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Blaue Hyazinthe

作者: サエキソラ

2018年11月25日 文フリ東京で発行しましたが今後頒布予定もありませんのでweb再録しました。

その際に加筆修正しています。

また、カクヨムにて同じものを投稿をしています。

 ぱちり、と目が覚めると汚れた天井が見えた。苛々とした声音の独り言を聞きながら、何度か瞬きを繰り返すと、ぼんやりとしていた視界が明瞭となってくる。

 米神を伝う水滴に泣いていたことを知り、どこか遣る瀬無さを胸に体を起こした。

 室内にはガラス張りの大きな円筒がいくつも鎮座している。円筒の上部からは大小さまざまなコードが伸び、天井や床を這っていた。下部も似たようなもので、こちらは太いコードが多い。

 その近くを白衣を着た男がぶつぶつと何事かを呟きながら室内を歩き回っていて、気味が悪かった。円筒から少し離れた位置には紙や分厚い書籍が山積みになったデスクがあり、積み重ねることができなかったものは床に散らばっている有様だ。

 観察しているとぶるり、と体が震えて、何事かと思えば、自分の体がずぶ濡れなことに気づいた。横たわっていたシンプルな長方形の台も同じように水浸しになっている。裸体を濡らす水は長方形の台から零れ落ち、床に水たまりを作るだけでなく、ガラスが消失した、円筒だったらしいモノへと続いていた。その後ろにあるガラス張りの円筒の中には同じ顔をした人影が見える。

 どうやらわたしは生まれたばかりらしい。

 未だに続く、白衣の男から聞こえる発狂でもしたのかと思わざるを得ない独り言と状況からそう判断し、無駄に長い銀の髪を絞るように握った。ぼたぼたぼた、と水分が落下していく。地面に着地した音が響けど、自分の思考に夢中な男は気づかずに一人で騒いでいる。

 うるさいなぁ、と思いつつ、

「おはようございます」

 とだけ、男の背中に言葉を投げた。

 男はぴたり、と一瞬で静かになり、わたしは不機嫌な表情で自分の裸体から水分を取り除くため、肌の上に手を滑らせた。腕の上から下へと水分を誘導し、手を振りぬいて床へと投げ捨てる。逆も同じようにし、台から足を垂らして次は太ももから、と手を添えた。

「……目が、覚めたのか」

 気づくと男はこちらへと振り向き、黒縁眼鏡の厚いレンズ越しでもわかるくらいに目を見開き、わたしを見ていた。驚愕に満ちたその顔に眉を寄せ「おはようございます」ともう一度挨拶をすると、男は不機嫌なわたしへ一瞬で距離を縮めて、腕を掴んだ。痛みを感じるほど強く掴まれたために顔を歪めてしまったが、男はお構いなしといわんばかりに叫んだ。

「エルザ! ついに、ついに!」

「うっせぇ」

 鳩尾に膝を打ち込んだ。

 男の手が緩み、その隙にと足で押し出すように蹴り飛ばす。後方へと吹っ飛んだ男はデスクへと背中から突っ込んで、雪崩を起こした本や紙束の下敷きとなった。わたしは足を組み、その上に手を置いて背筋を伸ばし、より一層機嫌悪く男を睨んだ。

「ご機嫌よう、マクベス博士。わたしは博士により作られたホムンクルス一八三二号です」

「そ、んな、エルザは……」

「失敗じゃないですかぁ」

 わたしは馬鹿にするように、呆然とこちらをみる男へと吐き捨てた。男は目を見開いてわたしをみている。わたしは眉間にシワを刻み、口角を持ち上げて笑った。

 やがて男の目から光が消えたかと思うと、彼は書類に埋もれたまま独り言を再開させた。もうわたしは眼中になく、思考の海へと帰ってしまったようだった。

 そんなどうしようもない男を無表情で見下ろし、ため息をついた。

 ハロー世界。

 クソったれ。



 ***



「おはようございます」

 一日の始まりはきちんとした挨拶から、ということで、スカートでもお構いなしと乱暴にドアを蹴り開けた。それと同時に、感情のこもらない棒読みな挨拶を口にしたが反応はない(想定内だ)。ぱっと見渡した室内は片づけられておらず、本や紙束が散乱したままだった。

 昨日、後にした室内と一切変わりがないままである。

 変化らしい変化といえば、濡れていた台が乾いていることぐらいだろうか。あの液体は蒸発したらしく、水の跡が残っている。ぐしゃり、と顔を歪めて、パンプスの踵を鳴らし、部屋の中へ足を踏み入れた。

 男は昨日と同じ格好で眠っていた。本と紙束の下敷きになったままだなんて、図太い神経だろう。ため息さえつかず、手に持っていたバケツを床に置き、白いエプロンの紐を縛り直してから雑巾を絞った。

 さて、掃除の始まりだ。



 男がいる一角以外をきれいにしたところで、男が起きた。

 肉体労働を終えた達成感に浸っていたというのに、小さく聞こえたうめき声に邪魔をされ、顔を歪めて振り向く。男は眼鏡をかけなおし、寝起き特有のぼんやりとした雰囲気であくびをしていた。その様子を眺めていれば、男はあたりを見回して首をかしげている。いつの間にか周囲が片付いていたからだろう。先ほどまでのこの部屋の荒れようは、まるでゴミ廃棄場のようだった。

 仮にも生物を扱う研究室でその汚さはどうなんだ、と詰め寄りたいところではあるが、男も多少は意識していたのか生ごみの類はなく、ほとんどが本や紙などばかりだったので口を噤むことにしている。だからといって汚いことにはかわりはないので物申したくはあるが、屋敷を見て回って把握した環境から察するに、この研究室は及第点だと判断した。

 この屋敷は人が住める環境にない。埃は溜まり、蜘蛛の巣が張り、放棄されて数十年は経過していそうな有様だった。全く使用していない部屋は朽ち果てている。風呂場やキッチンといったところはかろうじて使えるだろうが、あくまでかろうじてだ。まともな生活など送れやしない。

 この男、今までどうやって生きてきたんだ。

 そう思う有様だった。

「え、エルザ、」

 わたしに気づいた男は、その瞬間だけ嬉々とした表情を浮かべるが、昨日のことをすぐに思い出して絶望したかのような顔へと変化させた。わたしは相変わらず顔がぐしゃぐしゃに崩れていて、一目で不機嫌だとわかるからなおさらだ。

