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それから三日。けしゴムのおまじないは、おおむね順調だった。あたしはとくに必要もないのにやたらとけしゴムを使いまくった。すでに四分の一は減ったかも。
「野々村。野々村。けしゴム、かして」
となりの席の山田があたしに話しかけてくる。
四時間目、書写の時間。外はつめたい雨がふっていて、さああ、という雨音とかりかりと鉛筆を動かす音だけが教室にひびいている。
「ごめん。あたしもけしゴム、わすれたの。ほかの人に借りて」
「うそつけ。あるじゃん、そこに」
山田があたしの机の上に手をのばした。けしゴムに山田の手が触れそうになって、あたしはあわててかばった。だれかにさわられたら、おまじないがぱあになっちゃう。
「ちぇ。なんだよ野々村。あやしーなあ」
山田はいぶかしげにあたしを見た。何とでもお言い。あたしはこの消しゴムを、何があっても守ってみせる。
だけど。あたしのそんな決意が、無残にも打ちくだかれる出来事がそのあと起こってしまったんだ。
それは給食がすんで、歯みがきを終えて教室に戻ってきたときだった。
「何してんの、あんたたち。人の席で」
山田と佐々木ハジメが、あたしの引き出しを探っている。
「こはるさ、けしゴムを人に貸さないってことは、誰かの名前を書いてるんだろ」
山田がにやにやしながら言う。佐々木があたしのふで箱を頭の上にかかげてひらひらさせている。
「やめて、かえして」
泣きそうな声で叫ぶ。なんだなんだ、とほかの生徒たちがわらわらとよってくる。
佐々木はケケケと笑った。
「そんなにムキになるってことは、決定だな。でもこはる、お前、市太とはどうせ両思いなんだから、こんなおまじない必要ないじゃん」
「でも、野々村と市太は別れたってうわさだぜ。野々村のやつ、よりを戻したがってるんじゃないの?」
と、山田。
げ。市太と絶交してるのはほんとだけど、いつの間にそんなうわさが広まっていたんだろう。こいつら、あなどれない。
「おーい、だれか市太さがしてつれてこい。こはるの消しゴム、お披露目してやろうぜ」
佐々木がさけぶ。オッケー、誰かが怒鳴る声。
最悪。だれにも見られたくない。
「ちょっとやめなよ。こはるちゃんがかわいそうだよ」
「そうだよ。男子たち、ひどすぎるよ」
加世ちゃんはじめ、女子たちがあたしの机を取り囲んで援護してくれる。なんだとこのやろ、と山田が加世ちゃんをにらんだ。加世ちゃんもにらみ返す。
男子たちと女子たちの間で、火花がばちばちはじけ飛んでいる。あたしの消しゴムをきっかけに、最近の男子たちのふるまいへの不満が、一気に噴き出した感じ。
「何だよ、いったい」
ふたりの男子に両脇をがっしりと捕まえられて、市太が連行されてきた。
「おれはバスケの途中だったんだぞ」
「バスケなんてしてる場合じゃないぞ。お前とこはるがよりを戻すチャンスだ」
「はあ?」
「けしゴムのおまじないだよ。こはるのやつ、好きな人の名前をけしゴムに書いてんのさ」
佐々木はそう言って、さらに何やら市太の耳元でささやいた。市太はとたんに真っ赤になった。
「ば、バカか。そんなわけねえじゃん。おれ、もう体育館にもどるぞ。じゃあな」
「まあそんなに照れなさんなって。おい山田」
佐々木はあたしのふで箱を投げて山田にパスした。
「やめてっ」
悲鳴みたいな声が出る。山田があたしのふで箱からけしゴムを取り出した。
やめて、さわらないで。きたない手で、あたしの秘密にさわらないで。
「なになに。さ・と・な・か」
山田がけしゴムの名前をゆっくりと読み上げる。ひゅーっ、たむろしている男子が口笛をふいてはやしたてる。きゃあ、やっぱり市太くんなの? と、女子までもが好奇心いっぱいのきいろい声をあげる。
「なんだこれ。漢字が読めない」
山田が顔をしかめてけしゴムをにらんでいる。市太が、山田からけしゴムをひょいと取り上げた。ああ、もう、おしまいだ。
「さとなか、……たくま。……おれの、兄ちゃん」
市太が、かすれた声で、ぼそっとつぶやいた。あたしは顔をおおって泣き出した。
とたんに、みんな水を打ったようにしいんとしずまりかえる。やがて、十月のつめたい雨の音だけが教室に戻ってきた。
やっぱり恋なんて、ろくなことがない。男の子をすきになったって、あたしはお姉ちゃんみたいに幸せな気持ちにひたることなんて、ない。
いつもの帰り道。あたしの黄色い傘を雨がばらばらとたたく音がする。からだが、しんから冷えていく。
ぴちゃぴちゃと、水たまりをふむ足音が追いかけてくる。
「おい、こはる」
市太だ。無視する。恥ずかしい。消えてしまいたい。市太にも知られてしまった。
「こはる。おれ、知ってるんだ」
なにを?
