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電信柱の曲がり角のところで加世ちゃんと別れて、あたしはとぼとぼと小石を蹴りながら家へ向かった。こはるちゃん元気だしてね、と加世ちゃんはなぐさめてくれた。やさしいな、加世ちゃん。
あたまの上を吹き抜ける風が、はっか飴のようにすうっとすずしい。だんだん畑の、黄色い田んぼのあぜ道に野菊が点々と咲いている。そろそろ、稲刈りのころだ。
「サル、ゴリラ、チン、パン、ジー。サル、ゴリラ、チン、パン、ジー」
聞きなれた声が、奇妙な歌をうたいながら近づいてくる。どこかで聞いたメロディ。
「なあに、それ。変なうた」
振り返って、あたしは後ろ向きに歩き出す。
「おう、こはる。さすがにもう泣きやんだか」
市太がランドセルをがちゃがちゃいわせながら、駆け寄ってくる。
「ストーップ」
手のひらをまん前につき出して市太を制止する。
「半径二メートル以内にちかよらないで。だれかが見てたら、またいろいろ言われる」
最近、やたらクラスの連中があたしと市太のことを冷やかすんだ。女子までもが、「こはるちゃんのすきな人、市太くんでしょ」なんて言う。いい加減うんざりしているところなんだ。
市太はちっとも気にしていないようすで、あたしのとなりまでやって来た。そして、きゅうにひそひそ声になって、言った。
「つーかお前さ。最近元気ないと思ってたら、その、あれだったんだな」
「は?」
「ほら、佐々木バカメが言ってたじゃん。こはるが、なった、って。ちょっとご近所のよしみでさ、教えてよ。あれってどんな感じなわけ?」
「バカじゃないのッ」
あたしは体操着の入ったきんちゃく袋を、市太の顔面におもいっきりぶつけた。
「なってないし、そんなもん。そういうこと聞くなんて、最低。あんたも佐々木と同レベルだ。あんたなんか絶交だよ。今後いっさい、あたしにちかよらないで。わかった?」
思いっきりまくし立ててやった。ふん。せいせいする。
「なんだよ、それって、そんなに怒ることなわけ?」
市太が情けない声を出したけど、あたしは無視して走り去った。
前まえから思っていたことだけど、里中市太という人間は、ほんとうにデリカシーがない。いつもいばっているし、ピンポイントでしゃくにさわるひと言を言ったりする。きょうだいのように育ってきているけど、今までに数え切れないほど大げんかして、そのたびに絶交したものだ。たいていはいつの間にかうやむやになってしまったけど、今回はちがう。今回の市太は、自分のなにがあたしを怒らせたのか、ちっともわかっていない。
大人がいけないんだ。ちゃんと男子に教えてほしい。からだのことで女子をからかうのは最低です、って。面とむかって聞かれるのは恥ずかしいものなんだ、って。大人がちゃんと教えないから、あたしが絶交して教えてやるしか、ないんだ。
「こはる。どうしたの、帰ってくるなり布団ひいて寝転がって。具合でも悪いの」
「頭いたい。おなかいたい。明日、学校、やすむ」
「あら。うーん、熱はないみたいだけど?」
ひたいに触れたお母さんの手が、ひんやりして気持ちいい。今まで、水仕事をしていたのかな。お母さん、お母さんは、お母さんっていう生き物なんだよね。フジケンのお母さんみたいに、男のひととあんなこと、しないよね。それとも違うの。大人はみんな、するの。
お母さんはあたしのからだに、ふわりとやさしくかけ布団をかけてくれた。ぽんぽん、と頭をなでてくれる。泣き出しそうな顔を、布団をすっぽりとかぶって、かくした。
柱時計が五時をさした。ボーン、と、古ぼけた音がする。オレンジがかった西日が障子越しに入ってくる。あたしは天井の木目を見つめている。人の顔みたい。ふたつの、目。
「こはる。ぐあいはどう?」
すっとふすまが開いて、ばあちゃんが入ってきた。
「たんすを整頓してたらね、なつかしいものを見つけたよ」
ばあちゃんのしわしわの手が、蕎麦ぼうろの四角い缶のふたをあけた。
「わあ」あたしは思わず、からだを起こした。
「じゅず玉が、たくさん」
「あんたが今よりもっと小さいころに、山で集めてきたんだよ。こはるは、これで首飾りをつくるって言ってたのに、針がうまく使えなくてあきらめちゃったんだよ」
「ばあちゃん。さいほう道具、貸して。今ならうまく作れるかも」
「そう言うと思ってた」
ばあちゃんは古ぼけた、赤いちりめんの布張りの小箱をあたしに差し出した。
あたしは布団からごそごそと抜け出した。細い銀色の針で、グレーの、小さなしずく型のじゅず玉につまった、芽のような芯を掻きだす。三十粒ほどその作業が終わったら、こんどはそれに糸を通してつないでゆく。
「手際がいいね」
