第七章:9
赤の俥が敵陣に斬り込む。緑の卒を射ち、馬に対峙した。店主はしばらく考えた後、馬を逃がす。
次に省吾は炮を取り、将の目の前に置いた。
「随分、大人しいな。俺の侵入を、許している」
「そう見えるか?」
自らの車を取り、前進。河を越えた。
「孫子の兵法は、知っておるかの」
枯れ枝のような指が、駒を弾いた。
「何だよ、それは」
渋茶色の、骨と皮だけの指。一瞬、嫌なイメージが省吾の脳裏をかすめた。
痩せ細った皺だらけのそれが、猛禽の爪のように広がり……
省吾の心臓を、握り掴む。
胸の内に去来した幻影が、暗雲となって心中を覆ってゆくようだ。まるで水の中に黒い色水を垂らしたときのように、少しずつ、少しずつ侵食する。
(なにを、考えている俺は)
頭を振って、付きまとうイメージを振り払った。深呼吸をして、わだかまるものを呼気とともに押し出す。
次の駒をとり、省吾も河を越える。店主は省吾が動作を起こすたびに、黄ばんだ歯を見せて笑った。
「『孫子曰わく、昔の善く戦う者は先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ』」
一休みとでもいうように、湯飲みの茶を一口飲んだ。
「足元がお留守だと、痛い目を見るぞ」
粘りつくような、店主の視線に搦め取られそうになる。省吾の心中まで見据えたような、お前の考えていることなどお見通しだと言わんばかりの不気味な、目。
省吾は目線を外した。
「あれではだめです」
2人の対局を目を逸らすことなく、それどころか呼吸すら忘れているのでは。それほどまでに見ていた舞が、急に声を出した。
「何が?」
半ば不意打ちを食らったような心地を覚えながら、彰が訊いた。
「真田さん……あれでは負けてしまいます」
「そう? よく攻めているように、見えるけど」
丁度、店主の砲が省吾の馬を取ったところだった。省吾の指が駒を1つ取り、空中で止まった。右手を顎にあて、長考に入る。
左の指が、焦りを写す。人差し指で机をなぞり、叩いては爪を弾く。焦燥感がストレスとなり、体に現れてきている。
「……闇雲に攻めていては、いずれ自滅します。相手は守りを固めて、少しずつ攻めています。真田さんは自陣を固める前に打って出ています。使える手駒はすべて前線にいってしまって……」
「はあ……」
「しかし、それは自ら罠に掛かりに行くようなもの。敵陣で孤立し、行くことも戻ることも出来なくなります。そうなると、真田さんの陣は裸も同然です。そして……」
「ねえ、あのさ」
舞の一人語りに閉口した彰は、話を遮った。
「舞、このゲームやったことあるの?」
「ないです」
盤を食い入るように見つめ
「でも……おそらく的は外れてないかと、思います」
そして、その通りになった。
展開が、防戦一方になった。
(動けねえ)
省吾が攻めこんだ駒は固い守りの前に打ち破られる。
省吾が動かすたびに、強固な包囲が敷かれ駒の動きが雁字搦めに縛りつけられてしまうのだ。
そうしてジリ貧になり、結局討ち取られる。
「妙な真似は、考えるなよ」
駒を取りながら、店主がいった。
緑の車が、省吾の仕を討ち砕いた。
「くっ……」
車のすぐ隣に帥がある。
「将(王手)」
店主が告げた。
気がつけば、手駒がかなり減った。今あるのは、兵が2つ、相、手付かずの馬が1つ。仕は全て討たれた。
守るものはない。
将棋の王将なら、そのまま逃げればいい。だが象棋の帥は縦横4マスの狭い『九宮』を出ることが出来ない。
(将棋とは違う……)
象棋は、将棋の駒の再利用がない分、取られたら致命的である。手駒が少なければそれだけ危険が増す。
省吾が1つ動かせば敵の術中にはまり、もがけばもがくほど深みにはまる底なし沼のように、自陣の駒が討ち取られ、気づけば丸裸。
(待っていやがったのか、俺が来るのを……)
「ちっ!」
帥を前進、車の道を外す。逃げに転ずる。
(だが、許せない)
『先生』のことを何も知らぬくせに
俺と『先生』がどんな思いで、生きてきたか。 わかってたまるか
「お前に!」
将(王手)を三回連続で仕掛けることは、象棋では禁じ手としている。もう一度、逃げ切れることができればとりあえ凌げる。その間に目障りな車を討ち取ることが出来ればよい。車を迎撃できる位置に、相があった。
あと一回、耐えれば良いのだ。
だが、今度は車ではなく馬を打つ。
「将(王手)」
