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監獄街  作者: 俊衛門
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第八章:3

 コンクリートのグレーと夜の藍が混ざった成海の街を、霧が包む。濃霧の中に浮かび上がる街灯の光が、狭い道をおぼろげに照らしていた。

 並び立つ廃ビル、スラムの間を縫うような細道。蛇の通り道のように曲がりくねった路地は夜露に濡れ、黒く光ってる。

 路地裏はもっとも危険な場所である。建物の影は死角となり、道幅は人がすれ違うことも困難なほど狭い。ここで襲われたら、確実に命を落すとまでいわれている。だから、大抵の住人は夜出歩くことはしない。

 だというのに、その道を堂々と歩く男が1人いた。髪は燃える赤、染め上げたとしてもこうはうまく染まらないであろう。

 「くそっ!」

 その男――燕は道端の缶を思い切り蹴飛ばした。自分の苛立ちをぶつける。缶は放物線を描いて空を舞い、煉瓦の壁に当たって乾いた音を奏でた。

 時は、闇が色を増す午前1時。暗い夜道では、一層目立って見える

 「なんで、こうなるんだよ!」

 先ほどまで眠気眼で歩いた道を、今は憮然とした面持ちで家路をたどっていた。

 「普通、あそこは反対だろうが……」

 つい1時間前のことを、思い出しながら。


 ユジンが賛成票を投じた時は、心臓が飛び出るような心地がしたものだ。

 「私も……賛成、するわ……」 

 単語一つ一つを噛みしめるようにユジンはいった。

「決まりだな」

その時の雪久の顔は、忘れようがない。世界の全てを手に入れた、かのような勝ち誇った笑みを刻んでいた。その表情かおを潰してやりたい衝動に駆られたものの、決議で決まったものはもう覆すことは出来なかった。


 雪久は出立を明日の夕刻と定め、今日の会議は終了した。最後に燕に向かって、

 「逃げんなよ、チキン野郎」といい残して。


 「あいつっ……」

 何故、あの娘――宮元舞に拘るのか。

 あの女はチームの組員ではない。

 いつか、『BLUE PANTHER』にチョウや李を殺され、ユジンが拐われたとき。直接の組員に、幹部に危害が加えられたときにも直ぐには動かなかった男が、なんで組員でもないもののために動こうとする? 前回の件、結果としては兵を動かしユジンを救い出したものの……それは最終目標ではなく、付与された結果だ。もし、宮元兄妹が――自分の昔の仲間が関わっていなかったら、雪久は果たして動いただろうか?

 「今の仲間は、どうでもいいのかよっ」

 ユジンも、そんな男の意向には従うつもりらしい。もしかしたら見捨てられていたかも知れない、その男に。

 (惚れた男にゃ尽くす、てか。脈もない、むしろ捨てられるかも知れないのに。愚かな女だ)

 雪久の行動はユジンのためではない、宮元舞のため動いているというのに。 ――そんなに嫌われたくないのか。そのために、仲間を危険にさらすというのか。

 不愉快な靄が、喉元まで湧いてくる。雪久の身勝手、追随するユジン。なにも言わない彰に対しても。

 靄の正体は、不信。

 仲間と思ったもの、信じていたものが真なのか。噛み合わない歯車を無理やり回しているような気持ち悪さを、胸に抱いた。

 あいつは――本当に俺たちを「仲間」と見ているのだろうか?

 仲間なら、わざわざ危険をとる真似はしないのでは……。

 

 考えを巡らせ、歩いていたからか。


 その声が自分に向けられたものであるとは思いもしなかった。


「おニイさん」


暗がりから、小さく呼ぶ声がした。聞こえていたものの、最初は気にもとめなかった。

しかし

「おニイさんってば」

 女の声だ。声は幾度も繰り返され、しかも近づいている。背後から燕のものではない、もう一つ足音がする。

「ねえってば」

 刺客か、とも思ったが違うようだ。もしそうならわざわざ呼びかけたりはしないだろう。黙って殺すに決まっている。

 なにより、空気が違う。痺れるような緊迫感が感じられない。

 命を、狙われているわけでは無さそうだ。

 燕が振り返った先に、少女がいた。


 年は、14か15といったところだろうか。薄い布を纏ったみすぼらしい格好をしていた。背丈は、燕より頭一つ分低い。起伏の少ない体つきだ。病的なまでに真っ白な肌が、蝋人形を思わせる。

 長い髪は、茶の混じった黒。目の色は青かった。

 白人かと思ったが、彫りの少ない端正な顔つきは西洋人のものではない。言葉は北部の訛りがみられる広東語、この土地の人間ではないようだ。

 混血か……。

 おそらく、両親のどちらかが欧米人なのだろう。この街、というよりこの時勢珍しいものではない。もっとも、人種や民族の対立が激しいこの街では、大抵どちらのコミュニティでもつま弾きにされる。

 「お兄さんて、俺のことか? それ」

 「あなたしかいないじゃない?」

 いたずらっ子が新しいいたずらを考えたかのよな笑みを、少女はこぼした。そして今度は、甘えるような猫なで声でいった。

 「ねえおニイさん、アタシと遊ばない?」

 「……はっ?」

 「ねえ、遊ぼうよ。おニイさん、カッコいいからサービスしちゃうよ?」

 人懐っこく笑う、あどけない顔が頭ひとつ分下から見上げてくる。よく通る声は、邪気の無い子供のもの。しかしわずかに、艶めいた、媚びるような口調が滲む。

 (娼婦か……)

