性が鉈を手に叫ぶ。
それが合図だったかのように包丁を持った人が、スコップを持った人が、鍬を持つ人が、恨みの篭った言葉を口々に叫び出した。
「村に送られる資源が減って、取り合いになった!」
「一度裏切った信頼を取り戻したいのならと、村のみんなの食料まで多く差し出さなければいけなくなった!」
「子供も大人も関係なく痩せてって…!」
「飢え死にしたやつもいるんだぞ!」
「ニジュダ、お前さえ街に行っていれば!今まで街からの支援を受けて生きてきたくせに、俺達に育てられたくせに!どうして親に歯向かうんだ!」
「俺達の言うことを大人しく聞いて、これから先も大人しく街に従い慣習を守っていればみんな幸せだったんだぞ!」
「一丁前に駆け落ちなんてして、ニジュダもプレジデントもなんて恩知らずなんだ!」
「村の中から逃げ出そうとする者も出始めて、もう村はお終いだ…全部、お前らのせいで!」
視界の端で、興味本位からか窓にかけていた布の隙間からこちらを覗く人の姿が見える。
しかしすぐにこの恐ろしい形相をした人々に怯えたのか、布を戻して姿を隠してしまった。
私も、彼と二人、目の前の人達に見つからない場所へ隠れてしまいたかった。
「イーク、俺が走って先頭の奴を投げ飛ばす。そうしたら隙間を通って門を抜けろ。それでできるだけ遠くに」
僅かに距離をとって、今はただ鬱憤を口に出すことで消化している男達を見ながら、彼は私にだけ聞こえるくらいの声でそう告げた。
けれど私はその言葉を途中で遮って、彼の名前を呼ぶ。
「ルー。ルーは、どうする、の?」
繋いでいた手が、離された。
「…すぐに追いかけるから、気にせず逃げろ」
今までずっと、繋いできたものが。
「でもっ」
たった一瞬で離れていったような気がして、食い下がる。
けれど彼は変わらぬ様子で私を窘め、軽く右半身を引いた。
「硬貨は俺が持ってるんだから、一文無しにさせないためにも絶対に追いつく。いいな?」
男達は彼の手足が武器になることを覚えていたのか、身構えた彼を見て僅かに体を強張らせると、一斉に一歩下がった。
けれど自分達が武器を持っていることを思い出したのか、それぞれ武器を握る手に力を込めて、逆に一歩、進む。
「この二年で、俺達の村がどれだけ衰退したか!」
私達を詰る言葉は、まだ止まない。
そんな状況で、私は一人で逃げなければならないことを、そして彼と離れなければならないことを感じ、段々と呼吸が荒くなるのを抑えるように深呼吸をした。
だって、あの時とは、違う。
目の前にはたくさんの武器を持った男達が多くいて、彼はそれが武器だとしても素手で、たった一人で、幾ら何でも多勢に無勢だ。
「ふたりで、にげようよ」
だから私は、震える声でそう言った。
けれど彼はふっ、と息を吐いて、優しい声で私の名前を呼ぶ。
「大丈夫だ、俺がお前に嘘ついたことなんて、あったか?」
顔を見なくても、彼がいつもみたいに笑みを浮かべただろうことがわかった。
だから私も、いつもみたいに、彼を見て頷いたのだ。
背中を向けている彼には、見えるはずもないのに。
けれど彼はまるで見えているかのように一度、確かに小さく頷いて、僅かに姿勢を低くすると、窶れた男達に向かって走り出した。
「まずはプレジデントからやるぞ!」
武器を持った男達が彼に向かい、動かない私の元へ村の中にいる男達が向かってくる。
「あいつさえいなければ容易に捕らえられる!ニジュダは弱い!捕まえて人質にするんだ!」
そんな声を聞きながら、私は彼と繋いでいたほうの手を守るように握り、片足を軽く後ろに引いた。
距離、時間、腕の長さ、そのどれもが、彼が鉈の持ち手を掴み、もう片方の手で先頭の男を掴んで、門の方向にいる男達に投げ飛ばすまでには、ほんの僅か私に届かない。
「っ!?ニジュダがそっちへ向かったぞ!」
一直線に走る。
鉈を持つ男が倒れている場所の少し横に、反射的に下がった動きでよろけている包丁を持った人がいた。
その隙を狙って走り抜けるのだ。
彼が指示した通りに。
「こ、のっ!」
しかしそう上手くは進んでくれないのが、現実というもので。
