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にゅう

作者: ナカタカアキラ

 ぴゅう!

 というのは川子のくしゃみである。

 柚男はそれを変な癖だなあと思っている。はじめの頃は彼女のウケ狙いかと思っていた。だから素直に笑ったものだ。彼女もその頃は顔を赤くして照れ笑いをしていた。

 しかし、付き合いだして何年かすると、遠慮がなくなるもので、しかも川子は若干ヒステリ持ちだった。

「私がくしゃみをするたび、貴様はいつも笑うものだが、それは私を馬鹿にしているのであるか?」

 柚男に対して激しく怒る。

 だから、川子がくしゃみをしそうになるたび、彼はいつも戦々恐々としている。

 川子のくしゃみは以前と変わらない。

「ふぇ、ふぇ、ふぇ、ぴゅう!」

 柚男は必死で笑いを押し殺すのだが、だがそれはそれで、川子は「貴様はいま私のことを笑おうとしたであろう」と臍を曲げるのだ。

 川子は人知れず努力家で、社会的にもそれなりに地位を築き、それでいて気取ったところもなく、柚男は俺などには勿体ないような人だといつも思っている。

 だからこそ、彼女の変なくしゃみが余計におかしい。

 その日は霧のような雨が降って、絵の具を汚くしたような空は、薄く煙ったようになっていた。

 川子と柚男は、小さな映画館で、アイルランドの映画を見てきた帰りだった。

 肩を寄せ合うように二人は細い路地を歩いていた。傘をさすにはちょっと雨の量が足らない感じだった。どこかゆっくり話せるような喫茶店を探していた。しかし夜になるとスナックになるような店しかなかった。

 そんな時だった。

 雨の粒に刺激されたのか、それとも体温が下がったせいか、川子が顔を歪めてくしゃみをしそうになった。

 柚男は反射的に身構えた。

 しかし川子はいつもの感じではなかった。

「は、は、は……」と、濁りのないハ行の発音で、くしゃみの前触れを宣告したのだ。

 柚男は一瞬、川子が遠いところに行ってしまったかのような、まるで置いてけぼりを喰らった気持ちに捕らわれた。

 だが。

「……にゅう!」

 と、確かにいつものくしゃみとは微妙に違っていたが、やはり変なくしゃみだった。

「畜生、ちゃんと練習したのだがなあ……」

 川子はさも悔しそうに言った。

 彼女は努力家である。しかしそのエネルギーを変な方向にも使ってしまう。しかも本番に弱い。

 たまらず柚男は馬鹿のように笑った。

 川子は一瞬ムッとしたけれど、でも、なんだかどうでも良くなってきたのか、柚男と一緒になって笑った。

 しばらく行くと、赤いレンガ造りの良さそうな喫茶店があった。二人はそこに入った。窓際の席に座った。ジュビロの名波のような顔をしたウエイトレスがやってきた。川子はなんだか難しい名前の紅茶を注文した。柚男は銘柄に詳しくないので適当に暖かいコーヒーを注文した。

 店の中は暖房がきいていたので窓ガラスは曇っていた。

 川子がそこに落書をした。

 それを見ながら柚男はふと、昔、大学の先輩が両手の指を使って車窓に卑猥な落書を書いて、「おお!十個のおま*こ!」と叫んで興奮していたのを思い出した。あの人は元気でやっているのかなあと思った。

 そのうち雨が強く降り始めた。

 ぴゅう、ぴゅう、ぴゅう、と、川子が立て続けに三回くしゃみをした。

「くしゃみを三回するのは風邪なのだ」と柚男は言った。

「ならパブロンを買って帰る」と川子は言った。

「それがいい」と柚男は言った。

 しばらくすると注文した飲み物が来た。

 二人はそれからさっき見てきたアイルランドの映画について話した。

 景色がなんだか良い映画だった。

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