第八章:5
頭の中で、反響する声。
混濁する意識の中、微かだがはっきりと感じ取れる。それは潮騒のように押しては引いて、高くなったり低くなったり――やまびこのように幾度となく、繰り返される。
呼ぶ声に応えようと、口を開いた。舌が、乾ききってしまって口腔にはりついてしまっている。
「――きろ」
だれ……おまえは……おれは……ここは……
「――おき、ろ」
おまえは……おまえたちは
「起きろ!」
燕の頭に冷水がかけられ、意識を無理矢理引き戻された。
「ぶはっ」
水の勢いに思い切りむせ返った。肌寒くなってきたこの時期、冷たい水は堪える。
「ったく、手を煩わすんじゃねえよ」
耳に飛び込んできたのは、甲高い広東語だった。声のするほうに、燕は顔を向けた。
燕を取り囲むように、紺色のパーカーを――燕を襲撃した連中と全く同じデザインの――を来た男が5人。そして真ん中で怒鳴っているのは、明るい色の髪をした女。
「おまえたちは、なにもの……」
「ああ? なにを寝ぼけたこといってんのかねこいつは。自分の立場もわきまえないで」
かなり荒っぽい口調だ。端正な面差しで、笑えば結構な美人であろう。だが、きつく結んだ唇と釣り上がった目が全てを台無しにしている。
胸元が大きく開いた、露出の多い服を着ている。周りの人間が顔も見えない暗い装束を纏っているなかでは、随分目立った。
「なんだよ……ったく」
立ち上がろうとするが
「痛っ」
手首が軋んだ。首を向けると、両手を後ろ手に縛られて椅子にくくりつけられている。手を抜こうにも、きつく食い込んだ麻縄が燕の腕を解き放つのを拒んだ。
何が、起こっている?
周りの景色に目を走らせる。状況を飲み込むには、いささか時間がかかった。 コンクリート打ちっぱなしの壁と天井に囲まれた、何も無い空間。倉庫というには狭く、どちらかというと物置レベルの空間だ。その真ん中に、燕は椅子に座らされていた。
燕を中心に、パーカーの集団が立っている。それぞれフードで顔を隠し、直立不動で燕を見ていた。
――薄気味悪い。
今になって、体の痛みが襲ってきた。痺れは、まだ残っている。少女が放った電気銃が刺さった首筋は、まだ焼け付く痛みが残っていた。
くそっ。
なんということだろうか。あんな小娘に踊らされ、こんな連中に捕らえられる羽目になるとは。
「なあダオ。こんなぼけらっとしたやつが本当に『OROCHI』の頭か?」
「頭じゃねえが、手足のひとつであることは確かだな」
背後からもう1つ声がした。しわがれた広東語だ。
「この赤い髪が何よりの証拠だ。夷狄の血をひく混血の槍使い。そいつは『千里眼』の右腕だ」
暗がりに、まずぎょろついた大きな目が浮かび上がった。禿げあがった頭、褐色の肌、枝葉のような手足が徐々に明らかになる。
「ま、こんな阿呆とも思わなかったが」
ダオなる男は、燕の顔を凝視した。瞬きひとつしない三白眼で、舐めるような薮睨みをくれる。気味が悪くなり、燕は目を逸らした。
「お前たち、一体」
「うっせーよ、てめえ」
釣り目の女が燕の顔に唾を吐きかけた。
「あんたは、何かをいえる身分じゃねえんだよ。分かるだろう、そのくれぇよ? 口答えすると……」
女の手には、革製の鞭が握られている。大きく、振り上げ
打ち下ろした。
ヒュッという鋭い風切る音が走った。
破裂音と、燕の悲鳴が重なって聞こえた。焼ける痛みが頬に張り付いた。
打たれた箇所が、蚯蚓腫れに腫れる。もう一度、女が振り上げる。
「玲南、やめんか」
その手をダオが止めた。
「直ぐに手が出る。やることなすこと男みてぇでよ、色気もなにもあったもんじゃあねえ」
「なんだよ、色気て」
渋々といった様子で、玲南なる女は鞭を収めた。
「色気っちゅうたら、そのまんまの意味だ。言葉も態度も男みてえでよ、女っぽいとこなんざひとつもねえじゃあないか」
「はん、あたしは自分のやりたいようにやってんだ。てめえの趣味に合わせる気なんて、さらさらねえよ」
刺々しいものいいだ。あまり彼女にしたくはないなあと、こんな時に呑気なことを考えてしまった。
「さて、燕君、といったかな?気分はどうだ」
ぎょろついた目を爛々と光らせ、ダオが燕の顔を覗きこむ。燕はなるべく目線を合わせないように顔を上げた。
「あんた、一体……ここは、どこだ」
ふむ、といってダオは顔を上げ興味深そうに眺めた。玲南のような剥き出しの敵意はないものの、舐め回すような視線には不快感を禁じえない。瞬きひとつしない目、痩せこけた頬が痙攣するように動くたび背筋に冷たいものが駆けた。
「ここでわしらが何者で、ここがどこであるかをお前に伝えるのは容易い。容易いが……そのことでお前がなにかできるとは思えんが」
「は……それもそうだな」