「うん。だって家庭科で、針のつかい方、習ったもん」
「そう」ばあちゃんはしわの奥の目を細めた。
「こはる、元気になった?」
「……おばあちゃん」
「なにか最近、悩み事があるみたいだね。大好きな絵も、このごろ描いていないみたいだし」
「……描けないの。描く気が起きないの。前は、木とか川とか花とか空とか、全部きらきらして見えたのに、今はぜんぜん違うの。まるで、目がくもってしまったみたいなの。どうしてなんだろう。わからないの」
こはる。ばあちゃんがあたしの背中をゆっくりとさすった。あたしは、急に胸がいっぱいになって、わあわあと泣き出してしまった。あたし、まるで赤ちゃんみたい、って思った。
ごはんの後、あたしは早めにお風呂に入って寝ようと思って、着替えをもってそそくさと脱衣所に向かった。服をぬいで、がらがらとお風呂の引き戸を開ける。
「あ」からだを洗っているお姉ちゃんと目があった。「ごめん」
「いいよ、こはる。入っておいで。寒いでしょ。背中、流してあげる」
あたしはもうすでにすっ裸で、また服を着るのも面倒だから、お姉ちゃんの言葉に甘えた。女同士だし。いっしょに温泉もはいるし。べつに、いいか。
お姉ちゃんはせっけんのあわだらけのからだに、ざばあ、と湯ぶねのお湯をかけた。ふわりと湯気があがって、お姉ちゃんのうす桃色にそまった肌が、ヴェールをかけたみたいにけぶって見える。お姉ちゃんの肩は、きゃしゃだけどつるりと丸い。絵本のなかの人魚姫みたいに腰のあたりがくっとくびれて、おしりにかけてまるいラインをえがいている。それに、ふっくらとやわらかそうな、ふたつの乳ぶさ。お姉ちゃんが腕をうごかすと、ふるふると揺れる。あたしはどきどきしてしまう。
「ちょっとこはる。何、見てんの」
お姉ちゃんはそう言って、タオルでからだをかくして突っ立っているあたしの頭の上から、ざん、とお湯をかけた。
「ぷはっ」子犬のようにぶるぶると首をふって水滴をとばす。
「何すんの」
お姉ちゃんはくすくすと笑った。あたしはむくれて、湯ぶねにつかる。お姉ちゃんも、あたしの後から入ってきてお湯につかる。
「ふうう。ごくらく、ごくらく」
お姉ちゃんが息をつきながら言う。長い髪の毛をゴムでまるくまとめてしばっている。
「お姉ちゃん、おやじくさい」
あたしが言うと、お姉ちゃんはけらけらと笑った。濡れた前髪がつやつやした肌にぴったりとはりついている。お姉ちゃん、きれい。
「お姉ちゃんてさあ」タオルをお湯にうかべて空気をためる。
「好きな人、いるんだよね」
「こはるは、いないの?」
「だから、いないってば。男子なんてデリカシーがなくて、最低だもん」
「デリカシーがないのは最悪だよね。やっぱ、男は優しくないと」
お姉ちゃんのカレシは、やさしいんだ。やさしい男子なんて、はたしてこの世に存在するんだろうか?
「お姉ちゃん」思い切って聞いてみる。「恋って、どんな感じ?」
フジケンのお母さんはあのとき、「すきよ」って、男のひとに言ってた。あれも「恋」なんだよね。だんなさんがいるのに。フジケンとフジケンのお父さんは、どうなるの。理解できない。
「やだ、もうっ」お姉ちゃんはぴしゃっとあたしにお湯をかけた。
「うーん。恋はねえ、いいわよ。あんたも、一生恋なんてしないなんて言わないほうがいいよ。もったいない」
「え、なにがそんなにいいの」
「好きな人といっしょにいるとね、なんか、世界がちがって見えるのよ。なんでもない景色が、こう、かがやいて見える、っていうか。きらきらして見える、っていうか」
「…………」
「あー、恥ずかしい。何言わせんのよ、もう。あたし、先にあがるね」
お姉ちゃんは、あついあついと言いながら、ざばっと立ち上がって湯ぶねから出た。
お姉ちゃんのはだかを、もろに真正面から見てしまった。やっぱり、きれい。真珠みたい。ううん、もっと、いいにおいのするもの。野ばら。白くて、清らかで。わらべは、みたり。のなかの、ばら。
あたしは湯ぶねから出てせっけんをあわだてた。「野ばら」のうたをハミングしながら、からだを洗った。あたしのからだは、まだ全然お姉ちゃんみたいじゃない。日焼けしてうでも足も黒いし。花でいえば、かたばみみたいなものだ。でも変化のきざしはある。足のあいだにも、わきの下にも。
見たくない。思わず、ぎゅっと目をつぶった。ごしごしとスポンジでからだをこする。何だろ、これ。両胸に、ゴムみたいな、小さなぐりぐりがあるんだ。手のひらで押すと、痛い。春がきても開こうとしないつぼみのようにかたくなな、小さなしこり。
このつぼみが開くころ。あたしの胸もきっとお姉ちゃんみたいに、ふるふるになるんだ。その日がやってくるのが、こわい。胸の奥がつんとして、あたしは泣きそうになった。