斜めから飛来した。これで、もう1つ駒があれば防げたものの、もう手駒はない。
再びの王手。
『九宮』は王城である。その城の内部にまで車は侵入していた。そして帥は、『九宮』の一番端まで追い込まれている。
いわば、袋の鼠。謀反の王に攻め入られ、王城に篭る皇帝。靖難の変で燕王に攻め込まれた建文帝のごとく、逃げて僧侶になる、なんて選択肢はない。逃げようにも逃げ道はなく、動いた瞬間に討ち取られる。
「被将死(詰み)、だな」
敗者は討たれるのみ。
省吾は敗北、したのだ。
「さて、約束は約束だ」
店主が合図をした。すると、最初に店にいた屈強な男が省吾の腕を取った。逃げないようにということか。
「今からお前さんは、わしのものだ。お前の体を煮るなり焼くなり、切刻むなりわしの自由。よいな?」
ほとんど緑に埋め尽くされた盤を眺め息を飲んだ。
省吾が攻め込んだの駒は、河の向こう側で殆ど討ち取られてしまっている。自陣の守りは少なく、『九宮』を緑の駒が包囲していた。
「そうだな……どこぞの売春窟にでも売ろうか。男色家には人気ありそうな顔立ちだからの、お前。まあ、顔の傷はマイナスかもしれんが……あるいは“東”の方ならもっと高値で」
俺は、負けた――
「クソ……」
省吾は店主を睨みつけた。殺気を込めた、気をぶつける。店主はそんな視線を気にすることも無く、男に行けと命じた。
「来い、『疵面』」
男が腕を引いて連行する。
「心配はいらん、一瞬だ。次に目が覚める時は“東”のどこか……苦痛は、ない」
店主が何かを取りだした。
注射器である。中には透明な液体が入っている。空気を押し出し、針を首筋に近づけた。
――いやだ。
急に、恐怖が広がった。覚悟に固めた心に、少しだけほころびが生じる。
「やめ……」
振り払おうとするが、男はしっかりと腕と肩を押さえていて動けない。
「やめろ、このっ」
針の先端が、頚動脈の上にわずかに刺さった。抵抗空しく、それは徐々に省吾の体を侵しゆく。
皮膚を貫く、魔性の針。
「あ、あのっ。少し待っていただけませんかっ?」
舞が、急に声を張り上げた。
「なんじゃ、お嬢ちゃん」
店主は皮膚に針を突きたてたまま、物珍しそうに舞を見た。省吾はというと、うなだれたままだ。
「もう一度、勝負してくれませんか?」
その声に、省吾は顔を上げた。
「勝負? もう賭けるものはないじゃろう?」
「あ、あります。その……賭けるのは……」
唇を噛みしめ、目を上下させて――ためらっていたが、決心したように
「私を、私の体を賭けてくださいっ」
その場にいた全員の度肝を抜くようなことを、言い出したのだ。
「ま、舞……?」
彰が、口を開けたまま放心している。舞が続けた。
「さっきいいましたよね? 男より女の方が売れると」
「いったが……」
店主も、呆気に取られている。
「ならば、私の身柄を賭けて真田さんと刀、それでもう一度……というのはだめですか? 釣り合えば、の話ですけど」
「ほう」
店主が興味深そうに、舞の体を舐めるように見回した。これから獲る獲物を、品定めするハンターのように。舌なめずりする獣のような店主の視線から、体を隠すように舞は自分の肩を抱いた。
「その筋には高く売れるかもしれんの……」
体の起伏が少ない、華奢な体。細い手足と小柄な体型は触れたら壊れてしまいそうな危うさを秘めている。
「そういうのが好みというのも、多いからのう。よし、いいだろう。お前さんの……」
「ちょ、ちょっと待った!」
制止したのは、省吾だった。腕をとられたままで怒鳴る。
「……何を考えている」
「いったとおりです」
舞の目から、怯えが消えていた。
「私が、指します。それであなたを救い出し、刀を手に入れます」
「馬鹿なことをいうな!」
渾身の力を振り絞って――もっとも、男の方も力を緩めていたが――掴まれた腕を振りほどいた。自由になった両手で、舞の肩を掴んだ。
「負けたらお前、また売春宿に逆戻りだぞ! それともお前、何かしらの心得は……」
「ありません」
なんでもないという風に、いってのけた。
「ないって……」
「象棋はおろか、将棋もチェスも心得はないです」
馬鹿な。省吾は掴んだ手に力を入れた。
「お前、死ぬぞ」
舞は微笑みかけた。
「心配要りません。パターンはもう、読めました」
先ほどまでとは違う、妙に自信に満ちた笑みを見せ、肩に置かれた省吾の手をやんわりと払った。
「任せてください」
舞は席についた。
次回は4月3日(木)更新です。