第八章:8
薄く開けた窓から、月明かりが、射してくる。
墨を流したような黒の中、青い光が一筋、斜めに走っている。光は床に落ち、床から舞い上がる埃に光が当たり、チンダル現象で浮かび上がっている。細い、線香の煙のように淡い光明は今にも消え入りそう。それでも、光は己の姿を変えない。
その光の行く末、床に落ちた光点を省吾はぼんやりと見つめる。喧騒から解き放たれた今、静寂のみが支配する。光が、ただあるように省吾もまた、ただそこに在るのみ。
省吾は時計を確認する。少し眠ろうかとも思った。だが、意識は眠りを拒む。眠れないというより、眠るのが厭、なのだ。
夢を視ない日が、なかった。
どんなに疲労していても、一瞬のうたた寝であろうとも、必ず夢を視てしまう。
眠りに就けば、また。
……また、夢を視てしまう。そして必ず、同じ場面を見る。それは母親であったり、かつての師であり、もしくは……恐らく初めて、省吾が特別だと認めた人だったり。深く関わりを持った者の死。省吾が生きてきた中で、省吾に関わったすべてのものを。
いくら年月を重ねようとも、決して忘れることはなかった。それどころか、眠る度に鮮明になる、死の瞬間。
“ウサギ狩り”。焼ける空気、硝煙の匂い。温い血の味すらも、感じ取れる。それは現実以上の実態を伴い、眠る省吾の脳裏に蘇る。何度も、何度でも。
それだけなら良い。
だが深く交わったものの死は、そう簡単に拭えない。夢の中ではいつも、機械の兵士に追い回されて、誰かが果てる瞬間に目が覚める。蘇るのは恐怖よりも、悔恨、だった。
自分には、救えなかった――その事実が、胸に棘が刺さっているかのようにいつまでも心中に残っている。起きた後も、ずっと。
省吾の手から零れ落ちたものは、大きすぎた。何かを得ても、消えてしまうならば。
「もう二度と、手にすまい」
だから、あれからずっと独りで生きてきた。独りでいることは当たり前で、それは特別なことではない。
人は独りで生まれて、独りで生きて。たった独りで、死んで行くのだから。
だけど、省吾は出会ってしまった。
「仲間になって欲しい」
あの女は、そういった。
「誰かのために」戦うという、物好きな女だった。仲間とか、大儀とか。そんなものを信じている人間が、こんな街にいたこと自体ありえないと思っていた。
馬鹿馬鹿しいと切り捨てるのは簡単だった。誰も、その女のようには振舞おうとはしない。己の利のみを追い求める、それがあるべき人間の姿だと。
『武とは、そういうものではない』
師の言葉が、脳裏をよぎった。それは省吾が剣を取り、稽古に打ち込んでいた頃。まだ世界のことなど知らず、剣が世界の全てと信じていた幼い少年時代のことである。
武、とは人を殺めるだけではない。人を活かすものである。そう、『先生』はいった。
自分の身を守るため、己の利のため。そのために人を殺す。国家の戦争から個人の小競り合いまで、争いというものの要因の殆どがそうである。
「だが、そんなものは武ではない。己の欲や益のために振るう力ではない、武は護るためにこそあるんだよ、省吾」
護る――その単語だけは、はっきりと覚えている。
「私はこの国を護れなかった。武を志すものとして、私は失格だ。だから省吾、お前には」
お前には誰かを、何かを護れる人になってもらいたい――。
意思の強い瞳は、憂いを帯びていた。
(誰かを、何かを)
自分にはそんなことも、できそうにない。こんな街では特に。
自分の身を、守ることしかできない。刀を振るうのも、『BLUE PANTHER』との戦いに身を投じたのも。結局は己と己の生活のためでしかなかった。誰かのためじゃない、あの黒づくめの男にいわれて『鉄腕』のICチップを手に入れるためで、誰のためでもない。エージェントの仕事は危険が伴うが、あの男は生活するのに十分な報酬を渡してくれる。今の省吾には、その収入に頼るしかない。
(俺は、結局)
己のためにしか、剣を握らない。
だが、あの女――朴留陣は違う。『OROCHI』の仲間のため、難民たちのために戦うという。そして実際戦っている、自分のためではない誰かを護る為に。
だが彼女の行為こそが、本当のあるべき“武”なのかもしれない。
そんな彼女の姿を、愚かしいと蔑む一方でどこか羨望の眼差しで見ている自分がいる。眩しいとすら、思った。
自分にはないものだから。
時計の針が、10時を指す。響く鐘の音が、空気を奮わせた。
自分には、あの娘のようには生きられない。そう思った。独りで生きて、誰とも関わらずに死ぬつもりだったのだから。
『失うのが怖いか、省吾』
師の声が聞こえた、気がした。
『ならばそれもよかろう。だけどな、お前自身はどうなんだ? 本当にそれでいいのか』
わからねぇ……。
省吾には、分からない。ユジンのような人間は。
(俺には護るようなものは、ない)
だから、彼女のような生き方はできない。
何のために剣を握るのか。剣を振り続ける、その先に答えがあるのか。
あの人に、『先生』に会えば分かるかも知れない。
だから追い求めるのだろう、彼の人の影を――。
時計の短針が、長針と重なった。
零時。街が目覚める時刻。
血が逆流するような、衝動を覚える。体が灼けつく、皮膚の下で筋肉がうねるのがわかる。 おかしなものだ、と自嘲気味に鼻を鳴らした。死地に赴くとき、戦場に向かうときは体が勝手に反応する。身体の至るところ、細胞の一つ一つにいたるまでが、戦うために動き出すのだ。
つまりは、これから行くところは……。
「鬼が出るか蛇が出るか」
省吾は起き上がり、窓を開いた。
刀のような三日月が、直上に掛かっていた。よく砥がれた刃は、黄金色。月光が暗雲を切り、闇を裂いた。
「いや、違うな。これから行くところは」
龍の縄張り、だ。
「来たか」
ランドローバーのボンネットに、身を預けるようにより掛かっていた金は、1人の男の姿を確認した。
全身をグレーのコートに包んだ、長身痩躯の東洋人。顔面に深く刻まれた、今宵の月にも似た刀傷。
月が放つ青白い燐光に浮かび上がる、真田省吾の姿がそこにあった。
「金、あんたのいうことは信じない」
省吾は無表情でいった。
「俺は確認するだけだ、俺の目で」
「ああ、そうしてくれ」
金が応じた。
「ここで起きたこと、今から起きること。この街で信じていいのは、自分の目だけだ。今夜のことも自分で、確かめるんだな」
金が車に乗るよう促し、省吾は助手席に乗り込んだ。
「西の都へ、ご招待」
勝手な都合で申し訳ありませんが、次回は24日ごろに……すみません。私生活が落ち着いたら、もう少し更新頻度を早くできると思います。