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「ただいまあ」
家にかえるとすぐにあたしは自分の学習机に向かった。
あたしの部屋はまだなくて、テレビのある部屋のよこのせまい部屋にとりあえず机が置かれている。中学生になったら二階の空き部屋を自分の部屋にしてもいいって約束してもらっている。
どうして今自分の部屋をもっちゃいけないの? と聞いたら、お姉ちゃんだって小学生のころはここでべんきょうしてたのよ、とさとされた。れいせいに考えたら、ぜんぜん質問の答えになっていない。
「あらこはる、帰ってすぐに宿題なんて、めずらしい。今日は市太くんと遊ばないの?」
いすにこしかけてランドセルからふで箱とノートをとりだした私を見て、お母さんが言った。ちゃかすような口ぶりだ。
「あたしの前で、その名前は二度と口にしないで」
お母さんをぎろりとにらむ。
「あらま、けんかしたの。まあ、けんかするほどなんとやら、っていうけどね」
お母さんはくすくす笑った。むかっ腹が立った。
「仲なんてよくない! 絶交したんだから!」
あたしは叫んで、そのへんにあったふるぼけたクマのぬいぐるみをなげつけた。力がないせいか運動神経がないせいか、ぬいぐるみはお母さんには届かなくて、たたみの上にぼすんとまぬけな音をたてて落ちただけ。思いっきりなげたつもりだったのに。こんなんだから市太になめられて小ばかにされるんだ。
お母さんは今にも吹き出しそうな顔で、こわ、こわ、とわざとらしく言いながら台所に行ってしまった。
とりのこされたあたしは、もはや、やるせないいかりをぶつける相手もうしない、いらいらと貧乏ゆすりをするだけ。ストレスがたまる、っていうのはきっとこういう状態のことをいうんだ。あたしはまたひとつかしこくなったような気がしたけど、今はどうでもよかった。
自由帳をひろげる。目のきらきらした女の子の落書きのつぎの、まだ何も書かれていない真っ白なページをひらく。自由帳というからには何に使おうが持ち主の自由だ。
2Bの鉛筆をおもいっきりにぎりしめる。
「死ね」
と、書きなぐった。力をこめすぎて、鉛筆の芯がぼきりとおれた。それでもいかりはおさまらない。たりない。もっと、もっと。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
ひたすらにくりかえした。いかりはおさまるどころか、アメーバみたいに分裂してどんどんふえてゆく。ふえるわかめのように何かを吸ってぶわっとかさを増していく。
「わ、こはる、あんた何してんの」
中学校からかえってきたお姉ちゃんがあたしの机をのぞきこんで、ぎょっとした声をだした。テレビのある部屋とあたしの仮の部屋のあいだのふすまは取っ払われているから、家族のだれもがこうして気軽にあたしの空間に入り込んでくるんだ。
「のろいをかけてるの」
あたしはお姉ちゃんの顔もみずにこたえた。力でも口先でもかなわないなら、こうやって地道にのろいをかけるしかない。
「……こわいって、あんた」
お姉ちゃんはそう言ってかるく身を引いた。
さなえ、ちょっと来て、とお母さんが呼ぶ声がする。はあい、とのびやかな返事をして、お姉ちゃんはすぐに去っていった。
あたしは意識を集中させて、ふたたび
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
と書きなぐりつづけた。もう見開き二ページぶんが「死ね」でうまっている。同じ文字がいくつも並ぶと、変なかんじだ。ことばというより、記号のような、虫のような。うじゃうじゃうじゃうじゃ集まって、きもち悪い。
うじゃうじゃ……? きもち悪い……? ……ん?
何かが頭のはしっこに引っかかった。何かだいじなことをわすれているような……。鉛筆をにぎる手のちからをゆるめて、ふと考え込んだ、その時。
「こはる。ちょっとそれ、見せなさい」
お母さんがこわい口調で言いながらどすどすとあたしの机の横にやってきた。お母さんのかっぽう着から、しょうがとごま油とにんにくの匂いがする。
「お母さん、ひょっとして、今夜はぎょうざ?」
「いいから。はやくあんたのノート、見せなさい」
お母さんはあたしのことばをむしして、あたしの自由帳をひったくった。みるみるうちにお母さんの顔が白く血の気をうしなっていくのがわかる。なんだろう、みょうに、どきどきする。
つぎのしゅんかん、ぱん、と花火みたいな音がして、ほんとに火花もはじけた。
あたし、ぶたれたんだ。お母さんに。
「こはる。こんなバカなまねをして」
お母さんは目に涙をためてぶるぶるふるえている。あたしもぐぐっと鼻のおくに何かがこみ上げてきて顔をゆがめた。
「だって市太がわるいんだもん! いやがらせばっかりするんだもん!」
あたしは泣きながらどなった。
「あんた、だからって、こんなひどいことばを使って。こはる、死ね、というのは、絶対につかっちゃいけないことばなんだ。あんた、ほんとうに市太くんが死んじゃったら、どうするの。お母さんはかなしい。あんたがこんなさもしいことをするなんて」
お母さんも泣いている。あたしはいたたまれなくなって、椅子から立って走り去った。
ほんとうに市太くんが死んだらどうするの、ってことばがずきんと胸の奥にささる。
あたしはわるくないもん、市太がわるいんだもん。
階段をかけあがって、二階の空き部屋の押入れにもぐりこんだ。ひとりになりたい。押入れにはお客様用のふとんがしまわれていて、ナフタリンのつんとするにおいがする。まっくらだ。
ずず、と鼻をすする。ほっぺたがひりひりと痛む。
あたしが市太にのろいをかけるのはよくないのに、お母さんがあたしをぶつのはいいの? そんなのおかしいよ。それに。
市太は死なないもん。あいつは殺したって、死ぬもんか。あたしはわるくない。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
あたしが書いた文字が耳元でひびく。しんせきの法事で聞いた、お経みたい。
整列していた文字がばらばらになって、ふわりと宙にまいあがる。プラネタリウムみたいにまるい空のてんじょうにへばりつく。たくさんの、「死」と、「ね」。よく見たらいっこいっこの文字に羽がついている。かぱっとひらいて、ぷうんと飛ぶ。
ああ、てんとう虫だ。文字がてんとう虫に変身した。
たくさんのてんとう虫は、元気に飛び回っていると思ったら、すぐに力つきてぽとりと落ちる。飛ぶのをやめて、雨のように落ちてくる。次から次に。
なにこれ。わあってさけんだつもりなのに声がでてこない。逃げようとするけど、からだがうごかない。
「こはる。こはる」
目をあけるとくらやみの中にお姉ちゃんの顔があった。
「やっと起きた。もう九時だよ? お母さんはお風呂はいってるから、今のうちにごはん食べてきな。あんたの分のぎょうざ、とっておいてあるから。ごめんね、まさかお母さんがあんなに怒ると思わなくて。こはるがこわいことしてるよってちくったの、私なんだ」
お姉ちゃんのことばに、あたしはぼうっとする頭をふるふると横にふった。
背中にべったりといやな汗をかいている。思い出した。大事なことを。
のそりと押入れから這い出ると、そのまま部屋をでて一気にかいだんをかけ降りた。
こはる、とお姉ちゃんが呼ぶ声を背中で聞いた。