夢
酒場を出た瞬間、ひんやりした夜風が頬をなでた。ふるりと体を震わせると、オルレーンは無言で上着を脱いで肩にかけてくれた。そして、戸惑って立ち尽くすメイフィリスの腕をそっと引く。しんと静まりかえった夜道を、小さな子どものように手を引かれて歩く。
静寂が降り積もっていく。
天上の月の青白い光が、町を優しく包む。
メイフィリスの半歩先を、騎士は黙々と歩いた。彼は口を開けば毒舌だが、口数はさほど多い方ではない。
……このやろうスカしてんじゃねえぞ
沈黙を誤魔化すように、メイフィリスは心のなかで悪態をついた。だが、流れる空気はいつになく穏やかで───
隣の整った横顔をそっと見上げる。オルレーンは騎士らしく精悍な顔つきだが、目元には独特の甘さがあって、微笑した時の印象は優しげなものになる。
その落差にやられてしまうのか、彼は未婚の令嬢にたいへん人気があるという。
口を開けば毒しか出てこないがな……と、噂を聞くたび、メイフィリスは半目になったものだ。「見た目でひとを判断してはいけない」という見本のような男なのに。
……とはいえ、月光の下を歩くオルレーンは、文句なしに良い男だった。
転移魔術で帰ることもできたのに、何となく空気を壊すことが憚られて、メイフィリスは手を引かれるまま黙って夜道を歩いた。
…………が、その穏やかな時間は、突然終わりを告げた。
酒場を出て数分後。…………なにかおかしい。
最初に違和感を覚えてから、気分が悪くなるまであっという間だった。体がぐらぐらする。その上、胃から何かがせりあがってくるような……………うぷ。
飲み過ぎたかもしれない。
そう自覚した時にはとっくに手遅れで、メイフィリスは吐く一歩手前の、切羽詰まった状況に陥っていた。
「おい……止まってくれ……」
「どうした?」
「はきそう……」
「大丈夫か」
何事にも動じない男が、慌てた声で呼びかける。
「う……大丈夫じゃない」
「お前の屋敷に転移できそうか?」
「むり……」
メイフィリスは地面にしゃがみこむ。
「……ちょっと大人しくしてろ」
男の舌打ちが聞こえた。
次の瞬間、背中と膝裏に腕が差し入れられ、体が浮いた。
「ちょ、何するんだ降ろせっ!」
「暴れるな、落ちるぞ」
男の秀麗な顔がすぐ近くにある。犬猿の仲とはいえ、さすがにこの顔に胃の中のものをぶちまけるわけにはいかない。メイフィリスは必死に口を押さえ、男の肩に顔を伏せた。
彼女を抱き上げ、辺りを見回した騎士は、四つ辻の角に見えた宿屋の看板に向かって歩いていく。
慎重に運んでくれたのか、ほとんど揺れは感じない。それがせめてもの救いだった。
男は宿に部屋を取ると、主人に水を頼んで二階の部屋に上がり、メイフィリスを慎重にベッドに座らせた。
運ばれてきた水をグラスに注ぎ、ぐったりしている彼女に「飲め」と素っ気なく差し出す。
「飲み過ぎだ、バカ」
「………………バカって言うな」
…………こんな時までひどい。そこまで言わなくてもいいのに。受け取ったグラスを握りしめた魔術師の瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
普段のメイフィリスなら、こんな風に他人に弱みなんて絶対に見せない。この男の前なら尚更。
しかし、酒で思考は鈍り、気分は最悪で、張りつめていた糸が盛大にぷつりと切れた。翡翠色の瞳から溢れた涙が、グラスや膝にぱたぱたと落ちていく。
「うるさい。もうほっといて……どっかいって」
「おい……」
「なんなんだよ!うるさいんだよどいつもこいつも。バカとか、可愛げがないとか、小娘のくせにとか。好きで小娘やってると思ってるのか爆炎で焼き払うぞクソどもが!」
「……俺はお前を小娘だと言ったことはないぞ」
「よく影で言われるんだよ!」
叫んだメイフィリスは、ぐしぐしと鼻を啜る。いったん溢れた感情は、堰を切ったように止められない。
「きつい顔で悪かったな!こっちは生まれた時からこの顔なんだ!」
ここまでくるとほとんど八つ当たりだ。自分でも嫌になる。オルレーンも呆れているだろう。
もう、見苦しく喚き散らす女は捨て置いてほしい。回れ右してさっさと帰ってくれ。そう思った。なのに。
「……泣くな」
涙の膜でぼやけた視界。その向こうで、灰色がかった青の瞳が、困ったように自分を見つめていた。
「言い過ぎた。俺が悪かった」
伸ばされた大きな手が、握りしめたグラスをそっと外して、ことりとサイドテーブルに置いた。そして震える背中をそっと撫でる。
「うぅ……」
「お前は不器用だが、よく頑張っている。魔術学院設立だってきっと上手くいくだろう。だから泣かないでくれ」
誰だこれ。なんか励まされてる。
いつもボロカス言われてるのに。
貴様どんな顔してそんなことを言ってるんだ、と思ったが、泣き顔を見られたくなくて、両手で顔を覆う。
……背中を撫でられるうちに、いつの間にか、涙も吐き気もおさまっていた。
かわりに、強烈な眠気が襲ってきた。メイフィリスは目の前にあった大きな肩に、こてんと額を乗せて目を閉じる。
「おい、いきなり寝るな!」
誰かが何か言ってる。
でも眠いんだよ。邪魔するなよ。
泣き疲れた魔術師長は、自分より体温の高い肩にもたれ、スヤァ……と深い眠りに落ちていった。
+++++
…………夢を見た。
懐かしい少年の夢だ。
大好きで仕方なかったレン。だが、遠くに行くと言い残し、ある時期を境に会えなくなって、それきりになった少年。
今思えば、何の打算もなく、純粋な優しさから「僕のお嫁さんになったらいい」と言ってくれたのは、後にも先にも彼だけだろう。
ほかの男たちは、メイフィリスの血筋や雰囲気に尻込みするか、逆玉狙いばかり。あるいは、性別女なら誰でも良さそうなナンパ野郎とか。
……レンに会いたい。彼はどうしてるのだろう。
やがて────深い眠りから意識が浮上して、彼女は薄く目を開けた。




