4
「おせーぞ。こはる」
ばすっと雪のかたまりを投げつけられる。市太がしたり顔でにやりと笑っている。
「やったな、このやろ」
お返しにぶつけてやろうと足もとの雪をすくって丸めていると、その間に市太があたしの背後にまわり、大きな木の幹を思いっきり蹴った。あたしの頭上からどさどさと雪が落ちてくる。つめたい。もろにかぶってしまった。
「とろいんだよ、お前」
市太は仁王立ちで腕組みし、悪魔のようにせせら笑っている。くやしい。雪をわしづかみしてめちゃくちゃにぶつけてみるけどぜんぜん命中しない。市太はジャンバーのポケットに手をつっこんだまま余裕の笑みを浮かべている。
「こはるちゃん、市太くん」
ほっぺたを真っ赤に染めた加世ちゃんが走り寄ってきた。はあはあと息を弾ませている。
「よかった、仲直りしたんだ」
仲直り?
あたしと市太は顔を見合わせた。市太があっと小さな声をあげた。
「うかつだった。おれとしたことが。すっかり忘れてたけど、おれ、怒ってたんだった」
それを聞いてあたしと加世ちゃんは大笑いした。
「何がそんなにおかしいわけ?」
背後からのったりと低い声が聞こえてきて、振り返るとフジケンがいた。
「わ、フジケン。いつからいたの」
「ついさっき」
フジケンは六年生になってからふたたび同じクラスになった。だいぶ背が伸びたけど、相変わらずの奇人変人っぷりは異彩をはなっている。椅子をぐらぐらさせるくせも一向に治らない。昼休みのフジケンの行動を観察してみると、まっしぐらに砂場に向かっていた。いまだに砂鉄を集めているんだろうか。
もうだいぶ記憶は薄れてきているけれど、フジケンと話しているときにふとよぎるのは二年前のフジケンのお母さんのすがただった。
フジケンは、知っているんだろうか。お母さんは今もあの男の人と会っているんだろうか。それを確かめるすべもない。
雪合戦にも疲れて、あたしたち四人は公民館の入り口の石段に腰掛けた。あたしたちの真上には抜けるような青空が広がっている。雪の降ったつぎの日はくっきりときれいに晴れる。まばゆい日差しが雪を溶かすんだ。
「今日限りの命だね。この雪も」
あたしはぽつりとつぶやいた。
「でも雪は溶けたら水に変わるでしょ。すがたは変わるけど命がなくなるわけじゃないよ」
加世ちゃんがしずかに言った。
「こはるちゃん、おばあちゃんのこと考えてるんでしょ」
あたしがだまっていると、市太が
「こはる、きのうはごめんな。ついカッとなっちゃってさ。おれ、家族が死ぬなんて経験ないからさ。それがどんなに悲しいのか、正直、想像できないんだよ」
って、言った。あたしは首を横に振った。
「あたしだってまだ実感がないんだよ。もうだいぶたつのに、まだおばあちゃんがどこかにいるような気がするの。ちゃんとおばあちゃんの骨だって拾ったのに。もういないんだ、って一生懸命自分に言い聞かせているんだけど」
そうだ。おばあちゃんはもういない。かたく冷たくなって、火に焼かれて土に埋まっている。おばあちゃんはしゃぼん玉がはじけるように突然いなくなってしまった。そのことにあたしはまだなじめずにいる。泣き虫ってみんなにあきれられているこのあたしが、なみだも流せないでいる。
市太が、ふうと息をついた。
「……じゃあ、いいんじゃね? むりにばあちゃんがいなくなったって思わなくてもさあ。こはるが、ばあちゃんがどこかにいるって思ってるんだったらそれでいいだろ。心の中から消してしまうことなんて、ないよ」
みんな、しいんとして市太を見つめた。
「なんだよ。おれだってたまには気のきいたことくらい言えるんだからな」
市太はきまり悪くなったのか、きゅうに明るい声を出した。
「……野々村のばあちゃんさ、まじでどこかにいるのかもよ」
そう言ったのはフジケンだった。
「どういうこと?」
「いや、だってさ。雪だって溶ければ水にすがたを変えるだろ。水も蒸発していつかは消えるけど、ぼくらの目に見えなくなるだけで、ちゃんとあるじゃん。で、雲になってまた雨に変わるだろ。ぐるぐる回ってるんだ。ぼくらのからだの七割は水だ。ということはぼくらも姿をかえてぐるぐる回ってるんだ」