「わたしはホムンクルス一八三二号です」

「……そうか」

「博士がいうには一応成功作であり出来損ないです」

 男の独り言はずっとわたしに関することだった。

 いやでも耳に入ってきた言葉を要約すると、そういうことになる。

 わたしのように自我を持ち、自律行動をし、服を着て言葉を話し、人間のように振る舞えるホムンクルスは今までいなかったらしい。目覚めても自我はなく、中身が空っぽな肉体ばかりが量産されていた。体のデザインはこだわり抜いた末に成功し、あとは自我を、ということらしいが、初めて得た自我らしい自我がわたしであったのだ。絶望もしたくなるだろう。

 二十年来の願いだったのだから。

「……君はエル」

「わたしの名前ですか?」

「そうだ」

「安直ですね」

「う、うるさい!」

 自分でもそう思ったのだろう。男は眉を吊り上げてどこか恥ずかしげに叫んだ。わたしは無表情のまま了承したという意味で頷き、そのまま掃除をするからでていけと男に告げる。男は微妙な顔をして嫌がる素振りをみせたので、埋まったままだったその腕を掴んで引っ張り上げて連行することにした。

「お、おい!」

「自室にいてください」

「自室っていわれてもなぁ……それよりエル、その服、どうしたんだ」

「作りました」

 屋敷を探索しているときに見つけたものを改造し、メイドとして相応しい服装に作り変えたのだ。いつまでも全裸でいるわけにはいかない。病気になってしまうかもしれないし、この体は女の形だ。男と過ごしていくなら、なにかと不便だろう。髪の毛も邪魔で切ってしまった。

「生まれたばかりだってのに、」

「ホムンクルスは生まれながらにさまざまな知識を有しています。これもそのひとつですよ」

「そうか」

 知らなかったな、と呟いて、抵抗気味だった力が失われる。

 先程の知識は基本中の基本だが、生活における細やかな知識や動作まで行えると思わなかったのだろう。また独り言を垂れ流しながら考え込んでいる。

 研究馬鹿だとは思っていたが、ここまでとは。

 誘導するわたしは楽ではあるが、知らない知識を目の前にぶら下げられていつか危ないことに巻き込まれてしまいそうである。

「ここで休息を」

「僕の部屋か? 残念だが眠れたものじゃ、……」

 誘導した先の部屋はきれいに整備されていた。埃っぽくもなく、ベッドは清潔なシーツで包まれ整えられている。

 窓は板で塞がれているのは、割れたガラスの代わりとなるものがなかったからだ。散乱していた本は積み上げられ、崩れた本棚は撤去してある。これもすべて昨日のうちに行った。

「なにか?」

「……お前が?」

「荒れ屋敷でも生活に必要なものを保持していた博士の功績ですよ」

 必要最低限の、それも限定的ではあったけれど。

 それでも修復するに足る資材があった。この服もそうだ。後生大事に着れない女物の服も保管していたあたり、執念深さが見えて恐ろしくなり、その愚直さにため息がでる。

「とりあえず、博士は休息を」

「いや、ここは君が使え」

「謹んで遠慮いたします」

「僕は研究室がいい」

「わたしはエルです」

「……わかっている」

 ぐしゃり、と歪んだ顔を無表情で眺める。本当にわかっているのなら、なぜそんなことを言い出すのか。感情ぐらいコントロールしてみせろと、いわれていただろうに。

「博士、お早く」

「……わかった」

 大人しく部屋へと踏み入る博士の背中を見送る。ずいぶんと寂しい背中だ。三十代後半の研究者としては逞しい体つきをしているが、とても弱弱しく見える。どれほどの月日を一人で過ごし、研究に没頭し、ただ一人を求め続けたのだろう。

 そんなことをして喜ぶと思っているのか。

「失礼いたします」

 美しい姿勢で頭を下げた。振り向いた動作は見えたが男の顔は見えず、ドアは静かな音を立てて閉まった。



 ***



 甘やかな匂いに誘われて歩いていく。花のような気もするし、ハニーミルクのような気もする、気持ちをくすぐる匂いだ。

 柔らかく、ふわりとした匂いは嫌いじゃない。

 そういうと彼女は「甘ったるいものは嫌いなくせに」と笑うのだ。それに僕は笑って「あぁ嫌いだとも」と答えて、微笑む彼女のどうして? という視線に重ねてこう答える。

「君を思い出すからさ」

 それは紛れもない、幸せだった。



 ***



 使用できる丸い形をしたテーブルをきれいに整え、ぐっすりと眠りこける男の部屋に持ち込んで遅めの昼食準備をしていると、いつの間にか目が覚めたらしい男がわたしを見ていた。ぎゅっと眉を寄せて「お食事です」とだけいい、テーブルのセッティングを続ける。

 机の上に並べられていく食事は簡素なものだが、屋敷などから伺えるこの男の生活にしては、上出来の部類だろう。なにせ食材が非常用のものや簡易食品ぐらいしかなかった。簡単に食事を済ませられるとはいえ、こんなものを食べ続けては体調も悪くなるし死期も早まるというものだ。いつからこんなものを食べているかは知らないが、よくぞいままで生きてこられたものである。

 この屋敷は森の中にあるため、少し外に出れば食材に困ることはなかった。菜園だって作れそうだ。閉じこもるなら、そのぐらいしたほうがいい。彼だって、別に死にたいわけではないんだから。

「エルザ」

 背中に投げかけられた声を無視する。

「……エル」

「はい、なにか」

 きりよく準備ができた。振り返り、起きて座れという意味を込めて椅子を引き、男をみて待ちかまえる。男は目を細め、きゅっと唇を引き結んだ。

「君はなんでメイドの真似ごとを?」

「博士に作られたので」

「だから僕がご主人だと?」

「あとは、まぁ、暇なので」

「そうか」

「そうです」

 話はそこで終了だといわんばかりに、椅子を引き直した。男はため息をひとつ吐き、立ち上がって椅子に座る。わたしは満足げに背もたれを撫でて、手を離した。

 テーブルの脇に回り込み、意外なほどテーブルマナーを遵守して食事を始めた男のフォローをする。

 節くれだった手は年齢の割に老いている。細かい傷跡も多く、苦労してきたのだろうとすぐに推測ができた。

 荒れ果て廃墟のような屋敷。

 山のように積まれた専門書。

 殴り書きされた研究ノート。

 しまいには年齢に似つかわしくない、老いた手である。どことなく老け込んでいるように見えたのは見間違いでなかったようであるし、どれもこれも痛々しさが見て取れる。

 男が求めた願いは生半可な努力では得られない領域のものだ。それがわからないほどこの男は愚かではない。そこまでして叶えたい願いを、ずっと追いかけ続けている。

 なんと哀れな。

「ご馳走さま。美味しかった」

 綺麗に平らげた男はぶっきらぼうにそういう。わたしは一礼して、食器を下げるために動いた。男はその様子を眺めている。わたしは淡々と食器を片付けて、部屋から退室した。彼はみているだけで、なにもいわなかった。