体勢を整えた男の包丁が私の背後に迫る。
その速さからして、走り抜ける前に恐らく背中の大部分を切られるだろうと、察した。
同時に男が気づいているかはわからないが、この勢いであの包丁を投げられたなら、まず間違いなく刺されるだろうとも。
それが脇腹を掠る程度ならまだ良いとして、内臓付近に刺さってしまった場合、治療が受けられない可能性の高い今の状況だと、まず間違いなく私は死んでしまう。
「イーク!」
包丁が近づく気配をスローに感じた。
そして、男との間に割り込む風も、感じて。
「ル」
名前を呼び返そうとした。
自然と首だけで振り返って、彼の姿を捉える。
ふわりと靡く金の髪。
その人物の胸に、吸い込まれるようにして刺さる刃物。
呼ぼうとした名前が途中で止まる。
一瞬、息が、止まった。
「――大丈夫だ、走れ!」
聞こえたのは、肉を裂く音ではなかった。
金属と金属のぶつかる音、そして力強く響く聞き慣れた低い声。
「やったか!?」
そうだ、確か、あの位置は。
「いや、まだだ!」
喧騒から離れるように走る。
ただ前に、なんてバカなことはしない。
この先の村になんて向かわない。
そんなことをしても男達がまた追ってくるだけだ。
彼も、門を抜けろとしか言っていなかった。
できるだけ遠くに、と言っていただけだから。
「っ!」
抑えたような悲鳴が、聞こえた気がした。
結局私は、あの日彼と逃げた森の中に入った。
一旦身を隠すなら、ここしかないと思ったからだ。
そして彼にだけはわかるよう、目印として木に3本の線を引いておく。
それは矢印を分解したような形をしていて、すぐにはそうとわからないよう間隔を置いていた。
もしかしたら男達にも気づかれるかもしれないが、それよりも先に彼が私を見つけてくれればいい。
それで、一緒に逃げるのだ。
「………?」
闇雲に進むのではなく、できるだけ足跡を残さないように歩いた。
村に向かうことが目的ではなくて、一旦身を隠すことが目的なのだからと、できるだけ険しい道を進んでいく。
そうして奥へ奥へと行った結果、見つけたのは、随分とボロボロな小屋だった。
「………えっと、誰か、いますか…?」
私はここまでの道中で足跡を隠したり木に目印を付けたり険しい道を進んだりで随分と体力を消費していたから、この場所で彼が来るまで待てないかと荒い息を整えながら考えた。
ノックするのも怖いくらいボロボロな小屋の扉は僅かに開いていて、私はその隙間から中を覗くようにして声をかける。
見える限りでは誰もおらず、返ってくる言葉もまた、なかった。
だから私はゆっくりと扉を開いて小屋の中へと入ると、これまた慎重に扉を閉めた。
「…少なくともここ最近で、人がいた形跡は、ない…かな」
放ったらかしの寝具と机、そして竈があるのみのそこは、一目見てもう随分と使われていないのだろうな、と感じる場所だった。
ふぅ、と寝具に座り込んで、膝に顔を埋める。
私は彼を信じているけれど、それでも、不安だった。
きっと彼なら宣言通り私に追いついて、一緒に逃げてくれるはず――。
「………ぁ、れ?」
そういえば彼は、一緒に逃げるとは、一言も、言っていない。
私の問いかけにも、肯定してはいなかったと、思い当たる。
けれど合流してしまえば後は一緒に逃げるだけなのだから、きっと関係ないはずだと。
それがどうしたと、些細なことだと。
私には、思えなかった。
膝を抱えて座ってからどれくらい時間が過ぎただろう。
実際には十分も経っていないのかもしれないし、もしかしたら一時間くらい過ぎているのかもしれない。
不安に苛まれる時間はとても長く感じて、私の精神を少しずつ削っていくようだった。
しかしそんな中、やっとこの場に変化が訪れる。
扉から、軽い音が繰り返して鳴った。
すぐに顔を上げて、扉を見る。
「――イーク、いるか?」
聞き慣れた声の主が扉の向こうにいると、確信した。
私にはそれ以外、重要じゃなかった。
「ルー!」
すぐに扉を開けて出迎える。
私を見て安心したように彼は笑うと、一歩、小屋の中に進んで。
「よか、た」
ゆっくりと、傾いた。
