第七章:8
「お前さん、チェスか将棋の心得は?」
店主が訊くのへ、省吾は訝しみながらも応えた。
「将棋なら……チェスは、ないけど」
「なるほど」
そういって、傍らのテーブルに腰をかけ
「それなら、すぐに覚えられる」
将棋のような盤と、円い木片を数枚取り出した。
盤は、縦横9×10本の線が引いてある。円い木片には、漢字が書いてある。赤文字と緑文字の二種類があった。
「象棋じゃ」
店主は盤上に駒を並べ始めた。
「大陸の将棋、といえばいいかの。ルールはチェスや将棋と一緒じゃ。駒を動かし、王を討つ。簡単な、一番シンプルなゲームじゃ」
「うん、それはわかったけど」
省吾は駒の1つを手に取った。『相』と赤文字で書かれている。
「これを、どうするってんだよ」
「察しが悪いの。こいつで勝負するんじゃよ。わしと、お前さんで」
駒を並べ終えた。赤い文字の駒と、緑文字の駒の陣営が相対している。どうやら、色によって先手後手の区別がつけられるようだ。チェスが黒と白に分かれているように。
「勝負って……遊んでいる暇はないんだが」
「確かにこれはお遊びじゃ。普通にやる分にはな。だが、“真剣”で指す、といったらどうだ?」
つまり……そうか。
ようやく、得心がいった。
「こいつで、お前さんが買ったら刀はやろう。だが、負けたらお前さんの命を頂く」
「頂くって、そんなことしても寿命は延びねえぞ」
「なに……お前さんの身を売り飛ばすってことじゃ。本当は、男の体なんかより女の方が高く売れるんだがな」
さも愉快そうに、肩を震わせて笑った。しゃくりあげるような、耳障りな笑い方が癇に障る。
「どうだ? やるか」
「断る」
即答だった。
「ほう? やらんのか。刀、欲しくないのかえ?」
「いや、正直かなり惜しいが……この勝負は分が悪すぎる。俺は象棋やったことない。ルールを覚えたところで、勝ち目があるかわからん」
省吾の主義というより、戦いの鉄則のようなものだ。無理して勝負に行く必要はない。
刀は諦めなければならないが……
「人探しをしているのじゃろう? 丸腰じゃきびしかろう……」
「え」
何故それを、といいかけて気がついた。
「彰、てめえ何を勝手に喋ってんだよ!」
きつい口調で彰に詰め寄った。彰は困ったような笑みを浮かべて弁明する。
「いやー……話しちゃ、まずかったか? マスターなら何か知っているかなと思って」
余計なことを、と彰に掴みかかりそうになるところを店主が諌めた。
「あいや、それよりもの……本当にやらんのか?」
「やらねえよ!」
今度は怒鳴り返した。
「俺は、自分が100パーセント勝てる勝負しかしない」
「なんじゃ、意外と臆病だの」
「なんとでもいえよ。とにかく、やらんものはやらんからな。俺は帰る」
もうこの話は終わりとばかりに、背を向けた。
だが、その直後店主が投げかけた言葉に
「そうかい……弟子がこれなら、お前さんの師匠とやらも大したもんじゃないな」
その言葉に、再び振り返ることになる。
「……なんかいったかよ、爺」
「お前さん、自分の師を探しているそうじゃの。弟子がこんな負け犬では、探しているほうの師もろくなもんじゃあないな。臆病風に吹かれて逃げ出すような奴しか育てられんようじゃあな……」
省吾の目に、感情の火が灯る。
「……別に、俺のことをどういおうと勝手だ。嘲笑も侮蔑も、知ったことではない」
省吾は引き返し、店主の向かい側に腰を下ろした。
眉間に深い皺を刻んだ、その形相は獅子か虎か。剥き出しの敵意を視線に込めて、刺すように睨んだ。
沸き上がるのは
「だが、先生への侮辱は許さねえ」
沸き上がるのは、怒り。餓えた肉食の獣のように、低く唸った。
「やってやるよ、クソジジイ。骨の髄まで、後悔させてやる。先生を侮辱したことをな」
そこには計算も思考もない。高ぶったった気は、質量すら感じるすさまじいまでの憎悪だ。
「後悔は、どちらかな」
店主が意味深な笑みをこぼした。
「意外と単純なのな、省吾」
1人で熱くなっている省吾をみて、彰は呆れたように呟いた。
「しかし、象棋ね。あんなのははじめてみたな、ねえ舞……舞?」
隣にいる舞は、目を見開いてゲーム盤をじっとみつめていた。そしてひとしきり、駒の位置や駒の動かし方などを、ぶつぶつと唱えている。さっきまでとは違い、いたく真剣な目つきだ。
「そんなに、珍しい?」
と訊く彰の言葉も、耳に入っていない様子である。
とりあえず、彰も舞に倣ってゲームの行方を見守ることにした。
