第七章:10
「嬢ちゃん、度胸は褒めてやってもよいがな……」
駒を一度散らし、店主は盤上に再び赤と緑の木片を並べ始めた。
「勇気と無謀は違うものじゃぞ? あまり賢い行為とは思えないのう」
「もちろん」
舞は店主の手元を眺めながら、髪を指先で遊ばせた。柔らかな栗毛が揺れ、甘い柑橘の匂いがほのかに香った。
「手はありますよ」
舞が先手である。左の赤い兵を一手、前進させた。後手は、中央の卒を動かす。
「あなたの戦いを、先ほど見ていました」
左の馬を、炮の隣に。この馬という駒は、守りにも攻めにも威力を発揮する。
「それだけで、勝てると思うのかい?」
砲を、将の目の前まで動かした。
舞も同様に、炮を帥の前に。後手、右の車を前に1路。
舞の番だ。
「見ていると、防御に徹する戦い方が得意のようですね」
しばし、思考を巡らせる。透き通る瞳が一瞬、宙を泳いだ。
「見たって、兎は獅子には勝てんよ。それが現実じゃ。いまならまだ、許してやらんことも……」
いきなりである。
舞の炮が轟いた。
「……なるほど、飽くまでやる気か」
中央の炮が、河を越えて敵陣に攻め入った。陣容を整えるでもなく、兵を飛び越え卒を取った。目的もなく飛び込んだ、ように見えた。砲の眼前に鎮座する。その向こうには将。王手を告げた。
「わしが防御に徹するとして、それで攻撃に転じようと言うのか?」
店主は慌てず、砲を動かし兵をとった。互いの兵と卒が相殺された。
「それは、その時によって違います」
凛とした声には、惑いは感じられない。どうやら、ただ闇雲に動かしているわけではないようだ。
舞は砲をけん制するように、馬を前進させた。これで馬はすべて前衛に転じたことになる。
「わしが、同じ手を使うとでも?」
砲を一旦、引かせる。
「そうは思いませんが……ただ、あなたは……慎重な性格のようですね」
店主の指が止まった。舞の顔を、覗きこむように伺う。
「店の構えは簡単なのに、ここへの入り口は過剰なほどに強固です。そもそも、こんな路地裏に居を構えることこそが、その証しです」
「そりゃあ、こんな商売していりゃそうなるわい。だから、何がいいたいんじゃ?」
「……兵を前に」
「は?」
いうや、素早く兵を前進させた。
「なんのつもりだ?」
舞の兵に対し、店主は卒を前に置く。
舞の兵が、卒を食った。
「なんじゃあ、一体」
右の卒を前に出した。
「俥を前に」 その言葉どおり、俥を2路前進させた。俥は攻撃の要、将棋の飛車の動きをとる。
「予告かい? 余裕だな」
店主も車を前に。
互いの心中を読み合い、微調整する。駒の距離の調整が、彼我の呼吸の距離となる。近づくか、遠のくか。攻めか、守りか。相手にあわせて判断する。
だが舞は、強引に敵陣に斬り込んでいった。新兵が我武者羅に、命知らずに突っ込むかのようである。
「あなたは慎重です。先ほどの戦いも、殆ど駒を前進させずに相手の自滅を誘っていましたね」
「お前さんは少しばかり無茶しすぎじゃな」
店主が、笑いながら右の砲を手に取った。
「それは見通しが甘い。わしとて、攻撃する時は……」
真っ直ぐ刺そうとする。
「砲を打てば、私は馬を動かします」
舞があらかじめ上げていた馬を示した。
「そのあとあなたは車を、左に指すでしょう。車の道を明けたのですから。でも、馬が待っています。この馬が盾となり、その隙に俥を前進させてあなたの車に対します。そうすると、馬をとっても俥に取られる可能性もありますよ?」
予告というよりかは、予言のようなことを言い出した。
「何を……」
奇妙なことをいうものだから、店主は駒を指す手を止めてしまった。
「いえ。なんでもありません、ただの独り言です」
店主をみて、涼しい顔でいう。ならば、とばかりに今度は馬をとるが
「その馬、本当にそれでいいのですか?」
また、舞が口を開いた。
「なんじゃい、さっきから」
段々、店主が苛立ってきているのが分かった。
「いえ……ただ、私に『慎重』たからといって焦って攻撃に出るのは軽率なんじゃないですか?」
今度は挑発か。
「嬢ちゃん、たのむから黙ってやってくれないか。気が散る」
「……ただの独り言ですから、どうぞお気になさらずに」
店主が舌打ちをした。
しばし長考に入った。頬杖をつきながら盤を見つめている。身をゆすり、指でテーブルを叩いたりして……いくらか落ち着きがない。先ほどまでの、不気味な笑いは消えている。
「これで、どうじゃ」
砲を、左に4路進めた。正面には舞の仕がある。砲は駒を1つ飛び超えないと取れないので、これは問題ない。
「次はどうくるのかね? 三味線弾きのお嬢ちゃんよ」
