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「こはる。そんな怖がらなくても、大丈夫だって」
お姉ちゃんが、台所で麦茶をつぎながら、言った。
「その女の人さ、多分今でいうところの、ノイローゼみたいなもんだったんだと思うよ」
「ノイローゼって、なに」
「……ごめん。あたしも、よくわかんないや」
お姉ちゃんは目を宙に泳がせた。
「おーい。こはる。さなえ姉ちゃん」
その時、開けっ放しのお勝手口から市太の声が聞こえた。声のほうへ駆けよる。市太が興奮した声で、まくしたてる。
「今夜さ、うちの庭でバーベキューやるんだって。んで、こはるとさなえ姉ちゃんも誘っておいで、って」
「えっ、ほんと。いいの?」
「もちろん。もしよかったら家族でおいでって」
やったあ。あたしとお姉ちゃんは笑顔で抱き合った。今日のあたし、なんだかとってもツいてる。あれ、まてよ。この場合の「ツいてる」って、いったい何が憑いてるのかな。あ、そうか。運か。
日が沈んで空がうすい青むらさき色に染まったころ。あたしとお姉ちゃんはおみやげのすいかを持って里中家へ参上した。市太の家の庭は広い。うちと同じように、まわりの畑とのさかい目ははっきりしないけど。
「呼んでいただいて、ありがとうございます」
おねえちゃんが炭火をおこしているおじさんとおばさんに挨拶した。あたしもおねえちゃんに合わせてぺこりと頭を下げた。
「あらまあ。ふたりとも、そんなにかしこまらないでいいのに。でもさすがね。さなえちゃんも中学生になって、しっかりした娘さんになって。しつけがいいのね」
おばちゃんがお姉ちゃんと両親のことを同時にほめた。
「でもこんな美人だから、悪い虫がつかないかお父さんも心配だろう」
おじさんが言う。お姉ちゃんは、やだあ、そんなことないですよ、と可愛らしくわらった。
たいていの子どもというのは、大人にたいして「ぶりっ子」をするもんだ。お姉ちゃんはあたしよりキャリアが長いから、そのへんの要領がとてもいい。いや、お姉ちゃんくらいの年になると、もう大人の「社交じれい」に近いのかもしれない。
野菜やお肉はもうすでに切ってあった。炭火もめらめらと燃え上がって、金網の上にお肉をならべる。おばちゃんが、白い発砲スチロールのおわんに、焼肉のたれをついでみんなにくばる。お姉ちゃんがそれをてきぱきと手伝う。
「おい、こはる。おれんちの肉だからな。ちょっとは遠慮して食えよ」
市太がエラそうに言う。おばちゃんが、コラ、と言って市太の頭をはたく。
琢磨くんがあははと笑って、「市太は素直じゃないよね」と大人みたいなことを言った。
子どもはオレンジジュース、大人はビールで盛り上がっている。笑い声が次第に大きくなる。みんな、酔っ払っているんだ。
だんだん夜が深くなって、空にはまるい大きな月が浮かんでいる。今日の月はとってもきれい。
「市太」あたしはスカートのポッケの中からとっておきのたからものを取り出して市太に見せた。
「これ。フジケンちの近くの神社で、拾ったんだ」
「うおお、すげえ。ダイヤみてえ」
市太はまんまるい目をさらにまるくした。
「いいなあ。誰かが落としたんだろうなあ」
「ちがうよ。きっと、お月様がなみだを流して、それが固まったんだよ」
うっとりと月を見上げる。家に帰ったら、今夜の月の絵を描こう。
「ケッ、少女しゅみ」市太が白けたふうに言う。
「でも、いいなあ。おれもそういうの、ほしい。おい、今から神社に探しに行こうぜ」
「ええっ」
「だいじょうぶだよ、父ちゃんたちなら酔っ払ってるからさ、ちょっとくらいおれらが抜けても、気づきゃしないって。夜中に神社なんてさ、肝試しみたいでスリル満点じゃね?」
市太はよっぽどスリルを味わうのが好きらしい。でも。
あたしは昼間、ばあちゃんに聞いた話をした。市太は笑った。