口の中に、砂利がたまっている。倒れた時に入り込んだのか。何か喋るたびに血の味がする土を食み、石が歯に当たる。
「いろいろ訊きたいのはこっちのほうでね。大人しくしてくれれば、痛い目みないで済むがそうでなければ……わかるだろう?」
顔を近づける。飛び出た前歯が眼前に迫り、口を大きく歪ませる様が視界一杯広がった。生臭い息がかかる。
「訊きたいことだ……と」
「なに、いろいろとな。何でもいい。例えば先ほど1人で喚いていたこと、でもな」
見ていたのか――沸き上がった不快感を視線に込めて、今度は真っ向から睨みつけた。細い瞼からエメラルドグリーンの瞳が露になった。
「最初から、俺を……」
「お前じゃなくてもよかったが……蛇の頭をいきなり狙うのは厳しいからな、まずは牙を抜くほうが良い。そういうことだから」
声を潜め、ダオが唸るようにいった。
「洗いざらい、喋ってもらう。『OROCHI』の内部情報をな」
乾ききった唇を、わずかに動かした。
「……溝鼠」
燕がぼそりと呟くのへ、ダオは怪訝な顔をした。
「はあ?」
「あんたらが何者か、そいつはあんたの腐った臓物が如実に語っている。淀んだ泥のなかで、浅ましく這い回る薄汚い鼠野郎が」
「な、貴様」
「痛い目ってなんだ、そのご大層な出っ歯でかじり回すつもりかい? 都会の鼠は、歯が強いからね。ビルの配線やら電線を簡単に噛みきっ……」
頬に一撃。最後まで言い切らぬうちに、玲南に打たれた箇所を、拳で殴られた。
「貴様、人が優しくいってれば……」
取り乱すダオの顔から、余裕が消えていた。燕はダオを見上げ、嘲笑を返した。
「ひとついっとくよ。蛇は蛇でも、俺たちは大蛇だ。鼠一匹、一飲みだぜ?」
「こ、の……」
再び、打ち下ろす。何度も何度も、燕の顔が腫れ上がった。
「黙れ、黙れこの野郎! 夷狄の分際で!」
ダオの拳は皮がめくれ、血が滲んでいた。おそらく、人を殴ったことなどあまりないのだろう。拳は、鍛えなければ脆い。
「てめえは、この状況分かってんのかよ! ああ!?」
臆病者――殴られながらも、燕は目の前の小男を嘲け笑った。わざと大きな声を出して、慣れない拳を振りかざして罵る。自分の卑小さを悟られまいと。
「落ち着けよ、ダオ。あんたはそういうキャラじゃねえだろ」
玲南がいうのに、我に返ったか。ダオは腕を下ろし、血だらけの拳をほどいた。
「確かにな。お前たち蛮族とは、わしは違う」
ダオの言葉に、玲南は顔をしかめたが何もいわなかった。
「まあ、こんな面倒なことする必要はない。口を割らないなら、割らせるまでだ」
そういってダオは、左手を上げて合図した。
男が1人、歩み出た。
「台湾の方から取り寄せた物だ」
男の手には、注射器が握られている。中身を、透明な液体が満たしていた。
ダオはそれを受け取ると、空気を押し出した。
「使い過ぎると廃人になっちまうからな……量を調整しないと」
液体が、細い針の先端から雫となってこぼれた。
「な、なんだよそれは」
液が、飛び散った。燕の額にかかる。
「お前みたいな、強情な奴に使うものだ……高いから、おいそれとは打てないんだがな」
いうや、燕の髪を引っ掴み
首を晒した。
「まあ、このくらいの量ならさして影響はないだろう」
注射針を、燕の首筋につき立てる。
「な、よせ! やめ……」
「暴れるなよ。暴れると、針が折れて大変なことになる」
「や、やめろ」
針の先端部が、体に入ってくる。身中に侵入する、得体の知れないものの恐怖。身じろぎして抵抗を試みる。
だが、それも空しく。
「なに、苦しみはしない。少しばかり、眠くなって……まあ、そっから先はわからんがな」
注射器の中の液体が、全て注ぎいれられた。
「ぐ……」
絞られるような痛みを感じた、次の瞬間に。
「おやすみ、燕君」
意識が滑り落ちるのを感じた。
「で、どうなんだダオ」
退屈そうに玲南が訊いた。
「尋問にゃ時間がかかるな。こいつは量を誤るとすぐに逝っちまうからな」
ほくそ笑んでいる。愉悦に歪めた口から、空気を洩らした。
「いまも死にそうだけどな」
玲南が、ぐったりとうなだれる燕を一瞥した。
注射をうたれると、糸の切れた人形のように崩れ落ちた燕。顔から色が抜け、生気のない瞳をしていた。呼吸は浅く、小さい。半開きにした口から、涎が垂れていた。
「こんなもんでホントに吐くのか?」
「それは、やり方次第だな。こいつはいま、薬のせいで半ば夢の中にいる。そこから情報を引き出すのは、わしの仕事だ」
「はあ……」
玲南は、まるでわけが分からないといった様子である。
燕の体が細かく痙攣している。薬が効いてきたのだろうか、しゃくりあげるような声が洩れた。
「さて」
ダオが燕の正面に向き直る。
「一回で聞きださないと……壊れちまうからな」
次回は5月8日(木)更新です。