 キッチンで細々とした片付けを終えて男の寝室へと戻ると、男の声が部屋から漏れ聞こえていた。ドア一枚挟んでいるためか内容までは聞こえなかった。

 長く一人でいると独り言が激しくなるのだろうか、と考えつつノックをするか悩んでいると、男の声がどこか悲痛さを滲ませていることに気づき、眉根を寄せる。

 曲がりなりに主人としている男の悲痛な声など、聞いていて耳が痛い。ここは聞かなかったことにして立ち去るべきだろうが、わたしはなんの躊躇いもなくドアへと体を寄せて、耳を押し付けた。

「何故……何故だ……」

 絞り出された声は苦渋に満ちていた。

「僕はただ、」

 そのあとが続かない。続いているのだろうけれど、聞こえない。聞こえなかった。そういうことにした。

「博士、お飲み物をお持ちしました」

 ドアから身を離し、器用に手に持ったままだったお盆を持ち直して声をかける。数秒後に「いらない」と言われたが無視してドアを開けた。

 男は椅子に座ってこちらをみている。呆れた顔をした男は「いらないといっただろ」というが、やはり無視してわたしは室内へと足を踏み入れた。

「博士は水分補給を怠り気味です」

「生きているからいいじゃないか」

「健康は大事です。飲みましょう」

「……仕方ない。お前がいうなら」

「エルですよ」

「知っている」

 男はテーブルの上に置いたグラスを少し眺めてから、勢いよく飲み干した。レモンを混ぜた水は予想外だったのか、一瞬だけ目を瞠ってグラスを手に持ったまま、眺めていた。わたしがおかわりを注ごうとすると止められたので、いつでも飲めるようにと水差しをテーブルの上に置く。

「研究室を掃除しますので、今日はこのまま自室でお休みください」

「あ、いや、そういうわけにも」

「お休みください」

「それは困るんだが、」

「お や す み く だ さ い」

 強めの声音で、強調して一文字ずつ区切っていえば、さすがに男は黙り込んでしまった。しかし諦めていないのか、男はちらちらとわたしへと視線を投げかけてくる。それをわたしは無表情で見下ろしていた。頑として譲らないつもりだし、男が先に根負けすることをすでに見越している。

 わたしは男がこの顔に弱いことを知っていた。

「……わかった」

「おやすみなさいませ」

 頭を下げて退室した。真っ直ぐに突き刺さる物言いたげな視線は無視した。



 ***



 ぺらり、ぺらり、と一定の速さでページをめくる。

 ぺらり、ぺらり、ぺらり。

 癖のある文字をひたすらに追いかけていく。

 摂食するように。

 記憶するように。

 祈りを捧げるように。

 自分の中へと取り込んでいく。

 どす黒い気持ちが腹の底で渦巻くのを無視して。

 ひたすらにページをめくっていく。

 綴られている愛に反吐がでそう。

 綴られている想いが憎々しい。

 あぁどうか、どうか、研究などこのまま、このまま。

 成功などしなければいいのに。



 ***



 なにが原因だったか。覚えていない。恐らく忘れてしまうほどどうでもよくて、些細なことだったはずだ。

 きっとタイミングが悪かった。

 わたしはずっと顰めっ面で機嫌を悪くしていたし、男はそんなわたしに対してどう接すればいいのかわらかないとばかりに、右往左往していた。それを見てわたしはさらに機嫌が凶悪になり、男は神経を使った。

 そんな状況からすれ違いが起こり、重なり続け、他人という個体と共に過ごさなければならない現状に精神を摩耗させていき、互いにフラストレーションがたまっていったのは当然の帰結といえるだろう。

 わたしたちは喧嘩をした。

「おいエルてめぇいい加減その機嫌悪いままいんのやめろや‼︎」 

「うっせぇんだよ変態サイコパス野郎が‼︎ 誰のせいでこんな面晒してっと思ってんだ‼︎ ぁあ⁉︎」

「おーそりゃ僕だっていいてぇのかよ‼︎」

「ほかに誰がいんだ? もしかしてイマジナリーフレンドでもいんのか? いい歳したおっさんがお可哀想ですこと‼︎」

「このクソ女ァ‼︎」

 男は武闘派の研究者だった。日課の筋力トレーニングで鍛え上げられた肉体から繰り出される拳は、なかなかに重い。ホムンクルスとはいえ女の形をしているというのに、容赦なくわたしの顔も狙ってくる。

 このクソ野郎。

 内心そう罵倒し、口内に溜まった血液を吐き捨てた。明日にはおそらく頰が腫れ上がるだろうし、しばらくは何を食べても傷に沁みるだろう。胴体に受けた殴打も内臓に響いていて、見た目よりダメージを負っている。男もわたしと似たような負傷具合だが、足つきはしっかりしているので、それほどダメージはなさそうだった。

 一流の研究者のくせに護身術に収まらない武術も習得しているとか、万能すぎやしないか、この男は。

「まーじクッソ腹立たしいなてめぇはよ」

 そういいながらふらつく体を支えるために、足を地面に叩きつけた。ついでに転がっていた男の眼鏡を踏み潰す。それに留まらず、パンプスの底でぎゃり、と床に擦り付けるようにして踏んだ。レンズは粉々になり、フレームはひしゃげてしまっている。ばきん、という音がしたので、折れてしまったかもしれない。

「こ、の、出来損ないが‼︎」

 大事な眼鏡だったようで、男は激昂して殴りかかってくる。わたしは剣呑な顔つきのまま、迎え撃って見事鳩尾に一発、拳をぶち込んだ。

 口から血液と唾液を吐き飛ばした男を、続けて蹴り飛ばそうとするが足を掴まれてしまう。男はぐいっと掴んだ足を持ち上げて転ばそうとするが、地面に両手をついてそれを阻止し、カポエイラにある足技のように下半身をぶん回した。

