第八章:6
『疵面の剣客』という呼び名は、誰が最初にいいだしたかは分からない。
ただ、この顔の傷――『疵面』と云われる所以となったのは間違い無く先の『BLUE PANTHER』との戦闘でつけられた傷の所為である。
『鉄腕』の右腕“クライシス・ジョー”につけられた刻印。同時に、この成海の住人として生きていくことを、余儀なくされた。
「人を探しているだぁ?」
《南辺》第5ブロックのうらびれた酒場にて。白人の、中年のバーテンが素っ頓狂な声を上げた。
バーテンの目の前にはグレーのコートを着た男が座っている。フードを目深に被って、顔の半分を隠している。顔はうかがえないが、言葉の端々にある訛りからアジア系であることは間違いないだろう。
20年以上前に流行った、『スターウォーズ』シリーズに出てくるジェダイの騎士のようである。
「そう。アジア人の女だけどね。歳は、20代後半。身長は俺と同じか少し低い程度で、痩せ 型。髪と目は黒で、英語と広東語の他に日本語も話す」
声からしてかなり若い。酒場にたむろしていたほかの客が、ものめずらしさに目を光らせた。何も知らない世間知らずの坊ちゃんが、こんな酒場に1人で来ることなど。毎夜毎夜、酒を煽るだけの酔客たちにとってはイレギュラーなことである。
――獲物が自分から、巣穴に飛び込んできた。
もともとこの店は、白人系のストリートギャングが元締めとなっている。ギャングの収入源は多くあるが、『OROCHI』のように強奪や恐喝のみで収入を得るという組織は少なく、多くは飲食業、売春宿などで資金を得ている。他にも麻薬の密売や武器の売買に手を染めている者もいるが――それらの取引は、稼ぎにはなるがリスクも高い。底辺の小組織は、普通は手を出さないものだ。
「坊や、ここはそういうところじゃねえ。酒も飲めんのなら、とっととお帰りいただこうかねえ」
「ちなみに」省吾は構わず続けた。
「そいつは武術の心得があってね。1年前にはすでにこの街にはいたらしい。心当たりは、ないか?」
グラスに、照明が反射している。
バーテンが、背後の客たちに目配せをした。
「しらねえな、そんな女」
「そうかい? なら《南辺》で知っていそうな奴はいないか?」
「それも知らん」
背後で、客の1人が立ち上がった。金髪を肩まで垂らした、大男だ。
「やめときな、ボーイ」
肩によりかかり、耳元に唇を近づけ囁いた。ひげをたっぷりたくわえた口が、愉悦に綻ぶ。
「そいつにゃわからねえよ。ただ、俺は心当たりがないわけでもないが?」
「ほう、それなら教えてもらえるかい?」
「いいとも……今夜、俺の相手をするならな」
背後の白人達が下卑た嬌声を上げた。口笛を鳴らしている者さえいる。
「いっている意味が、よく分からないがな」
「なに、痛いのは最初の一回目だけだ」
さらに耳元に――キスでもするかのように――口を近づけて吐息を吹きかけた。酒臭い息が、鼻をついた。
「そのうち病み付きになる。女とヤるよりよっぽどいいぜ」
「なるほどね」
言うや男は立ち上がり、ひげの白人の喉を掴んだ。
咄嗟のことに、体の反応が遅れた。掴まれた男は一気に気道と頚動脈を締め上げられた。顔から、色が失せていく。
「大分分かってきたよ、成海の流儀ってやつが」
右の親指が喉に沈み、男は白目を剥いた。
同時にフードを取る。
彼の顔には
「てめえ……『疵面』……」
街の囚人たる証が、深く刻まれていた。
「おや、俺のことを知っているのか」
疵の男――真田省吾がいうのへ、その場にいた全員が色めき立った。
「それだけ青豹との一件が大きかったというわけか。まあ、どうでも――」
1人が酒瓶で殴りつけてきた。足を繰り、省吾は向き直った。
すばやく腕を取り、肘の逆関節を取る。男の腕が軋んだ。
「さてと、こうなった以上」
指に力を加える。男の顔が歪む。腰を落とし、足の親指に力を溜める。
攻撃の、構えをとった。
「この店には用はない」
男の腕をへし折ると、素早く瓶を手に取った。