「お前、キツネなんか迷信だって。本気にしてんの、その話」
「だって」
「ま、いいから。おれ、懐中電灯持ってくるからよ、お前は家からチャリ持ってこい。わかったな」
あたしはしぶしぶ、うなずいた。なんだか知らないけど、市太には逆らえないんだ。あたしは根っからの子分体質なのかもしれない。
りーりーりー、じーじーじー。社のまわりの草むらから虫の声が聞こえてくる。昼間、うるさくわめいていた蝉は寝てしまっているらしい。夜鳴く虫は、昼に寝ているのかなあ。
「市太。やっぱりやめようよ。へびとか、いるかもよ。踏んだらどうすんの」
「だいじょうぶだって。お前は心配性なんだよ。ところで、どのあたりでひろったんだ、あれ」
あたしは懐中電灯のひかりを、石のきつねのそばのりゅうのひげの茂みに当てた。
ざわざわとぬるい風がふく。くすの木やら樫の木やらが生き物のようにあやしく揺れる。月の光が細いすじになってところどころに射し込んでいる。夜の神社って、こわい。昼間のばあちゃんの話のせいかもしれない。
「何もねえなあ」
市太はがさがさと茂みをさぐっている。あたしは蚊にさされた足がかゆくて、ぼりぼりと掻いた。虫よけスプレーしてくればよかった。
その時。ざわめく木々の、葉っぱのこすれる音にまじって、ひたひたという足音とぼそぼそと低い話し声が聞こえたんだ。
「ひっ」あたしは腰をぬかした。「ユーレイだ」
「誰かきたんだ。かくれるぞ」
市太があたしの手をひっぱって、社の裏側にまわってしゃがみこんだ。
話し声がだんだん近づいてくる。男の人の声と、女の人の声。二人組みの幽霊だ。あたしはがたがたとふるえた。やばい、泣きそう。
がさがさと草をふむ足音はあたしたちのすぐそばまで近づいて、とまった。
「……レイコ、やっぱりよくないよ、こういう関係」
「……こわいの?」
もちろんこわいよ。ていうかなんの話?
二人組みは社のぬれ縁に腰掛けて話をしているみたい。
「おい、こはる。あれ、ユウレイじゃねえよ。面白そ。ちょっと近づいてみようぜ」
市太があたしの手を引いて、中腰でそろそろと声のほうに近よる。社のぐるりをまわって、身を乗り出せば二人組みのようすが見て取れるところまできた。これ以上は危険だ。張り込みをしている刑事のように、息をつめてのぞき見る。
「……すきよ」
女のひとの、かすれた声。すげえ、コクハクだ、コクハク。市太がひそひそ声で耳打ちする。あたしは息をのんだ。
あたしたちのいるところから、ちょうど女の人の横顔が見える。くらくて、どんな顔なのかはよくわからない。髪がながいことだけはかろうじてわかる。
「げ」あたしたちはあわててからだをひっこめた。
「チューしてる」
どきどきしていた。もう帰ったほうがいいような気がしてきた。でも、足が動かない。チュー、やけに長いし。
でも、あの女の人の声。どこかで聞いたような気がする。
「……こはる。帰ろう」
市太がかすれた声で、言う。
「あれ、フジケンの母ちゃんだ」
「え」
息がとまりそうになった。
「じゃ、男のひとのほうは、フジケンのお父さん?」
市太は首を横にふった。市太とちがって、あたしはフジケンのお父さんに会ったことがないのに、あたしも、ちがうと思った。あの人はフジケンのお父さんじゃない。だってあんなにこそこそしてるなんて、へんだよ。
フジケンのお母さんは、だんなさんじゃない人に「すきよ」なんて言って、抱き合ってチューしている。
どういうことなんだろう。こわくて、なみだがあふれてくる。
ばあちゃんの言うことを聞かなかったあたしがいけないんだ。知らなくてもいい秘密を知ってしまった。キツネより、もっと恐ろしいものを見てしまった。
ごめんなさい、おばあちゃん。あたしは後悔した。夜の闇も月のひかりも、何もかもがこわくてたまらない。あかるい昼間の世界に、かえりたい。あたしはなみだ目で、足もとに生えるりゅうのひげの、しっとりと濡れた葉っぱをにらんだ。