寄りかかってくる体を支えきれずに尻餅をつく。
彼の名前を呼ぼうとして、視界に入った背中が、赤いことに、気がついた。
「ぁ、ぇ…?」
思考も、感情も、動きも、息も、私と彼の心臓以外の全てが、一瞬、動きを止めた。
は、と詰めていた息を吐く彼の顔が苦しげに歪んでいる。
「イー、ク」
ただ呆然としていた。
けれどそんな私の意識を引き戻すように、苦しげな息を吐いて彼が名前を呼んだから、そこでやっと我に返る。
それからうつ伏せは呼吸が辛いだろうと思って慌てて仰向けにすると、私は自分の足の上に彼の頭を置いた。
本当は寝具に運んであげたかったけれど、私の力じゃ彼を持ち上げることはできないだろうから。
「ルー、ねぇ、ルー」
核心をつくことは聞けなかった。
さっきよりは穏やかになった彼の呼吸を聞きながら、ただ、名前を呼んだ。
「わりぃ。硬貨、多分衝撃で、いくつか割れてる」
どこまでも、優しい響きだった。
「ううん、いいの。気にしないで」
だから、止められなかった。
「あと、」
どんなに聞きたくなくても、歯を食いしばって、聞き逃さないように耳を澄ませた。
「俺はもう、ダメだから、お前は、逃げろ」
死の予感が、否定されないとわかっていても。
「やだ、やだよ、ルー」
くしゃりと歪んだ顔を必死に横に振る。
視界に映る彼の顔も、歪んで見えた。
「…ごめんな」
そっと、彼の手が私の頬に伸びてくる。
優しい声から、優しく頬に触れる手のひらから、何かが伝わってくるような気がした。
だから私も、彼の手の上に自分の手を重ねて、そっと、離れないように、隙間もないくらいに強く頬を寄せる。
「………イーク」
何かを堪えるような、悔しさを、切なさを、そして触れれば怪我をしそうなほどに鋭く熱い、激情を、彼は今にも閉じそうな金色に浮かべた。
「ルー」
息が、苦しかった。
手放したくないものがすり抜けてしまう瞬間を、理解したくない現実を、心が拒絶する。
「る、」
言えなかった。
「生きろ」
言えなかった。
「ルー………ルー…!」
彼を繋ぎ止めるように名前を呼んだ。
もっと、嫌だ、とか、いかないで、とか、一人にしないで、だとか、言いたいことはたくさんあったのに。
「いーく」
ただ、涙が止まらなかった。
「ルー、る、う…るー…」
私は出てこない他の言葉の代わりに彼の名前を呼びながら、少しずつ焦点の合わなくなる金色を必死で見つめ返す。
彼はそんな私にたった二つの単語だけを、その言葉に収まりきらないほどの想いを込めて、荒い息の合間に繰り返した。
「…いき、ろ…いき………ぃーく」
優しい声。
語らない“声”をその瞳に浮かべて、彼はそっと微笑んだ。
「いーく」
何かを言いかけた唇はその役目を果たすことなく閉じられて、そして。
瞼がゆっくりと、閉じられた。
「…っ!」
私は力が抜けて落ちていく手を慌てて捕まえると、また涙に濡れる自分の頬へと寄せる。
「…ゃ、だ…やっだ、や、だよっ」
ずっと繋いできた。
ずっと守ってくれた。
握り続けたこの手は、もう、私の手を握り返してはくれない。
「やだよっ、るー!ねぇ!ルーッ!!!」
小さな声で必死に叫んだ。
けれど、泣き濡れた声で零したそれに反応して、彼はもう私を撫でてはくれない。
「………いやだ、よ」
こんな現実、私も彼も、生を信じて送り出してくれた彼女だって、きっと望んでいなかった。
誰に言われなくたって、生きていくつもりだったんだ。
「おねがい、るー」
でもそれは、当たり前のようにずっと、彼が私の隣にいてくれると思っていたから、で。
「おねがい…」
震える手でゆっくりと、重たくなった彼の頭を膝から下ろす。
“いーく…いき、ろ”
彼の額に乞うように額を当てて、私は泣きながら囁いた。
「おねがいっ…だれか、」
“いーく”
あぁ、私は、生きなければ、ならない。
彼の願いを、優しい彼の想いを、私は、わたし、は。
「だれか、おねがい…もう、」
――トドメを刺して、今すぐに。
*
世界は、私なんていなくても動き続けるし、時間は、私なんていなくとも進み続ける。
――けれど私は、彼のいない世界じゃ、息ができない。




