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二十四色の色鉛筆とスケッチブック。これがあたしの夏休みの友。
つばの広いぼうしをかぶる。おかっぱの髪がだいぶ伸びてきて、汗ばんだ首すじにはりつく。
どこに行こう。なにを描こう。すずしいところに行きたいな。
雑木林に入って、セメントで固められただけの小さな道をあるく。林のなかは少しひんやりしている。見上げると、くぬぎやかしの葉っぱがたくさん折り重なっててんじょうをおおっている。その、葉っぱのわずかなすき間からひかりが射し込んできて、足もとに網目のようなかげができる。あたしのからだも、そのかげのなかにすっぽりと入りこんでいる。
さらに歩くと水のさらさらと流れる音が近づいてきた。川だ。
セメントの道からそれて林のなかに入って、川にそって歩く。コケのついた、ごつごつした岩のあいだをぬって水が流れている。ほそい白い糸を何千本もより合わせたみたいな水の流れ。
「ついた」
あたしはひたいに浮かんだ汗を左のこぶしでぬぐった。
「竜神の滝」
ざあああと音をたてて一気に流れ落ちる水の音、こまかいしぶき。あたしの身長の三・四倍はありそうな高さから水が落ちてくる。滝つぼは学校のプールよりはかなりせまいけど、深さはきっと、もっとある。
この滝は去年、市太と琢磨くんと発見した。あの頃、あたしたちはたんけん隊を結成していたんだ。竜神の滝という名前は市太がつけた。
大きくてたいらな岩に腰をおろす。小さな目にみえない水のつぶつぶがあたりにちらばっているみたい。すずしい。かすかに、コケみたいな、しめった生き物のような匂いがする。
スケッチ・ブックをひらく。水を描くのはむずかしい。だって、水ってほんとうは透明で色がないんだもん。目にうつる滝のしぶきは白い。滝つぼの深いところは濃い青みどりで、浅いところにむかって青みどりの色はうすくなって、透明に近づく。どうして透明な水がたくさんたまると青い色に見えるんだろう。
「だめだ」
あたしはいらいらして色鉛筆をほうり出した。こんな道具じゃ、透き通った水の流れなんて描けない。画用紙に描かれた青いすじと、あたしの目にうつる世界はまったく別ものだ。
絵の具だったら描けるかなって、考える。無理だ。あたしはまだ、へたくそだ。
それに、知らない。世界を切り取って紙の上に閉じ込める、ただしい方法を。なにかあるはずなんだ。分数のわり算みたいに、方法さえ知っていればきっとあたしにもできるはず。
でもそれは、誰に教えてもらえばいいんだろう。
あたしはとぼとぼと来た道を引きかえした。セメントの道に出る。蝉の鳴き声にまじって、わあわあと騒がしい声が近づいてくる。
「こはるじゃねーか」
キキキキ、とブレーキをかけて二台の自転車があたしの横でとまった。市太とフジケンだ。
「何してんの、あんたたち」
「今からフジケンちにあそびに行くんだ。おまえも来るか?」
もちろん、うなずいた。あたしはフジケンの家に、まだ行ったことがない。これは面白いことになった。でも。
「あたし、歩きだよ」
あたしはまだ補助輪なしの自転車に乗れない。四年生に進級したとき買ってもらった自転車は、車庫のなかでほこりをかぶっている。
「まあ、それじゃ仕方ねーな。こはる、全速力で走れ」
そう言ってふたりはジャアアと自転車をこいだ。ちょっとまってよーって、情けない声をあげながらふたりの後をおいかけた。
フジケンの家はあたしや市太の家のある集落から、すこし山側に登ったところにある。近くの林の中には小さな神社があって、子どもだけでそこに行くとしかられる。「キツネがつく」らしい。ばあちゃんが言っていた。だからあたしはあんまりフジケンの家の周囲には足が向かないんだ。
「ただいまあ」
フジケンががらがらと玄関の引き戸を開ける。おじゃましまあす、と、あたしと市太ははきはきと声をそろえてあいさつして、上がりこむ。