「フジケン、いつもそういうこと考えてるの?」
加世ちゃんがすこし驚いたふうに目をまるく見開く。まあね、とフジケンは気のない返事をした。
「二〇一二年に死に絶えたぼくらはいったいどうなるのか、つい考えてしまうんだ」
フジケンはまだマヤ歴がどうのこうのっていう説を信じているらしい。でも、たとえ何も起こらなくて世界が続いたとしても、あたしたちはどのみちいつかは死ぬ。それだけは確実だ。
「でも、おばあちゃんの姿をしたおばあちゃんには、あたしはもう会えないんだね」
つぶやいて、目を閉じる。おばあちゃんのすがたを思い出す。おばあちゃんの白髪頭。みじかい髪にゆるいパーマをかけていた。しわだらけの顔、細い目。骨ばった小さい背中。
……いけない。おばあちゃんが消えてしまう。まだ一ヶ月も経ってないのに、あたしの中のおばあちゃんの笑顔が、その輪郭があいまいにぼやけてしまいそうになっている。
「みんな、ごめん。あたし、帰らないと」
あたしはすっくと立ち上がった。
「帰って、しなきゃいけないことがあるの」
「こはる?」
あっけにとられているみんなを後ろに残して、あたしは石段を駆け下りて走った。
雪はすでに溶けかけて、踏みしめるとびしゃびしゃする。シンデレラの魔法よりも消えるのがはやい。
あたらしい太陽が、降り積もってゆくあたらしい日々が、簡単に記憶を溶かす。
「ただいま」
息を切らして、家の中にあがりこみ、学習机の上のスケッチブックをひったくるように手にとる。大急ぎでおばあちゃんの部屋をめざす。
「こら、こはる。脱いだ靴はちゃんとそろえなさい」
お母さんの怒鳴り声が頭の片隅でこだましている。ごめんお母さん、今それどころじゃないの。
ふすまをがらりと開ける。薄暗くてひんやりとしたおばあちゃんの部屋。日に焼けた、茶色いたたみ。宝物のつまっている、おばあちゃんの茶だんす。
スケッチブックを開いておばあちゃんの姿を思い出す。鉛筆で輪郭をえがく。だめ、ちがう。鉛筆の線だと、何だかこう、なめらかすぎる。
大急ぎで台所に行き、戸棚を開けて割り箸をさがした。自分の机の横にかけてある習字道具をあけて、墨汁をひっぱりだす。
割り箸に墨汁をつけて線をえがく。線はところどころ太くなったり細くなったりする。墨も薄くなったり濃くなったりする。自然に、変化がつく。これがいい。おばあちゃんのしわしわの皮膚、すじばった首のかんじ。お日様のようにやわらかい笑顔。
そう、おばあちゃんは笑顔がいい。仏壇の、白黒のかしこまった写真なんて、おばあちゃんらしくない。今あたしの中にあるおばあちゃんの姿をかたちにしておかないと、あの写真のおばあちゃんしか記憶の中に残らなくなってしまう。それは、いやだ。
こりこりと割り箸を動かす。
あたしが元気のないとき、なぐさめてくれたおばあちゃん。
ゆかたを縫う骨と皮だけの手。機械みたいにはやく針をうごかしていた。わかい時、和裁の仕事をしていたんだよ、とばあちゃんは言っていた。
縁側にざるを広げて、小さく切った大根を干していた。柿も紐で器用に縛ってつるしていた。お日様に干すとしぶ柿も甘くなるよ、と言った。大根もさらに栄養たっぷりになるんだよ、と。おばあちゃんの干した柿は甘くて、ほんのり日なたの味がした。小春日和に、縁側でひなたぼっこしているみたいな。おばあちゃんも干し柿みたい。甘くて、やさしくて、深いんだ。
おばあちゃん。いなくなってしまわないで。あたしはちゃんと覚えておくから。
あたしは夢中でおばあちゃんの絵を描きながら、いつの間にかなみだを流していた。なみだはあとからあとからあふれてきて、あたしのほおを濡らした。
おばあちゃん。あたしは覚えているからね。
何度も、何度も。あたしは、おばあちゃんに呼びかけていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
ぼちぼち中学生編も書き進めていますが、時間がかかりそうなのでいったん完結とさせていただきます。がんばって書こうと思います……。