からかうようにいうのに、舞は冷静に対処した。
「……俥です」
左端の俥を左に。馬に対する。
「意味のない駒の移動は、あまりよくないな」
左の車を、前に。
舞は、俥を上げる。敵陣に攻め入り、動かしたばかりの砲に対した。
「む……」
砲は後ろにさがる。
俥、さらに左に。将の目の前を通り、敵の馬の目の前につけた。
「ちっ」
俥の後ろには、すでに上げていた炮が控えている。このままだと、馬を取られる。馬を逃がそうにも、逃げ道はふさがりいずれにしても取られる。
車を上げようにも、その瞬間に舞の俥が走る。
だがそのまま放置すれば……炮の侵入を許すことになる。それは、避けたい。
「……予想どおり、ですね」
舞の口元が、上がった。
「これが将だったら、確実に詰みでしたね」
後手、仕方なく馬を進める。先手、俥を指し馬を打ち砕いた。
「真田さんに、将棋とは違うと仰ってましたが……あなたも違いをよく分かっていないのでは?」
ランプのほのかな明かりがゆらめいた。大きな、潤んだ瞳と花弁の唇が、薄暗闇にぼうっと映し出される。
神掛かるとはこのことか。先ほどまでの怯えの色は消え、往年の勝負師のような自信に溢れた目をしている。
――まるで別人。
省吾はひとつ、身震いした。
まだあどけなさを残す横顔が、微かに、笑みを浮かべた。見るものを惑わす、妖しい色香を秘めた――
思わず、目を逸らした。
「こんな簡単な誘導にかかるなんて……」
その言葉が店主の逆鱗に触れたのか。
「小娘が!」
バチン、と威嚇するように力いっぱい駒を打ちつけた。残った馬を前に。
「なめた真似をすると」
「その台詞、危ういですね。それは、負ける人の言葉ですよ?」
口元から、小さな白い歯が見えた。
店主は顔を赤らめ怒りにも似た表情をしている。
舞もまた、馬を斜めに打った。
「俥で、馬を取りますね」
予告どおり、馬を食う。店主の額に、汗が浮かんだ。
「どうします? もう駒は少ないのでは?」
店主の将の周りには、士があるのみである。
投げ込まれた俥が、不安の波紋を広げる。
「くぅ……」
笑みが消えた。目には惑いが表れ、呼吸が自然、乱れる。
まさに兎が獅子を食った、といったところか。有り得ないこと、しかしその有り得ないことこそが現実なのだ。
盤上が、全てを物語る。戦場にはもう、戦える兵はいない。
(あいつ……)
勝負の行方を見守っていた省吾も、驚いていた。
敵の戦力を前進させ、将を守る駒を拡散させる。敵陣には俥と炮で攻め込み、惑わせ
撹乱する。
(うまく、敵の駒を散らしたな)
だが。象将はおろか、将棋もやったこともない舞がなぜここまでできるというのだ?
「これで、将(王手)です」
そして
「被将死、ですね」
炮と俥で挟みうちに仕留めた。もし逃げても、今度は馬が待ち構えている。
城は、完全に包囲された。
「後悔は、あなたの方でしたね」
完璧な勝利宣言であった。
赤の駒が大半を占める、自陣を見つめながら店主が嘆息した。
「お疲れさん、マスター」
彰が店主に話しかけた。
「あの2人は、どうした?」
「ああ、表で待たせているよ」
彰がくすりと笑った。見事、刀を勝ち取った省吾と舞を店の外に出し、自らは話があるといって店の中にひっこんだのだ。
今から聞かれる話を、聞かれるわけにはいかないからだ。
「しかし、あの娘かなりの腕じゃ。途中から、八百長する必要などなくなったわい」
店主が、苦笑いで応じた。
「俺も予想外だったけどね。あの子があんなこといいだすなんて」
まあお陰で、手間が省けた。そういって彰は笑った。
本来は、舞の役を彰がやる予定だったのだ。負けた省吾の代わりに、彰が自分の身と、チームの内部情報と引き換えに勝負し、店主がわざと負けて刀を手に入れる。もちろん、裏で刀の代金はちゃんと払う、予定だった。
なぜそんな回りくどいことをする必要がある? 店主が訊くのへ
「省吾(あの男)は、根っこの所が甘いからね。恩を売っとけば、うちのチームにも引き込みやすい」
ということであった。
はじめから、仕組まれていた。刀を手に入れるために、すべて彰が演出したことであるが……
「代金はいい」
店主の言葉に、彰がへえっと意外そうな顔をした。
「どうしたの? いつものがめつさはどこいった?」
「がめついって……わしゃは普通じゃわい」
将の駒を取り、指先で弄んでいった。
「わしは文字通り、“真剣”で負けたんじゃ。八百長もなしに、な。だから金は浮け取れん」
「はあん、似合わないこというね」
黙れ、と一喝してから腕組みし
独り呟いた。
「あの娘、なかなか面白い……もしかしたら、大化けするやもしれんぞ」
次回は4月5日(土)更新です。