 それも少女の。燕の口から、溜め息が洩れた。

 まだ発育途上の女児の身売り。燕がいた村でも、貧しさのあまり幼くして体を売ることを余儀なくされた者はいた。かつての祖国――この地に栄えた巨大軍事国家は、民主主義とは名ばかりの中央集権国家であった。中央から派遣された官吏の賄賂、専横により農民たちの生活が立ち行かなくなると……娘たちは家族を養うため、欲にまみれた男たちに身を差し出した。

 国が倒れた、その後も。男が求める限り、こうしたことは続く。いつの時代も弱いのは女子供だ。

 「ね、遊ぼ?」

 「……他所をあたりな」

 不快な記憶に、燕は表情を曇らせた。

 「あいにく、俺は年上好きでね。ガキには興味ない」

 「そう?」

 少女は、くるんとしたを潤ませて小首を傾げた。

 「男のひとって、若いのがいいんじゃないの?」

 「そんな下衆野郎と一緒にすんな。俺は、違う」

「違うって?」

「だから――」

 ここは、はっきりと断らなければなるまい。その旨伝えようと口を開いた。

 それとほぼ同時に。 なんの前触れもなく、少女が燕の腰に手を回してきた。

「おわっ。って、こら」

生っ白い腕が絡み付き、燕の胴をやんわりと圧迫する。体をぴったりと密着させ、しなだれかかる。

 「そんなつれないこといわないでさぁ。楽しもうよ」

 色目を使い、吐息を吹きかけた。

 髪から匂う、甘い香りが鼻腔をくすぐり、意識が遠のきそうになる。

 「な、やめ……」

  少女は燕の体に指を這わせ、その指が燕の股間に伸び――

 「っ……いい加減にしろ!」

 燕は腕を払い、突き飛ばした。少女は悲鳴を上げて、尻餅をついた。

 「見くびるなよ! 男は皆同じだと思ってるのか!」

 やり場のない思いの矛先を、少女に向ける。しかし、怒鳴ってからすぐ後悔が襲ってきた。

 (何してんだ、俺は)

 今、自分は何をした。この少女は酔狂で燕に近づいたわけではない。この娘なりに、必死なのだ。混血児に居場所など、この街にはない。体でも売って凌ぐしかないではないか――。

 それを、自分が馬鹿にされたように感じて突き放して、あろうことか自分の鬱憤をぶつけるなんて――

 「なによぉ、そんなムキにならなくてもいいじゃない」

突き飛ばされた少女は、地に這いつくばったまま抗議の声を上げる。

 「いや……すまない」

ぎこちない動作で、燕は少女を起こしてやった。

 「あんたは何も悪くない。なのに一方的に……悪かったよ」

 ばつが悪そうに、燕はもごもごと謝罪の言葉を述べた。

 「ただ、出来ることならこんなことはやめた方がいい」

 「なに? 説教?」 

 「そういうことじゃない。俺も、こんななりだから分かるよ。あんたのような人間は、こうするしかないってな」

 自らの赤毛を引っ張って、燕は嘆息気味にいった。

 「混血のことは分かっているつもりだ……似たような境遇なら俺も散々味わってきた」

 父と母は大戦前に、国境で出会った。赤い髪は、異邦人であった母のもの。燕は、母親の血を色濃く受け継いだ。

 「俺も……同じだ。お前と」

 唇を噛んで顔を伏せる、燕の顔を少女はきょとんとして見た。

 「だがな、お前の年でそんなことしていると、いずれ体を壊す。悪いことはいわない、やめとけ」

少女に語りかけるように、燕は真剣な顔でいった。

遠くの方で、犬の遠吠えが聞こえた。オーンと高く、伸び上がるような咆哮が一度だけ響く。時刻は深夜2時。闇は一層深くなり、静寂が街に降り注ぐ。

夜は獣が目覚める。闇の中にぎらつく眼で獲物を探り、研いだ牙を肉に突き立て、最高級の馳走を貪る。

 だからこそ弱き者は喰われぬように身を削り、差し出す。この少女のように。

 「俺は、『OROCHI』の燕だ。何かあったら、訪ねてくるといい。それと、商売の邪魔したお詫びに……」

 燕は懐をまさぐった。財布を取り出そうとする。

 「やさしいのね、おニイさん」

 取り出そうと……

 「でも」

 (な、ない?)

 燕の財布が、消えていた。慌て体中を触って探すが、ない。数ドルほど入った、燕の生活費が入った財布がなくなっていた。

 まさか……

 「ちょっと詰めが甘いね。うっかり手元がお留守」

 少女が燕の財布をもって、笑っていた。

 (すられたのか……!)

 やられた。さっき燕にもたれかかったとき、盗られたのだ。

 「こ、このアマ!」

 「ふふっ、捕まえてみなっ」

 いうや、少女は脱兎のごとく走り去った。当然、燕は追う。

 「待て、クソガキがっ!」

 「あはは、ここまでおいでー」

 きゃらきゃらと笑いながら駆ける少女を追いかけながら、燕は毒づいた。


 ――あんなガキに、同情なんかするんじゃなかった!

更新遅れてしまい、申し訳ありません。次回は4月30(水)更新です。

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