店主から、それぞれの駒の動きとルールの説明を受ける。
ゲームは7種類16枚の駒を用いて行う。 先手が赤文字の駒を、後手が緑文字の駒を使う。駒は、マス目に置かれるのではなく囲碁のように線の交点に置かれる。
まずは将棋の王将、チェスのキングに当たる駒が帥と将である。この象棋は、役割が同じでも先手と後手で駒の文字や呼び方が違うものが多い。
先手側の王が帥、後手側の王が将である。いうまでもなく、敵は互いに帥と将を討ち取りに来る。自陣の駒を動かし、王を守ると共に相手の王を討つ。そこは、チェスや将棋と変わらない。
帥・将は前後左右に一路ずつ進める。ただし、帥・将はゲーム盤の『九宮』と呼ばれる領域からは出ることが出来ない。『九宮』は縦横4マス、斜線が引いてある狭い場所だ。
次に、帥・将に寄り添うように左右に配されているのが仕または士である。斜めに1つづつ進む。これも、『九宮』を出ることが出来ない。
仕と士の隣に位置するのが相と象である。先手が相、後手が象だ。これは、斜めに二つ進むことが出来る。ただし、進行方向に駒がある場合、その方向に進むことが出来ない。さらに、駒に接する斜め4箇所に他の駒があれば、その機能を失う。
その隣の馬は、チェスのナイトと同じ動きをする。ただし、駒を飛び越えることは出来ない。
俥・車は、縦横にどこまでも進むことが出来る。先手が俥で、後手が車だ。
これらの駒が、一番後ろのラインに一列に並べられる。
馬の前に鎮座するのが炮・砲である。
先手が炮で、後手が砲。縦横に何路でも進めるが、敵の駒を取るときは他の駒を一つ飛び越えなければならない。飛び越えずに敵の駒を取ることは出来ないし、取らずに飛び越えることもできない。
そして、前衛に並べられるのが歩兵やポーンにあたる兵・卒である。全部で5つ、先手が兵、後手が卒。前に1つずつ、進むことが出来る。
「あとの細かいルールは、やりながら覚えればよい」
駒の動かし方を覚えるため、簡単に練習する。ちなみにこの象棋は、将棋のように取った駒を再利用することはできずチェスのように使い捨てである。
「……よし、いいだろう」
大体の駒の動きは覚えた。あとは、将棋と同じようにやればいいだろう。
「始めようか」
店主が、開始を告げた。省吾が先手。店主が後手である。
省吾、左端の赤文字の兵を動かした。店主、卒を前進。同じく左端、店主から見たら右端の駒。つまり省吾が動かした兵に真っ向から対する形になった。
「さっき、わしを後悔させるといったがな……」
省吾の番である。兵を動かし、卒を取る。同時に、『漢界』を越えた。
ゲーム盤の中央には、縦線が引いていない列がある。線のないまっさらな境界が横に通っており、そこには『漢界』『楚河』と書いてある。これは大河に見たてられる箇所であり、河を越えたら敵陣である。
兵・卒は河を越えた瞬間、今までの動きに加え左右に1つ進むという動きも加えられる。ただし、河を越えたらもう戻れない。相・象は、この河を越えることが出来ない。
「後悔するのは、お前さんだと思うぞ」
店主は卒から手を引き、馬に手を置いた。右の馬を、前進。斜めに飛ぶ馬は、全ての方向に桂馬と同じ動きをする。
「何がいいたい?」
「お前さん、将棋はやったことあるんだったな?」
省吾、仕に指を置いた。斜めに動かして帥の盾となった。
「だからなんだ」
「今、お前さんはこう思っている……」
しばらく思案した後、店主の手が動いた。砲を取る。
「『こんなものは将棋と一緒だ』と」
パチン。
右の砲を将の前に移動した。砲門が省吾の帥を狙っている。
「……」
省吾は黙って見ている。砲と帥が、卒・兵を挟んで相対している。砲は駒を取る時、ひとつ駒を飛び越えなければいけない。卒を飛び越え、兵を取ることは出来るがその後、帥を取ることは出来ない。
「将棋だけは、俺は先生に負けなかった。まあ、あの人がそんなに強かったとは思えないが……」
俥を、帥側に寄せた。
「確かに、象棋は将棋の元となったゲームだ。似ているところもあるが、甘く見ると……」
後手の砲、自陣の卒を飛び越え兵を取る。大河を越えた。
「痛い目見るぞ。お前は見誤った」
「何をだ?」
ずきりと胸を打ち抜かれた気がした。白髪の茂みの中から垣間見える、どぎつい光が槍となって突き刺さる。
「わしの手中に、自ら迷い込んだことをな……後悔するのはお前の方じゃ」
そういって、馬を斜めに進めた。
「仕はな、簡単に前進させてはいけないんだよ」
次回は3月31日(月)更新です。