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「喪に服す」期間がすぎて、あたしはふたたび学校へ通いはじめた。
空気はぴりぴりと肌につき刺さるように冷たい。しゃりしゃりと道ばたのわきの霜柱を踏みしめると、つま先がじんじんと痛んだ。冬って、色がない。ひかりが白くてまぶしくて、清潔すぎて冷たい。病院のベッドの、洗いたてのシーツみたい。
一時間目は体育だった。もうすぐマラソン大会なので、グラウンドのトラックをぐるぐる走ってひたすらに練習する。あたしは数ある校内行事のなかで、マラソン大会が一番きらいだ。寒いしきついし、ろくなことがない。
「あと一周」
先生がカラカラと小さなベルを鳴らす。さいしょは鳥肌がたっていたあたしのからだも、走っているうちにほかほかとあたたまって、今や、汗をかきそうなほどあつい。走ると、あたしの胸の小さなふくらみが揺れて痛い。そろそろブラジャーをつけるべきなのかな。いったいどうなっているの。鳥肌がたったり、汗をかいたり。心臓がどきどきしたり、胸がふくらんだり。あたしの中のなにが命令してそういうことが起こるの。
「はい、ゴール。おつかれさん」
最後の一周を走り終えて、あたしはぜいぜいと肩で息をする。ああ、もうだめ。苦しい。
ぐらりと、空と地面が一回転して入れ替わる。あたしはめまいを起こして、グラウンドに倒れこんだ。
目が覚めたとき、あたしは保健室のベッドの上にいた。まだ体操着のままだった。保健室は暖房が効いて暖かい。どこかの学級が「スキーの歌」を合唱しているのがうっすらと聞こえる。
あたしはゆっくりとからだを起こした。
「あら、野々村さん。気がついた?」
保健室の相良先生がにっこりと微笑みかけてくれる。
「先生。あたし、いったい」
「体育の授業中に倒れて運ばれたのよ。野々村さん、ちゃんと朝ごはん食べてきた?」
あたしは首を横に振った。食欲がなくて、ごはんもみそ汁も、ほんの少ししか手をつけていなかった。
「……そう。まさか、ダイエットしてるの?」
ちがいますと、力なく答える。やせたいとか、そんなことは考えたこともない。
チャイムが鳴って、一時間目が終わった。教室にいなくても、みんなの緊張の糸が一気にゆるむ感じが伝わる。
ばたばたと廊下を駆け回る足音がこちらへ向かってくる。
「せんせーっ。あたま痛いから熱測らせてっ」
ガラガラと勢いよく引き戸が開いて、さらに勢いのいい声が飛び込んでくる。この声。市太だ。あたしはふたたびベッドに横になって毛布を頭からかぶった。
「里中くん。具合が悪い人はそんなに威勢よく走り回れないものよ。さては、次の授業、嫌いな科目なんでしょ」
「ちぇ。ばれたか」
先生と市太が話しているのが聞こえる。
「先生、こはるちゃん、大丈夫なんですか」
あ、加世ちゃんの声だ。心配して来てくれたんだ。
あたしの寝ているベッドのそばには、目かくし用にうすいブルーのカーテンのついたつい立てが置かれているので、ここから様子を見ることはできない。
「あれ。加世。こはるがどうかしたわけ?」
「あ、市太くん。こはるちゃんね、体育の時間、倒れちゃったの。どうしたんだろう。風邪かな」
加世ちゃんと市太の会話。相良先生の落ち着いた声がふたりを安心させるように、やさしくひびく。
「だいじょうぶ。熱もないし、心配いらないわ。ごはんを食べていないみたいだから、それでめまいを起こしたのね。今ベッドで休んでるわ」
「なに、あいつ、めし食ってないの?」
つい立てのカーテンをシャッと引く音がして、市太がどかどかとあたしのそばへ寄ってくる。
「おい、こはる。お前さ、ばあちゃんが死んでショックなのはわかるけど、めしぐらい食え。そんなんじゃ、死んだばあちゃんが悲しむぞ」
ゆっくりと、噛み含めるように市太は言う。あたしは毛布をかぶったまま寝返りを打ち、市太に背を向けた。
「どうしておばあちゃんが悲しむの? いい? おばあちゃんはね、死んだんだよ。火に焼かれて灰になったんだよ。死んでいなくなった人が、喜んだり悲しんだりするわけないじゃん」