家の中は薄暗くって、ぶううんと扇風機のまわる音がきこえる。誰もいないのかな。
「健一」
色が白くて、髪のながい女の人が奥のほうからやってきた。昼寝してたのかな、髪が乱れてる。キャミソールと短パンを着ていて、肩ひもがずり落ちそう。やせているのに胸元はむっちりしていて、なんだかどぎまぎして、あたしはあわてて目をそらした。
市太はその女の人を見つめたまま、ぼーっとしている。あたしがこづくと、やっとわれにかえった。
「友だち、つれてきたの? めずらしい」
女の人はそう言って、それからあたしたちに向かって、
「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
とほほえみかけた。
市太はにやりとだらしなく笑った。そしてフジケンの耳もとでささやく。
「フジケン。あの美人、おまえの姉ちゃんか」
「ううん。母ちゃん」
フジケンはどうでもよさそうにそう答えた。
「ええっ」
あたしと市太はのけぞった。わかい。きれい。うちのお母さんとぜんぜんちがう。くちぐちに、そういう内容のことを言い合う。いいなあフジケン、市太が心底うらやましそうにそう言うと、フジケンは、「べつに」と気のない返事をした。
フジケンの部屋は二階の角にあった。フジケンはひとりっ子なので、この六畳間、まるまるがフジケンだけの空間なんだ。
「いいなあ」
市太がぼやく。
「おれなんてこれよりせまい部屋に兄ちゃんとふたり押し込まれてるんだぜ。さいあくだろ」
「いいじゃん。あたしなんて、中学生になるまで自分の部屋もらえないんだよ」
「おれはおそらく中学生になっても兄ちゃんと同じ部屋だぜ。それよりフジケン、せっかくこんなひろい部屋もらってるんだからさ、ちょっとは片付ければ? もったいないぞ」
いつも机の中がぐちゃぐちゃの市太に言われちゃ、おしまいだ。でも、確かに。
足の踏み場もないとはこのことで、フジケンの部屋はやたら散らかっている。食べかけのおかしやら、少年ジャンプや四年の科学やら、学校のプリントやらわけのわかんない石ころやら。
本もいっぱいある。重そうな百科事典とか、日本文学全集とか、世界の美術全集とか。
「フジケン、なんでこんな大人の読むむずかしい本がたくさんあるの」
「うちの父ちゃんがわかい頃、セールスマンに売りつけられたらしいんだ。何せ全集だからな。おき場所がなくて、とりあえずぼくの部屋に置きっぱなしにしてあるんだ」
なるほどね。……それにしても。これがフジケン・ワールドか。
前から興味があったんだ。フジケンの生態、について。
何せ、フジケンの学校での奇人変人ぶりといったら群をぬいている。授業中も休み時間もイスをぐらぐらさせて鼻をほじっているし、たまにまじめに机に向かっていると思ったら、液体のりを下敷きにぬってかわかして、はがして遊んでいる。缶ペンケースの中にはねりケシをつくるために集めたけしゴムのかすがいっぱい詰めこまれているし、引き出しの奥には給食ののこりのパンのかけらがカビだらけになってほっぽり出されている。たまに、給食を食べながら寝る。イスから転げ落ちても寝ている。
そんなフジケンは興味のないことには本当に無関心で、算数や社会の時間は寝てるか内職してるかのどちらかなんだけど、好きなことにたいしてはおそろしくしんけんになる。
フジケンの好きなことは、図書の本をよむこと。理科の、生き物や植物のかんさつ。それから、図工の時間。いったんハマると時間をわすれる。そんなところは、あたしにもあるけれど。
いつもそんな感じだから、フジケンは、「きたない」とみんなにおおっぴらに非難されている。いじめられるすれすれのラインだ。だけどフジケンは物知りで、時々誰も知らないようなとびっきりの情報をくれるんだ。こっくりさんのやり方とか、マヤ歴がどうのこうのとか。それで、ちょっとだけ一目置かれてるみたいなところが、ある。きっと、この部屋にある大人の本からそんな情報を仕入れているんだろう。
「うわああ、なんだこれ」