 一か八かの勝負ではあった。体は軋んで痛かったし、いくら武術の技量があっても女の体は非力だ。男は引きこもりとはいえ、一応鍛えてはいたし、わたしよりダメージを負ってはいない。賭けだった。

「ぐッッ」

 足がどこかにぶつかる衝撃とともに、男は短く呻き、よろめいた。そのまま数歩後ろへと歩を進め、倒れる。

 男を蹴り倒すことに成功した。

 どすんっ、という音でそのことを知り、同じようにわたしも床へと体を転がした。互いの荒い息遣いが部屋に響いている。男もわたしも、限界だったのだ。

 しばらくは何も言葉を発さずに、ふたりしてぐったりと体を横たえていた。体に宿っていた熱が、ひんやりとした床へと逃げていく。暑すぎたので正直助かるな、と深呼吸をした。

 頭を傾け、何気なしに確認した室内はひどい荒れ具合で、乱闘の激しさを物語っている。

 きれいに重ねてあった書類の紙束は散乱しているし、本の山も崩れてしまっている。本棚が壊れているのを見て、男を蹴り飛ばしたときに突っ込んでいたことを思い出した。そのあとにわたしは殴り飛ばされて、床に積み上げられていた本の山に突っ込むことになったのだったか。

 怒髪天を衝いたからとはいえ、大暴れしすぎたような気がする。

 正気に戻った頭で、見るも無残な室内に少しだけ反省していると、

「フッ、あっはははは」

 男が突然笑い出した。

 笑う場面などどこにあった。打ち所が悪かったのだろうか。もしかして、驚くほど達者な体捌きにムキになって対抗したから、思いっきり殴り蹴ってしまったのがいけなかったかもしれない。いくら男が日常的に筋力トレーニングをしているとはいえ、普段は机にかじりついているのだ。予想よりダメージが大きくても納得はできる。研究が中断されようがどうでもいいが、頭がおかしくなった男と生きていくのはごめんだ。

 そんなことを若干青ざめながら考えて、笑った拍子に痛んだ体を折り曲げ、さらに咳き込む男の姿を見ていた。

「っはー……いてぇ。エル、お前、いいのぶち込んできたな」

「博士には負けます」

「そうか」

 目のあった男は、やはり笑っている。

 顔が腫れ始めていたので、早く冷やさなければならない。

 そう思うが、わたしも体が痛く、重く、動くことはできなかった。男は目を細めて、どこか懐かしそうにしている。これだけ痛めつけられているというのに、その目から怒りは消え失せていた。

「ほんっと、口悪いの、まんまあいつだ」

 ひゅっと細く、短く、息を吸い込んだ。そのまま吐き出せず、空気を肺に滞留させたまま、じりじりと酸素を取り込んでいく。その間も男は懐かしげな目をこちらに向けて、笑っていた。きらきらと目を輝かせて、どこかへと思いを馳せているようだった(どこかなどわかりきったことだったけど)。

 そんな男のきらめきと比例して、わたしは絶望に蝕まれていくように、心の中が冷却されていくのを見守っていた。

 あぁ、本当に。

「……エル、お前、」

「失礼しました。直します」

「あーいや、構わないが」

「直します」

「……そうか。まぁ、女ってこともあるし、それがいいだろう」

「はい。主人である博士に手をあげてしまい、申し訳ございませんでした」

「んー、いや、僕も悪かったし、両成敗にしよう。すまなかった」

「罰は受けます」

「僕がいいといっている」

「ですが、」

「いいんだ」

「……」

「いつも、こんなもんだった」

「そうですか」

 クソったれ。

 

 

 ***



 拳で語り合ったからとは言わないが、あの後からの男との暮らしは、それなりに上手くいっていた。

 わたしは口調を直した以外は相変わらずであったが、男がわたしに関して諦めたことが良かったのだろう。わたしが身の回りの世話をすることに苦悶の表情をすることはなくなったし、エルと呼ぶようになった。男が名付けたわたしの名前を、きちんと個人の名前として、呼ぶようになった。

 男によれば、ここ最近になってわたしは笑うようになったらしい。ずっと不機嫌そうな顔をしてどうすれば良いのかわからなかったと、冗談混じりでいわれた。

 一時は殴り合いの喧嘩をするほどだったけれど、時間を積み重ねることでそんな話をするぐらいには、わたしと男はよく話すようにもなっていた。

「博士、食事の時間です」

「ん、あぁ、もうそんな時間か」

「部屋に準備してありますので」

「わかった、すぐいく」

 机に向かったまま、視線をこちらに向けもしないでそう返事をする。何か小難しいことでも書いているのであろう手は止まらず、ペンが紙をこする音が部屋に響いている。わたしは研究室から退出せずに、ドアを開け放ったまま男を待っていた。白衣を着た男の背中を見つめて、見つめて、見つめ続けて、ようやく響いていた音が止まった。ゆっくりと振り向いた男は苦虫をかみ潰したような顔をしていた。

「わかった、わーかったよ、すまないって」

「何も発言しておりませんが」

「目が訴えてる。背中に突き刺さるんだよ。〝早く! せっかくの料理が冷めちゃうでしょうが!〟ってさ」

「さすが博士ですね」

「さすがにわかるよ」

 全く似ていない声真似に笑顔を返せば、男もへらっと笑って立ち上がる。身を引いて廊下へと下がると、数秒後に男が部屋から姿を現した。

 男は「いくぞー」と一言だけいい、自室へと向かって廊下を歩いていく。後ろで一つに結んでいる長い黒髪が背中で左右に揺れている。わたしは少し癖のある黒髪をじっと見つめていた。

「おーい」

「ただいま参ります」

 遠くなって顔がよく見えないが、男は不思議そうな顔をしているのだろう。声音でなんとなくわかった。わたしは思考を捨てるように頭を振り、固まったままの足を動かした。

 歩くごとに気持ちを置き去りにできればいいのに。

 ふと、そんなことを思った。



 ***



 屋敷の補修をしながら掃除をしていると、男が部屋から顔を覗かせた。ややつり気味の猫のような目でじぃ、とこちらを見つめてくるが、それを無視して廊下をモップで磨き続けた。

