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「ちょっと市太、まさか手、はなしてないよね」
ふらふらとペダルをこぎながらおそるおそるふり返る。誰も、いない。自転車の後ろを支えていてくれたはずの市太は、遠くで琢磨くんと一緒にわらっている。
「そのちょうしだー」
「わあああ、むりだよ」
あたしはバランスをくずしてがしゃんと自転車ごと倒れた。
「だいじょうぶ?」
琢磨くんが駆け寄ってきて手を差しのべてくれる。
「兄ちゃん。手をかすな。甘やかすとこいつはいつまでも自転車に乗れないままだ」
市太は仁王立ちでひくい声でつげる。
こはるの課題は、夏休みじゅうに自転車にのれるようになることだ、市太がいきなりそう宣言したおかげで、あたしは毎日こうしてひざをすりむきながら自転車の練習にあけくれている。おかげで絵がぜんぜん描けない。コーチ役をかって出た市太はエラそうにいばっている。
練習場所は、市太と琢磨くんの家の前の道路だ。道路とはいっても車はめったに通らないのでだいじょうぶだ。
「おう、こはるちゃん、自転車の練習か。えらいなあ」
ドドドド、とひくい音とゆるい振動が近づいてきた。トラクターにのった市太のじいちゃんだ。すれちがいぎわ、あたしに声をかけてくれた。大きな、長年使いこんだような麦わら帽子をかぶって、首にはタオルをかけている。顔はしわしわなのに、日にやけて真っ黒で、なんだかとても若わかしい。
ほめられたあたしはにこりと笑った。さあ、仕切りなおしだ。
「あわわわ、もうだめだ」
二メートルもすすんでいないところで、あたしはまたもやよろめいて転んだ。ガシャンと鉄のうすっぺらい乗り物の倒れる音。めまいがしたように、ぐるりとまわる風景。マッチをすったみたいに、しゅっと走るすりきずの痛み。目の前には、しゃああと回転し続ける車輪とアスファルト、生いしげる夏草。
「いたあい」
起き上がりもせず、ごろりと道路に寝そべって空を見上げる。真っ青な空。きょうも入道雲はもこもこと天をめざしてのぼってゆく。
こうしていると、広い空があたしひとりのものになったみたい。
「こはる、サボるなああ」
鬼コーチがキンキン声をあげている。はああ、とあたしはため息をついた。
「おまえ、ほんとに運動オンチだよなあ」
「市太だって最初からすいすい乗れたわけじゃないでしょ」
「そりゃそうだけどさあ、今となっては、もう思い出せねえよ。乗れなかったころのことはさ。何でだろ」
市太はそう言って琢磨くんのほうを見た。琢磨くんも、うんうん、とうなずいている。
「自転車ののり方って、頭じゃなくて体で覚えるものだからね。だから、言葉ではうまく説明できないんだ。でも、いったんこつをつかめば、だいじょうぶ。頭でおぼえたことは忘れることもあるけど、体でおぼえたことは一生わすれないんだよ」
そういうものか、とあたしは思った。自転車にのるにもきっと「正しい方法」があるんだろう。でもそれは、「こつをつかんで体で覚える」ということらしい。
「ようするに、練習するっきゃない、ってことだ。よし、こはる。こうなったら奥の手だ。場所を変えて練習するぞ。ついてこい」
市太は急にはりきって駆けだした。
「まってよ」
あたしと琢磨くんは自転車を押しながら走って追いかけた。
「え、ここ」
「そうだ。おれもはじめて乗れるようになったのは、ここだ」
むりだよ、あたしは泣きそうになりながら市太にうったえる。
家から二百メートルくらいはなれた道ばたのうえ。ここはちょうど、坂の頂点だ。道の両脇は田んぼ。
「いきなり坂道なんて。しかも、ころんだら田んぼに落ちちゃうじゃん」
「スリル満点だろ」
市太は勝ちほこったようににやりと笑う。
「おまえにはどうも、必死さが足りない。いいか、坂道だぞ。スピードが出るぞ。こけたら痛いぞ。それがいやなら死にものぐるいでバランスをとるんだな」
いってらっしゃあい、市太はやけに明るく言って、あたしの自転車の後ろを思いっきり押した。自転車の車輪が勝手にぐるぐると斜面を転がりだす。
「ぎゃあああああ」
自転車はどんどんスピードをましていく。あたしの横を、風がびゅんびゅん通りすぎる。
「いいぞおー、こはる」
市太のさけび声が遠くに聞こえる。自転車はあっという間に長い坂道を下りきってしまう。
「あわ、わ、わ」
平らな道に出る。あたしの足が、いつの間にかしっかりとペダルを前後に動かしている。進んでいる。倒れない。こんなひらべったい乗り物が、まっすぐに地面に立って動いている。いや、あたしが動かしているんだ。
「わあ、すごい。のれる、のれるよ」
すごい。気持ちいい。あたし、自転車にのっている。すいすい前にすすむ。あたりまえだけど、走るのよりだんぜん速い。全速力でかけぬけるときより軽やかな風をからだ全体でうけとめる。
「おーい、どこまで行くんだああ」
市太が遠くから追いかけてくるのがわかる。
へへ。どんなに必死で走っても、追いつけやしないよ。あたしはどこまでも、どこまでも遠くへ走り続けられる気がした。
自転車にのれるようになったあたしの行動範囲は、かくだんに広がった。ちがう地区の友達の家にも遊びにいったし、今まで行ったことのない道にもどんどん挑戦した。