ゆっくりと振り返る。黒い雨傘をふかく差した市太の表情は、影になってよく見えない。
「兄ちゃんの、すきな人」
「うそだ」
「本当だよ。お前の、よく知ってる人だ」
市太はあたしのそばに寄ってきて、耳元でその名前を告げる。
「うそだ。うそだもん」
「うそじゃねえよ」
市太はさらにたたみかける。やめて。聞きたくない。
あたしは市太をつき飛ばして、雨の帰り道を、ひたすらに走りぬけた。心臓がどくどくしていた。目にうつる風景が、色をなくして、雨に濡れてぼんやりとにじんでいった。
「こはる。クッキー焼いたんだっ。食べる?」
台所からあまい匂いがただよっている。エプロンをつけたお姉ちゃんがオーブンからあつあつの天板を取り出した。
「……いらない。それ、彼氏にあげるんでしょ」
「まあね。だから、ちょっと味見してよ。まずくないかな?」
あたしは天板に並んだ星型のかけらをひとつ、乱暴に口に入れた。さくっと口の中でくだける。ふうわりとした、バターと卵と砂糖の味。
「お姉ちゃん、お菓子焼くの、じょうずだね」
そう言ったあたしの、のどの奥がしょっぱかった。クッキーはこんなに甘いのに。
お姉ちゃんは野ばらのようにきれいで、こんなに甘いお菓子を作れる。男の子はみんな、きれいな花がすき。甘いかおりが、すき。みつばちとか、あぶとおんなじ。
ごめんください、と、やわらかく透き通った声がする。この、声。あたしは台所の奥に引っ込んでかくれた。お姉ちゃんがお勝手の扉をあける。
「琢磨くんじゃない。めずらしい。いつもおつかいで来るのは市太なのに」
「あ、はい。市太のやつ、行きたくないとかわがまま言って。あ。これ、柿です。いっぱい採れたから、おすそわけです」
「琢磨くん、何で敬語なの。へんなの。お母さんにありがとうって言っておいてね」
琢磨君とお姉ちゃんが話しているのを、冷蔵庫のかげからぬすみ見る。琢磨くん。市太が言ってたこと、ほんとうなの。
「そうだ琢磨くん、クッキーあるんだ。食べてみない?」
「え。あの、いいです。もう、帰ります」
「遠慮しないでもいいのに。ちょっとだけ味見してみて。はい」
あたしは思わず身を乗り出した。お姉ちゃんは星型のあまいお菓子を、琢磨くんのかたちのいい口に押し込んだ。とたんに琢磨くんが真っ赤になったのがわかった。
「おいしい?」
琢磨くんは赤い顔をしたまま、もごもごと口を動かしながらうなずいた。ぺこりと頭をさげて、そそくさときびすを返して走り去っていく。
やっぱり本当だったんだ。市太の言ってたこと。琢磨くんの青いかさが目にはいる。あんなにあわてて。雨が降ってるのにかさを忘れていくなんて。
「こはる?」
お姉ちゃんがきれいなアーチ型の眉を寄せた。あたしは靴をはいて、家をとび出した。いそいで琢磨くんの後を追う。
「琢磨くん。琢磨くん。かさ、わすれてるよ」
琢磨くんのうしろ姿を見つけて、あたしは叫んだ。びっくりしたように振りかえる琢磨くん。
「ありがとう。忘れたの、気づかなかった」
「へんだよ。雨がふってるのに、かさ、わすれたの気づかないなんて」
「そうだね。へんだね」
琢磨くんは困ったような顔をして、笑った。
胸が、ぎゅううっと苦しくなる。
「……琢磨くん。あのね、あのクッキー、お姉ちゃんが焼いたの。お姉ちゃんが、彼氏にあげるために焼いたんだよ」
「こはるちゃん?」
「お姉ちゃんね、彼氏がいるんだよ。すきな人が、いるんだよ」
「こはるちゃん。どうしたの。なんで、泣いてるの」
「お姉ちゃんは、すきな人がいるの」
だから、お姉ちゃんのことをすきにならないで。
あたしのなみだは止まらなかった。
さなえ姉ちゃんだよ、兄ちゃんのすきな人。そう市太は言ったんだ。うそじゃねえよ、兄ちゃん、いつも窓から見てるんだ。さなえ姉ちゃんが自転車をおして、学校から帰ってくるところを。そう言ったんだ。
「……ぬれるよ。かぜひくよ、こはるちゃん。」
かさもささずにうずくまって泣いているあたしに、琢磨くんは自分の青いかさを差しかけてくれる。青いかげが濡れた路面にうつって、あたし、そのまま消えてなくなってしまいたいって思った。
はじめて。あたしはその時はじめて、お姉ちゃんのような美しさがほしいと、かたばみじゃなくて野ばらになりたいと、そう思った。