「……エル」

「なんでしょうか」

 無言の攻防の末、男がしびれを切らし話しかけてくる。作業の手を止めることなく、言葉だけで返答すると、視界の隅で唇を尖らせた顔が見えた。

 男は実年齢に比べて、とても幼い仕草をする。口調すら若く感じられるので、成長でも止まっているのかとたまに思う。

 本で読んだのだが、男はいつまでたっても子供なのだそうだ。純真な心を失わないといえば聞こえは良いけれど、わたしからすれば面倒だと言わざるを得ない。

「僕、エルの主人だと思うんだけど」

「そうですね」

「強制するつもりはないけどさ」

「はい」

「呼びかけたらせめてこっちむいてくれてもいいと思わねぇ?」

「それは申し訳ございませんでした」

「っていって手は止めないし!」

 うるさい。

 大げさなリアクションで騒ぐ男を横目に、それでもモップを手放さないで掃除をしていると、じとり、とした目を向けられた。反応せずにいればそのまま拗ねて部屋へと引っ込んでいく。それが三十後半の男がやることか。まるで子供だ。

 よく話すようになったとはいえ、多かれ少なかれギクシャクした関係になると考えていたから、この展開は予想外だった。もちろん、ここまで男が子供っぽいことも。

 大きくため息をついて、背筋を伸ばした。モップがけのために前かがみ姿勢をキープしていたせいか、筋肉が固まり背中がみしぃ、と痛む。しばらく姿勢を固定して痛みが去るのを待ち、軽く体を動かした。

 男が引っ込んでいった部屋のドアを眺めてため息をもうひとつ。

 気まぐれにちょっかいを出される身にもなってほしいところだ。

「博士」

「なんだよ」

「庭の菜園を手伝ってもらえますか」

「なんで」

「気分転換にでも、と」

「そうか」

「いやなら、」

「いく」

 言葉を被せてきたと思ったら、それと同時にドアが開け放たれた。すぐ目の前を板が通過したため、強めの風がおこり髪の毛を後ろへと追いやってしまった。もう一歩前に立っていたら激突していただろう。怪我をしてしまっていたに違いない。それなのに男は特に謝ることもなく、目を細めて笑うのだ。

「エル、行こう」

 まるで構ってくれたのが嬉しいといわんばかりの、子供の顔だ。

「かしこまりました」

 わたしは軽く目を伏せて一礼した。

 菜園のほうへと案内するために先に歩くと、男は後ろを上機嫌についてくる。先ほどまでの不機嫌そうな雰囲気は微塵もない。そういえば、こういう話も本で読んだこともあった。

「ちょうど集中力が切れて困ってたんだ」

「そうですか」

「エル、さっき笑ってたろ」

「さぁ、わかりません」

「絶対そう」

「そうですか。博士は機嫌がよろしいようでなによりです」

 男は身勝手であり単純な生き物である、と。



 ***



 男に力仕事をさせ、庭の菜園を整えてそれなりの形ができあがった頃だ。

 なにか食材になるものがないかと、散策していた時に広場を見つけた。そこは豊かな土を持ち、手狭に感じ始めていた菜園を新たに作るには、うってつけの場所だった。

 その場所を第二の菜園にしようと決め、通いはじめてしばらく経つ。形はできあがってきたので、あとは森の中でみつけた群生している食物たちを植え替えればいいだろう。ベリー類も見つけたのでキッチンを整えればお菓子も作れるかもしれない。そういえばもう小麦がないから菓子類はさすがに無理だろうか。砂糖は備蓄にあったのでジャムは作れそうだ。食糧庫に少しだけ残っていた主食になるものがなくなるので、小麦畑を作ってもいいかもしれない。探せばどこかにあるだろう。収穫は……ずいぶん先になってしまうけれど。

 そんなことをぼんやりと考えながら足を動かしていれば、目的の場所についた。

 そこは菜園予定地は森の中にありながら、ぽっかりと円形に開けた広場だ。上空から日の光が差し込むとはいえ、鬱蒼とした森の中にあるというのにあたたかな光に満ちている。木々によって切り取られた空は箱庭を模しているようでなんとなく好感を持っていた。

 そんな光に包まれる場所に、やせ細った男の背中があった。

「よぉ」

 長い黒髪を揺らして肩越しに呼びかける男に、わたしは目を丸くして凝視するしかない。くるりと振り向いた男は、へらへらと笑ってわたしの名前を呼ぶ。

「エル」

 なんだというのか。

「この場所、知ってたんだな」

 だからなんだというのか。

「やっぱりお前はエルザの分身だよ」

 やめてほしい。

 そういわないで欲しい。

「エルザもこの場所が好きだったんだ」

 目が細められ、緩く口角があがった男の顔は、これまで一度も見たこともない。

 幸福に満ちていた。

 荒れ果てた屋敷で取り憑かれたかのように、死へと全力疾走しながら研究している姿とはかけ離れた顔を、

「むかし、ここには小さな泉があってな。いろいろあって埋まっちまったが、ここを森がこれ以上浸食することはなく、こんな開けた場所になったわけだ」

 研究しているときの殺伐した雰囲気でもない。

 気まぐれにちょっかいをかける幼さでもない。

 この穏やかな場所であの女のことを想う男は。

「僕とあいつの、秘密の場所だったのさ」

 愛に満ちていた。

「……そう、ですか」

「あぁ、懐かしい」

 男が愛情をもって懐かしめば、わたしは憎しみをもって嫌悪する。

 あぁ、恨めしい。憎らしい。

 ――羨ましい。

「この近くで素敵な場所といったらここしかないだろ。すぐにわかったよ」

「違いますけど」

「ん? 違うのか?」

「違います。こんなところ、ただ菜園に都合が良い場所なだけです」

「そうかぁ? 僕はすごい綺麗だと思ってるけど」

「わたしはあの女じゃない」

 男の目が見開かれる。それを見て、わたしも同じように驚愕に満ちた顔になる。

 木々の隙間を風が駆け抜けて、呼応するようにざわめきが広がった。少しだけ伸びた銀の髪が視界を覆い隠し、男も姿も隠した。顔を叩く髪が、まるで自分のことを叱っているように感じる。