目の前が開ける。店にいたもの全てが敵意をぶつけてきた。ある者は拳を握り、ある者は割れた酒瓶を振りかざし。
距離、1メートル。
右手を差し出し、一番近くの者の顎を掌底でカチ上げる。折れた歯が血と共に吐き出された。
床に落ちると共に、蹴りを放つ。基本的に、護身のために用いる蹴りは相手の腰より上は攻撃しない。その戦法にのっとり、金的を蹴り上げたのだ。
泡を吹いて倒れる男を尻目に、省吾は次の相手を見据える。ちょうど右方向から、ナイフを逆手に振りかぶる男がいた。その動きも、省吾は見ていた。
摺り足で懐に入り、体を転換。ナイフを避けると共に腕を取る。重心を調整しつつ、男の手の甲をかぶせるように掴んだ。
それから先は早い。手首の関節を返し、手首を外側に折り畳むように極めた。
小手返し。関節の稼働域を無視して手首を折り、相手の力を返す柔術の基本技である。骨を折られまいとする、反射作用を利用して相手を投げ飛ばす。
一旦、男の体が空中に放り出されたと思うと次には背中から落ちた。
今度は3方向から、襲い掛かる。
体を真横に。右肩を人垣の隙間に滑りこませる。
3人同時にかかるのを省吾はすり抜け、背中に当て身を1発ずつ打った。次に右足を軸に体を回転させ、左の手刀を叩きこむ。同時に視界の隅に捉えた男に、横蹴りを。男は吹き飛び、カウンターの向こうの陳列棚に激突した。衝撃で酒瓶が踊り上がり、地面に落ちてガラスが砕けた。中身とともに破片がカウンターを叩く。省吾の頬に、小さなガラス片が突き刺さった。
「こ、この野郎!」
バーテンが店の奥に引っ込み、いくらか埃を被ったショットガンを持ってきた。
そして発砲。テーブルが粉々に吹き飛んだ。
「俺の店で、暴れるんじゃねえ!」
もう一度。今度は省吾に向かって撃つ。省吾は素早く伏せ、散弾は背後の男に当たった。出っ張った腹が破裂し、血と細かい骨が弾け飛ぶ。
バーテンは狂ったように、撃ちまくった。ショットシェルが排出されるたびに、天井に穴が開き床板が跳ね上がり、と。硝煙が立ちこめ、雷が轟く。発射炎が、煙の中で大輪の花を咲かせた。
銃声と怒号、グラスが床に叩きつけられて割れる音。全てが混ざり合い、高低あわさった不協和音を奏でた。
匍匐前進でトイレのドアに隠れた。バーテンの男はベネリショットガンを持って、ドアに近づいてくる。
こういうのを、なんていうんだったっけ?
乏しい英語の知識に油をさし、記憶をまさぐる。確か、こういう時にギャングたちが口にするようなスラングがあったはずだ。
「ああ、そうだこういう風に言うんだっけな」
扉が開け放たれた。省吾は傍らのモップを手に取る。
そして対峙。ショットガンの銃口に対し、省吾がモップを突き出した。
『God damn ass-hole!!』
省吾にかぶせるように、もう1つ声が聞こえた。
「は?」
銃を構えるバーテンの横で、影が立った。
空気が突風となり、嵐となって吹き荒れる。長い脚が空間を撫で斬った。
優美な伸脚、踊る爪先。
次にはバーテンの頭が、ゴム鞠のように跳ね上がった。
わずかな、間。
「よぉ、『疵面』。また会ったな」
その場に全くそぐわない、脱力を禁じえない間延びした声が聞こえた。それはつい最近聞いたばかりで、尚且つ二度と聞きたくはないと思っていたものだった。
「あんたかよ……ええっと」
「金、だ。久しぶりだな」
無精髭が、にっと笑った。垂れた目じりがますます下がり、口笛混じりの声が発せられる。
「元気そうだな。相変わらず、面白いことに首突っ込んでよぉ」
足元には、件のバーテンが銃を持ったまま昏倒していた。金の前蹴りが、男の顎を喰らったのだ。バーテンの男は何が起こったか分からぬまま意識を飛ばされただろう、まさか、真横から攻撃を受けるとは思わなかったに違いない。
「中の奴らは、あらかた片付けたぜぃ。喧嘩じゃ銃も出せない腰抜け揃いで助かった」
「ああ、そう」
興を削がれ、モップを投げ捨てた。
「残念だな、折角宝蔵院ばりの槍術を披露してやろうと思ったのに」
もっとも、槍術は一心無涯流柔拳法には組み込まれていない。単純な槍の扱いなら燕の方が長けているだろう。