「こはるのひねくれ者。人がせっかく心配してやってるのに、何でそんな言い方すんだよ。もういいよ。そうやって勝手にいつまでも拗ねてりゃいいよ」
市太は、つい立てをガンと蹴って去って行った。しつれいしましたあ、というバカでかい声と乱暴に引き戸をしめる音がする。「まって市太くん」と加世ちゃんの声がして、加世ちゃんもぱたぱたと市太を追いかけて行った。
その日の夜はとくに冷え込みが厳しかった。この冬一番の寒波が訪れます、とテレビの中の気象予報士が言っている。寒いから今夜は鶏の水炊きだよ、とお母さんがにっこり笑った。あたしは台所で、白菜をざくざく切るお母さんのあかぎれした手をじっと見つめていた。
「こはる、ごめんね。あんたのお祝い、してなかったね。さすがにおばあちゃんが亡くなったというのにお赤飯は炊けないからね」
お母さんは水をはった大きな土鍋に昆布を入れながら、言った。あたしに初潮がきた「お祝い」のことらしい。
「いいよお赤飯なんて。恥ずかしいもん、お父さんにばれちゃうし。それに、そもそも何がおめでたいんだかさっぱりわからない」
「おめでたいことだよ。こはるもすくすくと健康に成長して、大人に一歩近づいたってことだもん。でもお母さん、少し淋しいかな。さなえもこはるもあっという間に大人になって、お父さんやお母さんのもとを離れていくんだろうなあ」
「……おかあさん」
「あらやだ、こはる。そんな悲しい顔しないで。こはるはちゃんと大人になって、一生懸命お仕事をして、ずっとしあわせに暮らしなさい。お父さんも、お母さんも、そのために、がんばって畑の仕事をして、あんたたちを育ててるんだよ」
お母さんはふわりと笑って、あたしのほっぺたをつめたいがさがさの手ではさんだ。
コンロの火にかけた土鍋の中の水がふつふつと煮えてきた。あらしまった、と言ってお母さんはあわてて昆布を引き上げる。
大人になって、あたらしい家族をつくって、その家族に看取られながらあたしは死ぬの? そして、それまでに味わった喜びも悲しみも、ぜんぶ忘れてしまうの?
あたしはぼんやりと土鍋から上がる湯気を見つめた。
「……今夜は冷えるね。雪が降るんじゃないかしら」
お母さんがぽつりとつぶやいた。あたしは黙っていた。
目を覚ました瞬間、あれ、しずかだ、と思った。でもすぐに茶の間のテレビの音や食器を並べるかちゃかちゃという音が聞こえてきて、気のせいか、と思い直す。
のっそりと布団から這いでて、パーカを羽織る。すごく寒い。
「こはる。おはよう。カーテン開けて窓の外見てごらん」
茶の間に顔を出したあたしを、お姉ちゃんのはずんだ声が出迎えた。目がきらきらしている。お母さんもお父さんもくすくすと笑っている。いつもの朝より空気がきりりと冷えている。……もしかして。
「わあ。すごい」
シャッと勢いよくカーテンを開けると、白くてまばゆい光が瞳に突き刺さってきた。道路も畑もいちめん粉砂糖をまぶしたみたいに、白く染まっている。雪がつもっているんだ。
四角い掃きだし窓のフレームにおさまった世界は、文字通り色を変えていた。
白い雪に朝のひかりが反射してまぶしい。遠くの木々もわたのような雪をまとっている。と、フレームの中に見慣れた姿がまぎれ込んできた。市太だ。一瞬、野猿かと思った。何やら口をぱくぱく動かしている。
あたしは窓を開けた。とたんに冷気が流れこんできて身震いする。
「こはるのねぼすけ。はやく着替えて外に出て来い。早く遊ばないと昼には溶けるぞ。公民館の広場にみんな集まるっていうからお前も来い。じゃあなっ」
広場に? これは楽しいことになりそう。
ひさしぶりにわくわくした気分で、あたしは朝ごはんを食べた。お姉ちゃんもにこにこしている。このあたりは暖かで雪も滅多に降らない土地なので、たまに積もると皆のテンションが一気にあがる。だけど朝積もってもたいてい昼すぎには溶けてしまうから、雪で遊ぶひとときは、一瞬のまばたきの間の夢のようなものなんだ。