 蠢く髪の僅かな間から見えた男の顔は、ひどく穏やかなものだった。

「知っているよ」

 苦痛に歪むわけでもなく、絶望の淵から絞り出すような声音でもなく、男はただただ凪のように平穏で、静かにそう告げて、薄く笑うのだ。

「エルザの血液を媒介にして生まれた君だけど、違うということぐらいわかっているさ」

 ずっと欲しかった言葉を、男は口にした。

 それなのにこの胸にある痛みはなんだろう。

 痛くて、痛くて、泣いてしまいそうだ。

「そろそろ帰ろう。ご飯を作ってくれ」

 いつもより柔らかい男の声にわたしは頷くだけで、一言も発せず踵を返した。

 


 ***



 あの広場でのことは、何気なく流れゆく日常の一部だというように、特にわたしたちの生活に支障をきたしはしなかった。

 わたしも男も普段と変わりなく、意味もない会話を重ねながら緩やかに流れていく時間を過ごしている。

 その中で、いくつか気づいたことがあった。

 わたしのあとに生まれたホムンクルスは全員意思のない肉体で、しばらく経つと動かぬ肉塊と化してしまったが、あのガラスでできた円柱には後続が仕込まれず、空っぽのままであった。研究を放棄したのかと思えば、それでも男は机にかじりついている。どうやらわたしの肉体に関することを研究しているようだった。定期的にメンテナンスと称して行われる調査に心血を注いでいるらしい。わたしは失敗作であるというのに、熱心なことだと丸まった背中を眺めていた。

 常に白衣を着用する男の背中が、いつのまにか小さくなっていることに気づいたのもこの時だ。男は元々小食ではあるが、ご飯はきちんと食べさせているし、残すことはない。それなのに男は徐々にやせ細っていき、自慢していた筋肉は見る影もなくなっている。

 少し前に長かった黒髪を切り落としたもの、きっと髪の劣化が激しかったからだろう。坊主にしてしまおうかとぼやいていたが機材がなかったため、断念していた。

 そういえば、眠る時間も伸びた気がする。男は朝に弱く、起きてくる時間はいつも遅かったが、それは夜遅くまで起きているからだ。それがいつからか夜は早く寝台に潜り込むようになり、朝は相変わらず遅いままだ。

 時間とともに訪れる変化にしては、少し不自然だった。

 不自然だと思ってしまった。

 わたしは細く息を吸い込み、目を閉じて吐き出した。

 胸のうちから何者かが訴えている。

 考えるな、直視するな、感じるな、気づくな。

「そういうわけにもいかないだろう」

 はっきりと発言したはずなのに声が震えていて、少し笑ってしまった。



 太陽は空の一番高いところへと昇り、少しづつ降下しはじめていた。ちらり、と窓の外へと視線をやり、淡い光が差し込む廊下を歩く。傷んだ床板がぎしぎしと音を立てている。

 耳障りな音に最初は顔を歪めたが、いまでは慣れてしまって平然と歩くようになっていた。そういえば廃墟と化した屋敷の修繕が落ち着いてきたから、そろそろ廊下をどうにかしようと考えていたことを思い出した。毎日を過ごす個室の修繕ばかり重点的に行っていたので、廊下などといったそういう部分は後回しになっていたのだ。資材があるとはいえ限度があったし、優先順位をつけて、地道に活動していたということもあるのだけど。

 まぁ、もう関係ないか。

 自嘲気味に笑って、滲む視界を誤魔化すように眉間へと力を入れる。

 まだ早い。

 まだ早い。

 そう言い聞かせて、男の部屋へ向かっていた。生活がだらしなくとも、昼夜逆転していない限りは遅くとも昼前には起きだしていたのに、今日は陽が傾き始めている時間でも起きてこなかった。

「おはようございます」

 そう声をかけながらドアを叩く。反応はない。一度深呼吸してから「失礼します」とドアノブを回した。

 室内は日が差して明るい。板張りにされていた窓へ、運良く見つけたガラスをはめ直したからだ。カーテンにより薄暗くはなっているが、室内灯が必要なほどではない。

 ぐるりと見渡すと、相変わらず何もない部屋だった。生活の基軸を研究室に置いていると明言するだけある。初めて見た男の自室は何もないどころか、荒れ果てていたぐらいだし、わたしが何かと小言をいうようになってからここで眠るようになったとはいえ、使用用途はその程度でしかない。

 そんな部屋の隅にあるベッドに、男が眠っていた。

 わたしは無言でベッドへと近づき、脇に立つ。男は細い息を繰り返していた。わたしはそれを無表情で見下ろすばかりだ。

「……ん、あぁ」

「おはようございます」

「おはよう」

 男がゆっくりと瞼を持ち上げる。まるで重労働をしているような動きだった。見えた目の色はくすんでいるような気がする。

 あぁ、なるほど。

 これが死を迎える色なのか。

「お前は変わらないな」

 白い肌をして、痩せこけた頰を緩ませ、男が目を細めて笑う。わたしはなにも答えず、ただただ男を見ていた。

 年の割にシワが多く刻まれた男は、願いを叶えたのだろうか。

「願いなど、とうに諦めていたよ。諦めるのが怖かっただけで、万が一の希望に縋っただけで、なにもせずにはいられなかっただけで、今更生きていられなかっただけで」

 なんだろうか。

 今わの際の懺悔だろうか。

 語りだした男はわたしの方を見るが、目が合わなかった。焦点が合っていないように見える。もう見えていないのかもしれない。

「死人は生き返るわけがない。当たり前のことだ。でも、エルザのいない世界では生きていける自信がなかった。エルザは僕に生きてほしいと願った。残酷なことだよ」

 くっくっと笑えば、男は息を詰まらせて咳き込んだ。体を横に倒して、胴体を丸める男の背中を撫でて、落ち着かせようとする。荒い息を繰り返しながら、肩に添えられた手を掴み、男がわたしを見る。

 エルを見る。

「だから君を作った」

 わたしは相変わらずの無表情で男を見ていた。

「体はできた。あとは魂だ。魂と呼ばれる記憶だ。彼女はこの世界で残存していた数少ない魔法使いでもある。血液に宿る魔力がきっと媒介になる。エルザから聞いた話をもとに僕はそう考えて、思い込んで研究し続けてきて、」

