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よく晴れた土曜日の午後。あたしはひさしぶりに、スケッチブックを持って出かけた。
うらの畑のあぜ道をぬけて、あてもなくぶらぶらと歩く。だんだん畑の稲穂はもう刈り取られて、畑の上にはやぐらのような積みわらが行儀よくならんでいる。石垣のすき間をぬうように黄色い野菊が咲いている。ばあちゃんが丹精こめて育てている鉢植えの大輪の菊も、この間見事な花をつけた。花火のようにまるくととのった花のかたちは確かに立派だけど、あたしは野に咲く小さな菊のほうが好き。
秋の野はさまざまに彩られる。うす紫の、ノコンギク。赤く色づいたからすうり、山ぶどうのつる、アケビの実。
だんだん畑をぬうようにひかれたほそい道ばたに出る。道の端っこに腰掛けて足をぶらぶらさせる。一メートルほど下は、また畑だ。
ぼうっと、目の前にひろがる景色を眺める。すすきの穂がゆれる。モザイクのようにつらなった畑のむこうに、ところどころ赤く黄色くそまった、こんもりとした林。さらにその向こうにはうす青くかすむ山のみね。
まっ白いスケッチ・ブックが風ではらはらとめくれる。傾きはじめた日のひかりがそれを古い映画のフィルムのようにあせた色にそめる。秋がきて、枯れていく景色。
どれくらいの間、そうしていただろう。キイイ、と鳥の啼く声がひびく。からすの群れが飛んでいく。透明な空が赤く染まる。六時のチャイムが鳴る。「七つの子」のメロディ。
「あれ、こはるちゃん」
自転車のブレーキの音がして、あたしは振り返った。
「琢磨くん、どうしたの」
「友達の家に行った帰りだよ。こはるちゃんは、またスケッチ?」
琢磨くんは自転車をとめてあたしのとなりにすわった。見せて、と言ってスケッチブックをのぞき込む。琢磨くんの前髪が、はらり、と揺れた。
「あれ。真っ白だね」
「……うん。何も描けなくて、ぼーっとしてるだけだった。最近、こんな感じで何も描けないの」
うつむいて、あたしは言った。となりに腰かけた琢磨くんの、ジーンズに包まれた足がすらっと伸びている。
「ふうん。こはるちゃんにも、スランプって、あるんだね」
「スランプ?」
「うん。ほら、野球選手が急に打てなくなったり、作曲家が急に曲を作れなくなったりすることを、そう言うんだ。でも、たいていは一時的なものだから、心配ないと思うよ」
「琢磨くん、お医者さんみたいな言い方」
そうだね、と琢磨くんはふわりと笑った。あたしも琢磨くんを見上げて、わらった。夕陽のオレンジのひかりが琢磨くんの髪を金色にふちどっている。まぶしい。
「……背が伸びたね。琢磨くん」
「うん。六年生になってから、かなり伸びたよ」
「いやじゃない? その、勝手に、背がのびたりするのって」
「どうして? 嬉しいよ。もっともっと伸びればいいのに、って思うよ」
琢磨くんは心底不思議そうな顔をしてあたしを見つめた。
「早く大人になりたい。小児ぜんそくって、大人になったらよくなるっていうじゃん。ぜんそくの発作って、本当につらいんだ。苦しくて苦しくて、いっそのこと、息が止まってしまえば楽になるのに、って」
「琢磨くん」
琢磨くんの横顔が、ふっとさびしそうにくもった。なぜだか、胸がきゅっとしめつけられるかんじが、した。
「わあ、すごいよ、こはるちゃん。見て」
琢磨くんが、きゅうにはしゃいだ声をあげる。琢磨くんが指差したさきには、山のむこうに吸い込まれていく真っ赤な太陽。線香花火のまるいしずくみたいに、今にもこぼれ落ちそうな赤い灯。すすきの穂が金色にそまって揺れている。
きらきらしている。目にうつるもの、ぜんぶ。あたしは息をのんで、黄金色にかがやく世界をみつめた。
やっとかえってきた、あたしの手のひらのなかに。
「こはるちゃん。そろそろ、帰ろう。日が暮れたら、すぐに暗くなっちゃうよ」
琢磨くんは立ち上がって、あたしに手をさしのべた。すこし迷って、あたしは琢磨くんの手に自分の手を重ねた。ひんやりとした琢磨くんの手に触れたとき、あたしの心臓が勝手にどきどきしはじめてびっくりした。自転車をおす琢磨くんのとなりを歩いているあいだ中もずっと、あたしのどきどきは止まらなかった。
「いい加減、機嫌直せよ」
市太が道ばたのどんぐりを拾って、あたしのランドセルにこつんとぶつける。無視した。絶交してるんだから当然だ。ほんとは顔も見たくないところだけれど、近所どうし集団登校するきまりだから、朝、顔を合わせるのはまぬがれない。
「こはるちゃん。何があったかしらないけど、許してあげれば? 市太のやつ、家でも機嫌わるくて大変なんだ」
「うるせえ。兄ちゃん、余計なこと言うなよ」
琢磨くんはひょろっとしたからだを折り曲げてくくくっと笑った。あたしはくちびるをかんでそれを見つめた。
恋。琢磨くんと夕陽をみたときから、この単語が頭からはなれない。好きな人といっしょだと、世界がかがやいて見えるの、とお姉ちゃんは言っていた。まさか。でも、あれから目をとじていても琢磨くんのわらった顔が浮かんできてはなれない。こはるちゃん、と呼ぶやわらかな声がずっと耳の奥に残っていて、はなれないんだ。
琢磨くんはクラスの男子とちがってデリカシーがあるし、やさしい。それにとってもきれいな顔立ちをしている。まんがに出てくる男の子みたい。胸がいっぱいになって、ふかいため息をつく。
「こはるちゃん、どうしたの。そんなにため息ばっかりついて」
加世ちゃんが心配そうにあたしの顔をのぞき込む。
「わかった、市太くんのこと考えてるんでしょ」
あたしは加世ちゃんの顔をにらんだ。もう、どうしてみんな市太市太って言うの。
「こはるちゃんはいいなあ。好きな人と両思いだもんね」
「だからちがうってば」
「え、ちがうの? じゃあ誰?」
あたしはうつむいた。顔が熱い。琢磨くん、なんて絶対にいえない。
「こはるちゃん。いいこと、教えてあげようか? 好きな人と両思いになるおまじない。」
みんなやってるんだよ、と言って加世ちゃんはあたしにこっそりとおまじないの方法を教えてくれた。
「新品の消しゴムに好きなひとの名前をかくの。それをケースでかくして、誰にもさわられずに最後まで使いきれたら、思いがかなうんだよ」
チャイムがなって、加世ちゃんはあわてて自分の席に戻った。
あたしはふで箱の奥から、あたらしい消しゴムをとりだしてながめた。
両思いって、どういうこと。ずっと琢磨くんのとなりにいられる、ってこと。
先生が黒板に文章題を書いて説明している。ぜんぜん耳にはいらない。まっ白いけしゴムに、ボールペンで「里中琢磨」と書いたとき、あたしは何か取り返しのつかない秘密を抱えてしまったみたいな気がして、すごくどきどきした。