「ただ、この騒ぎを聞きつけた元締めのギャングどもが駆けつけてくるだろうな。そうなると、俺とお前だけでは対処できねえ。どうする?」
喜々として金が訊く。腕組みしながら、省吾はしばらく黙っていた。が、直ぐに口を開いた。
「……ずらかるか」
「だな」
すぐさま金が同意し、省吾が捨てたモップでトイレの窓を打ち破りに掛かった。
「これで2回目、だな」
裏道を走りながら、金がいった。「お前を助けるのは」
「違うな」省吾が反論する。
「俺は、『助けて欲しい』なんて一言もいってない。全部お前が勝手にやったことだろう」
「でも、助けられた」
にんまりと笑う金に、省吾は閉口する。
「いや、それは……」
いい返すことが出来ない。その通りだからである。
いずれもこの男がいなければ――ただ、それを認めるのは癪だから黙っていることにした。そんな弱みを、この男の前で見せてしまった。その事実が、胸を刺す。
「まあいいや。ところでお前、面白い技を使うな。さっきのあれとか……」
「さっきの?」
というか、この男はまた見ていたのか。省吾の立ち回りを……一体どこから。
疎ましさと幾らかの気味の悪さを感じつつ、聞き返した。
「ホレ、手首を返して投げるやつ」
「ああ、小手返しね」
「そうそう、それ。あんた、ハプキドでもやるのか?」
ハプキドとは、朝鮮の合気道である。崔龍述が日本の大東流合気柔術を学び、半島に持ち帰った。その後、あらゆる格闘技の要素を取り入れ独自に進化した武術で、現在でも半島で細々と伝承されていると聞いた。
合気道と表記するものの、日本の合気道とは別の武術である。
「ハプキドね。それを口にするってことは、あんた朝鮮人か」
「平壌生まれだ」
省吾の顔が、急に険しくなった。
「平壌事件の、生き残りか?」
「そう。あんたらチョッパリに殺られかけてね……おっと失礼、つい地が出てしまった」
「別に、いい」
憎まれることなど、慣れている。朝鮮と日本は昔からいがみ合いは絶えない。日本が朝鮮に攻め入った歴史に起因することが多いが、ことはそう単純ではない。思想の問題や、大陸の王朝のとの絡みもある。どちらが悪いということは、一概には言えない。
「なあに、俺ぁ別に『過去を清算しろ』とか、そんなみみっちいことはいわねえよ」
そうはいっても、目の前で「豚の足」などという男を信用できるわけはない。
「一応、礼はいってやろう。それ以上はもう用はない、去れ。お前ら朝鮮人には1つ借りがあるから、先ほどの暴言は見逃してやる」
ナイフの刃を掌に隠し、指の間から刀身をのぞかせた。『突撃隊』との一件があってから、咄嗟に打剣できるようにと常に袖にナイフを隠し持っている。
「しまいなよ、その物騒なもの」
金がいうのに、省吾は無言で否定を示した。
不穏な空気が、流れる。金はリラックスした格好である。ただし、どちらか一方の足に体重をかけることはない。両足均等に、重心を置く。
体を弛緩させている。緩い、だけではない。体の中に芯を通し、中心のブレがない理想的な武術体だ。隙は、ない。
省吾、構えた。肌から伝わる緊張、本能が警鐘を鳴らした。
(こいつ……!)
肩から腕までを弛緩させ、肩甲骨を開く。距離を置き、打剣の姿勢を作る。
彼我の呼吸を合わせ、少しでも動きがあれば――
「だから構えるなって。どうもお前は血の気が多くていけねえ。折角耳寄りな、いい情報を提供してやろうかと思っていたのに」
姿勢を崩すことなく、金がいった。その言葉に、省吾の心の中に少しだけ猶予ができた。
「情報、だと?」
「探してんだろ? 人」
なぜそれを、といいかけたがやめた。代わりに質問を換えて訊く。
「いつから聞いていた」
「最初から。あの店の隅にいたんだが、覚えてない?」
またか。内心、落胆せざるを得ない。最近、どうも諸々のことを見落としている。
彰の時といい、その後の襲撃といい――
隙が多いのだろうか。だとしたら俺も落ちたものだ。
「場所、移ろうか? ここじゃ話も出来ねえ」
次回は5月10日(土)更新です。