 ぐらり、とめまいがしそうだった。

 男はなにを語っている。

 何を伝えたい。

 何を残そうとしている。

「失敗作である成功作ができた」

 男の声がやけにはっきりと聞こえた。

 今更それを伝えて、いったい何になるというのだろう。そんなこと、このわたしが一番よくわかっている。

 わたしはエルザの成り損ない。

 失敗作であり、ある意味での成功作。

 そんなの、わたしが生まれたときに喚いていたではないか。

 今更、何故。

「でも、間違っていたんだ。僕が、間違っていた。もしエルがエルザだったのなら、きっと僕は、本当の意味で狂っていたし」

 弱弱しく握る手に、力がこもった。

「本当の意味での愛を知らなかった」

 それをわたしに伝えて何になるというのだろう。

 遺して逝く男の自己満足でしかないというのに。

 遺される側に何を託して逝くというのだろうか。

「泣くなよ」

 視界が滲んでいると思ったら、わたしはどうやら泣いているらしい。

 ぱちり、と瞬きをひとつすると、シーツへと水滴が吸い込まれていった。不明瞭な世界だけれど、男が笑っているのがわかる。なんとなく悔しくなって、ぐいっと袖で拭えば、男の手に阻まれる。力もない、弱すぎる手だったけれど、逆らえる気がしなかった。

 わたしの両目からはぼろぼろと水分が零れ落ち続ける。シーツを濡らすだけでなく、男の乾燥した肌も濡らしていく。

 溢れ出た余分な水が男を潤せばいいのに。

 人間は八割が水分でできているっていうではないか。ならばこのとめどなく流れ出る涙が、男に吸収されればいいのに。

 そうすればまだ生きられるかもしれないでしょう?

「ほんとうの、愛だと、いうの」

「僕はそう思っている」

「愛だというのなら」

「ごめんな」

「わたしはもらっていた」

 男が目を見開く。

「名前をくれて、ありがとう」

 わたしはホムンクルス一八三二号。

 本来であれば、記号が名前であるはずだ。だけど男はわたしに個体名を与えた。不承不承でも、仕方なくでも、何でもいい。

 それでもわたしはそれが愛だと。

 そう思ったのだ。

「……そうかぁ」

 男が穏やかにそう言うと、わたしを掴んでいた手が落ちていった。重力に従った手はベッドの上に転がり、ぴくりとも動かない。男の目からは涙が零れていて、干からびているのに勿体ないなぁと場違いなことを思った。

 わたしは声をあげて泣いた。



 ふらふらとした足取りに呼応するように、床板が鳴る。うるさい、と思う感情さえなくなってしまった。

 男の遺体を埋めるのはどこがいいだろう。あの森の広場が良いかもしれない。エルザがすきで、男もすきな場所だ。きっと相応しい。生存するための菜園予定地が墓となってしまったのは皮肉なものだ。

 泣きすぎると目が腫れて頭が痛くなるらしい、というのは初めて知った。ここまで泣いたことがないからだろうけど、ホムンクルスでも知らないことがまだまだたくさんあるというのを思い知った。

「っはー……」

 鼻が詰まり、口から息を吐き出した。息苦しいったらない。

 そういえばどこへ向かっているのだろう。頭がぼんやりとしていて思考がうまく回らない。男の遺体を整えようと思っていたのだったか。そのために資材置き場へ向かおうとしていたのだったか。そうだった。そうに違いない。

 なのに何故たどり着いたのはここなんだろう。

 いつもひとりで訪れる、さまざまな分野の本がある部屋。

 書庫とでも呼ぶべきだろうその場所は、数年前まで男が使用していたらしく、あまり朽ちていなければ本の状態も悪くはなく、暇さえあればわたしはこの部屋にこもっていた。

 ドアは壊れて閉まらない為に開けっ放しにしてある。部屋にある室内灯は使えなくなっていたが、窓やドアから差し込む光で十分だった。

 部屋の中へと、薄く長方形の光とそこからから自分の形をくり抜いた影が伸びている。昼間だから室内は明るく、読む分には苦労しないだろう。わたしは室内へと足を踏み入れて、もう定位置とないっている椅子へと向かった。

 椅子と一緒にある机の上には乱雑に本が積み重なっている。

 この書庫には四方の壁に天井まである本棚が設置されているが、それでも収まりきらずにいたるところに本が転がっていた。積み重ねすぎて、本棚の一番下は見えなくなっているぐらいだ。整理する前は足の踏み場がなかったので、これでもマシな方である。

 定位置までたどり着くと、乱暴に座った。横座りをして足を組み、背もたれを利用して頬杖をつく。しばらくドアの方を無意味に眺めて、横目で机の上に積み重なった本を見下ろした。

 机の上にある本たちにはタイトルがない。

 装丁も同じ、深い緑色の革表紙だ。おもむろに手を伸ばし、その中から一番古い一冊を抜き取る。膝に置いて、適当に開いた。


  〇月✖日

  研究所への視察に騎士団所属の魔法使いが

  やってきた。

  女だ。

  帰ってほしい。


  〇月✖日

  魔法使いの女がやたら口出ししてくる。

  邪魔だ。


  〇月✖日

  同期がどうやら惚れたらしい。

  お前彼女いただろ。


 日記だった。

 男の筆跡で書かれるそれは、長くても四行、短くて二行程度の簡潔なものだった。月日の記載しかないので何年前のものかわからないが、内容から男とエルザが出会った頃のものとわかる。

 何度も読んだそれを、わたしは後を追うように読み進めていった。


  □月✖日

  研究が遅々として進まない上に

  魔法と組み合わせろだなんて無理。

  錬金術とそもそもの原理が違うとわかっていない。


  □月✖日

  魔法使いの女が差し入れを持ってきた。

  何が入っているかわかったもんじゃない。

  そもそも僕は甘いものが嫌いだ。


  □月✖日

  連日魔法使いの女がやってくる。

  君のタイプはなんだとうるさかったから

  メイドと答えた。

  勘弁してほしい。


  △月✖日

  調合の失敗続きでいると魔法使いの女が

  口を出してきた。

  口論になったがよくよく聞くと

  魔法使いの女の助言で成功した。

  礼儀として御礼と謝罪をした。

  てかなんでこいつ僕のラボに居座ってんの。


  △月✖日

  魔法使いの女が甘くない菓子を

  差し入れしてきた。

  甘くないやつなので受け取った。


  △月✖日

  その知識量はどこから覚えたんだと聞いたら

  世界中を飛び回っているからだといった。

  魔法使いの女は少し寂しそうだった。


  〇月✖日

  気づくと魔法使いの女が研究所に

  やってきて随分経つ。

  同期は彼女との修羅場を乗り越えて結婚した。

  別れてなかったのかよお幸せにな。

  魔法使いの女は僕とラボで過ごすようになった。


  〇月✖日

  国から面倒なことをいわれた。

  魔法使いの女が消えた。


  〇月✖日

  城へ行く。


 男の日記は一度、ここで途絶えた。それまで書かない日が続いても、長くて二週間程度だったのに数か月ほど書かれていない。内容から察するに、大きな何かがあったのだろう。

 久々の日記は、きっとハッピーエンドだったのだろうと推測するにあたるものだ。


  名前はエルザというらしい。


 その一文で、この日記は終わっている。

 わたしは顔を歪めて、膝にあった日記を放り投げた。床に積みあがった本の山の上に落ち、何度かバウンドして床へと転がり落ちる。それを睨みつけながら、次の日記へと手を伸ばした。