市太がフジケンの机の引き出しをあけて奇っ怪な声をあげた。ばらばらとまっ黒い砂がたたみの上にこぼれる。
「砂鉄」
フジケンはさらっと言いはなった。
「いつも昼休み、砂場で集めてるんだ」
「なるほど、だからドッヂボールのさそいにものらないのか」
「フジケン、これは何」
出窓に置かれたコーヒーの空きびんみたいなものに、ぎっしりと砂がつめこまれている。
「それはアリを飼ってるんだ。いっこうに巣をつくってくれないけど」
「あとさあ、これはあんまり聞きたくないんだけど、そのとなりの緑色のびんは、いったい」
「ああ、それはカエルのたまご」
カエルのたまごにはとても見えない。これはまるで、青かびの生えたマリモだ。いやな予感がする。
「ちなみに、いつつかまえたの」
「去年の春」
それを聞いたあたしと市太はぎゃああと悲鳴をあげた。ぜったい、くさってる。このびんをあけたら、きっとひどい匂いがするはず。なんだか腕とか顔とか、かゆくなってきた。市太も落ち着かないようすで首すじをぽりぽりかいている。
その時、すっとふすまがあいて、フジケンのお母さんが入ってきた。おぼんに、ほそっこいガラスのびんが三本、のっている。
「やったあ、ラムネだ」
「ありがとうございます」
フジケンのお母さんはふわりと笑って、長い髪をかき上げた。あたしはそれを見て、また少しどきどきした。フジケンのお母さんが去ったあとには、なんだかいい匂いが残っている。
ラムネのびんはうすい水色で、それはほんとうに透明な水のいろみたいで、しゅわしゅわとこまかいあわがたくさんたちのぼっている。そっとゆらすと、びんに閉じ込められたビー玉が、ころころと涼しい音をたてる。
「ラムネのビー玉ってさあ、びんから出すと、とたんにキレイじゃなくなっちゃうんだよね」
フジケンが言った。その通りだ。何でなんだろう。宝石みたいにきらきらしていたのに、自由になったとたんに、それはつまらないただのガラス玉に成り下がってしまうんだ。
「二〇一二年て、おれたち、いくつだ?」
市太がぼそりとつぶやいた。ばかばかしいとか言ってたくせに、気にしてたんだな。
「はたち」
フジケンがひくい声で言う。
「おそらく核戦争が起こるか、いん石がしょうとつするか、どっちかだとぼくは思う」
あたしたちはだまりこんでしまった。フジケンはさすがに気を使ったのか、きゅうに明るい声を出した。
「ぼくのたからもの、見るか」
今までそんなこと思ったことなかったけど、あたしはこの日はじめてフジケンをうらやましいと感じた。自分だけの部屋を持っていることや、お母さんがわかくて美人ということがうらやましいんじゃ、ない。うらやましいのは、フジケンのたからものだ。
それはきれいな、虫の標本だった。玉虫。はじめてあたしは玉虫を見た。ぴかぴかとみどりや黄色にひかる羽。ひかりのあたり方によって、それはオーロラのようにかがやきを変える。
この世には、なんでこんなに美しい虫がいるんだろう。あたしは目をうばわれた。近くの神社で死骸を拾ったんだ、とフジケンは言った。それを標本にしたらしい。例の、子どもだけで近寄るな、といわれている神社だ。
それともうひとつ。フジケンのお父さんの本。世界美術全集。ページをひらくと、たくさんの絵がのっていた。有名な、ゴッホのひまわりの絵とか、ムンクの叫びとか。そんな絵たちのなかに、とりわけあたしの目にやきついてはなれない一枚があった。作者と絵のタイトルを探そうとした瞬間、市太のやつにじゃまされた。
「こはるのエロ」
全集の一巻の、はだかの男の人の銅像の写真ののったページをあたしの目の前に突き出したんだ。あたしはあわてて目をそらして市太をなぐった。
「わーい、エロ。スケベ。ヘンターイ」
さいあくだ。市太のばかを追っかけまわしてたせいで、あの絵のことはうやむやになってしまった。この本の中にはたしかにある、と思ったんだ。あたしがいちばん知りたくて、たまらないこと。一枚の紙のなかに目にうつる世界を閉じ込める、方法が。