フジケンの家のあたりにも、たびたび行ってみた。あそこの、神社が目当てだった。フジケンみたいに、玉虫がほしい。玉虫じゃなくてもいい、白い鷺の羽根とか、きれいなすべすべの石とか。なんだかあそこはそういう宝物めいたものが見つかりやすい場所に思えた。ばあちゃんはじめ、大人が行ってはいけないと言うのは、きっとあの場所には不思議なちからがあるからなんだ。
この日もあたしはたからものを探しにひとりで神社へ行った。林の中だから、夏の昼間なのに少し薄暗くてひんやりとしていた。だれも手入れをしているようすのない敷地は下草がぼうぼうと生えていて、足を切った。小さな社の入り口のそばには、石のきつねの像があって、あたしは少しどきっとした。
みーん、みん、みん、じーわ、じーわ。しゃわしゃわしゃわしゃわ。
蝉のなき声がシャワーのように降り注ぐ。汗みずくになりながら、社のまわりを一周する。
「なにもかわったことはないわね」
あたしは探偵にでもなった気分で、そうひとりごちた。ひたいの汗をうででぬぐって、斜め下を何気なく見やると、りゅうのひげの茂みの中に、きらりと光るものがある。何だろう。
「わあ」あたしはその小さなかたまりを拾い上げた。
「なにこれ、ダイヤモンド?」
それはきらきらひかる、しずくのかたちをした透明な石だった。ガラスかもしれない。ダイヤモンドみたいに、こまかく光を反射するカットがされている。石についた金の金具には小さな穴が開いているから、きっともともとはここにペンダントのチェーンが通されていたんだろう。
誰が落としたのか知らないけど、ラッキー。やっぱりここには、秘密のたからものが隠されている。あたしはごきげんだった。
「おねえちゃあん」
家に帰ったあたしはさっそくお姉ちゃんに報告した。
「きれいでしょ。ねえ、これ、ペンダントみたいにできない?」
お姉ちゃんはあたしのダイヤのしずくを手にとって、まるい蛍光灯のひかりにかざす。
「できるよ。ほそいくさりを買ってきて通せばいいと思う。それにしても、これ、どうしたの。おもちゃじゃないよね。大人のつけるアクセサリーみたい」
「ちょっとね」
言葉をにごした。大人のつける、アクセサリーだって。
こはる、さなえ。ばあちゃんのしわがれた声が呼んでいる。おばあちゃんが呼ぶなんて、めずらしい。あたしとお姉ちゃんは顔を見合わせて、おばあちゃんの部屋へ行った。
おばあちゃんの部屋は、いつもカンロあめとハッカあめがまじったような、いい匂いがする。煮詰めすぎたカラメルのような色の茶だんすがあって、その引き出しには黒がねのまるい取ってがついている。この中に、とれたボタンや千代紙、つげの櫛につばき油、はぎれやさいほう道具や昔のお金なんかが詰まっている。つまりは、このたんす自体がたから箱なんだ。
「なあに、おばあちゃん」
おばあちゃんは小さな背中をまるめて、たんすの一番下の引き出しを開けた。
「わあ、きれい」
そこには、くるくる丸められた布がきちんと並んでいた。無地の朱色。紺地に白や水色の大きな花もよう。うすい水色の、小花柄。白地にオレンジとピンクの金魚柄のちりめん。
「あんたたちに、ゆかたを縫ってやろうと思ってね。どの布がいい」
「ほんと、おばあちゃん、ありがとう」
お姉ちゃんの目がきらきらとかがやいて、ほっぺたがうすい桃色に染まっている。
「ほしかったの、ゆかた。こんどのおまつりに、みんなゆかた着て行くって言ってるのに、あたしだけ持ってないんだもん」
「おねえちゃん、さては、好きなひとも一緒に行くんでしょ、おまつり」
「うるさいわね」
お姉ちゃんは真っ赤になってあたしの頭をはたいた。こりゃ、図星だ。
ばあちゃんはくっくっと笑って、「さなえのために、祭りに間に合うように超特急で縫わないとね」と言った。
お姉ちゃんは紺地に花柄の布を選んだ。あたしはおばあちゃんに金魚柄をすすめられたけど、子どもっぽくていやだとだだをこねた。
「こっちの、水色の花柄がいい」
「それは、こはるにはちょっと大人っぽすぎる気がするけどね」
「いいの。大人っぽいのがいいの」
やれやれ、しょうがない。これで作ってあげるよ、とばあちゃんは折れた。
「もう。甘いんだから」
おねえちゃんがぷうとふくれている。
「ばあちゃんは甘くはないよ。こはる、これは取り引きだ」
ばあちゃんが声をひそめる。
「この布でゆかたを縫ってあげる。そのかわり、もうあの神社に近づくんじゃないよ」
「なんのこと?」
あたしはしらをきった。
「とぼけてもむだだよ。ばあちゃんだってだてに年とってんじゃないからね。あんたが最近どこで遊んでるのかなんて、お見通しだよ。いいかい。あそこのおキツネさんが憑くと、大変なことになるよ。ばあちゃんが若い頃だけどね、憑かれた人が実際にいたんだよ」
「その人、どうなったの」
あたしはごくりと唾を飲み込む。
「きれいな女の人だったよ。まだはたちにもなっていなかったね。いつも青白い顔をして、具合でも悪いのかね、って心配してたのさ。それがある日、山の中のがけの上から、ふらっと身投げしてしまったんだ」
背すじにぞくりとつめたいものが走った。ばあちゃんは、わかったね、ともう一度念をおした。