 そこからの日記には、男とエルザの日々が綴られている。

 エルザが残存する数少ない魔法使いの中でも、稀有な力を持っていたことや、男は錬金術を研究する人材の中でも特に優秀だったこと。互いに生きる世界が違いすぎてしょっちゅう衝突していた様子や、それでも共に生きていく道を選んだこと。

 いろんなことが読み取れる。ただの文字でしかないのに、多くの感情や光景を訴えてぶつけてくる、熱量を持った不思議な文字だった。

 わたしにはこのような記憶などないし、思い出もないのに、鮮明に思い出せて脳裏に焼き付きそうだと、頭がくらくらした。

 男にとって大事な思い出が詰まっている記録だった。

 だからわたしは憎しみを込めてページをめくる。

 癖のある字をひたすらに追いかけていく。

 飲み込むように。

 焼き付けるように。

 絶望するように。

 心で泣き叫びながら落とし込んでいく。

 どす黒い気持ちが腹の底で渦巻くのを笑って。

 ひたすらにページをめくっていく。

 綴られている愛に反吐がでそう。

 綴られている想いが憎々しい。


 わたしだって愛されたかった。


 わたしはホムンクル一八三二号。

 他のみんなは意識がないのに、わたしは培養液の中にいたときから意識があった。そこからずっと、あの男を見て、聞いて、男が大事にしている女を知り、男の成し得たい願いを知り、自分がどんな存在かを知った。

 培養液の中のいるわたしに向けている、あの、柔らかいあの眼差しは。

 わたしのものでないと。

 世界はなんて残酷なのだろう。

 どうして成功してしまったのだろう。

 どうして生まれてしまったのだろう。

 どうして、どうして、どうして。

 名前を くれたの。

 男へ告げたことに嘘偽りはない。嬉しかった。人として扱ってくれて感謝している。あれは愛だと思っている。

 だからこそ思わずにはいられない。

 わたしは、そう。


 あなたに恋をしていた。



 ***



 何十冊とある日記の、何度目かの読破を泣きながら迎えて、椅子の上で膝を抱え丸くなり、朝日を待っていた。短い日記とはいえ、かなりの年数分があるものだから読了までにそれなりの時間はかかる。

 流れ続けた涙はもうない。涙の跡が残る頬は乾燥している。窓から差し込む日差しに反応して体を解放し、椅子から立ち上がった。ずっと同じ姿勢をしていたので節々が傷んだが、問題はない。

 今日は男の遺体を埋葬しなければならない。

 気温は高くないのですぐに腐ることはないだろうけれど、放置しておくことはわたしが許せなかった。

 痛む頭を手で支えながら、ゆっくりと歩き始める。土を掘るための道具を探しに資材保管室へと向かっていたが、途中で研究室へと通りかかった。ふと足を止めて、何気なしに室内へと入る。ひとりでは寂しいだろうからと男の遺体に花を添えてやるつもりだったが、研究一辺倒だった男なのだし、なにかそれに関係があるものも一緒にしてやろうと考えたのだ。

 目ぼしいものがないか室内を歩き回って物色する。あるのは小難しいことが書かれた書類ばかりで、こんなものを一緒にさせてうれしいものなのか考えてしまう。いつも使っていた机の上でさえそんな有様なので、諦めた方がよさそうではある。

 机の惨状にひとつため息をついて、なんとなく視線を流した先でよく見知った革表紙を見つけた。軽く目を見開いて、手を伸ばす。

 掴んだのは先ほどまで泣きながら読んでいた日記と同じものだった。

 しかし、手触りはとても新しい。閉じた状態からでもわかるほどに、紙も傷んではいない。つい最近に使い始めたように感じられる。

 それを持つ手が震えた。いますぐに投げ捨ててしまいたい衝動に駆られるが、見ろ! と胸の内側から誰かが叫ぶ。

 心臓が激しく脈打つ。緊張で喉もカラカラだ。背中に汗が流れ落ち、ひゅー、ひゅー、と息も掠れる。

 あぁ、本当に、これを、見ても良いのだろうか。

 悩んでいる内心はお構いなしに、指先が動いてそれを開いた。

 記載されていた内容は、わたしの体に関することだった。拍子抜けしたが、わたしが見たことないのも仕方がない。掃除はしていたが、この机には常に男が座っていたし、これは書類の山の下にあったのだ。たまたま本の角が書類の山から飛び出していたから見つけられたが、察するに普段は完全に埋もれていたのだろう。詳細を書き込んでるのに適当な人である。

 呆れながら、詳細かつわかりやすく書き込まれた、わたしの体に関するメンテナンス事項などに目を通していく。何に強いのか、弱いのか、どんな特性があってどんなことができるのか、各種能力値、アレルギーについてなども、なかなか分厚い紙の束だというのに、びっしりと書き込まれている。

 よくここまでチェックしたものだ、と最後のページをめくった。


 どうか生きて欲しい。


 その文字が並んでいた。

 ぼたり、と紙面に水滴が落ちる。

 どうやら生きる意志がないと見抜かれていたらしい。

「……そっか。そうかぁ」

 埋葬が終われば死ぬつもりだったのに、それさえ許してくれないなんてひどい男だ。

「だったら、生きるしかない、ですね」

 もうこれは呪いだ。

 優しく残酷な呪い。

 男も施された呪いだろうに、わたしにも施すなんて、仕方のない人だ。

 わたしは退場したかった世界に残留することを決めた。たったこの一言で、この世に縛られてしまった。

「あぁ、あなたの声が聞こえない」

 そのことが寂しいと、わたしのためだけに作られた本を抱きしめて泣いた。

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