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監獄街  作者: 俊衛門
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第七章:4

 アルミ製のバケツにはろ過した雨水を溜めている。

 手に少しだけ取り、顔に叩きつけた。凍えるような冷たさが、省吾を覚醒に導く。

 省吾のいる部屋は、よくあるスラムの集合住宅の1つである。鉄とコンクリートでかためただけの二階建てのアパートに、およそ50もの部屋がひしめき合っている。昔、日本人は“うさぎ小屋”に住むなんて言われたが、ここはそれよりもさらに酷い。例えるなら “アリ塚”である。

 上下水道は通っているものの、ほとんど機能していないのが現状だ。蛇口を捻れば赤錆と土の混ざった汚水が出てくる。よって、生活用水としては使えない。河川から汲み上げることも考えたが、それも断念した。

 この街は、とかく汚染が激しい。

 一般世帯からの汚水や、有機物を含んだ工場排水をそのまま川に流している。汚水処理など一切せず、川から海へと垂れ流し。

 川だけでない。空気もまた汚染されている。排気ガスは何の処理もなく、空気中にばら撒かれている。殆どが戦勝国から進出してきた企業の出す工場の煙だ。本国では絶対にやらないことを、この成海市ではやっている。

 そんな事情だから、ここはとにかく空気も水も悪い。道を歩いていれば、そこかしこから煤けた空気にたれ流された糞尿の臭気が混ざって漂ってくる。

 (“監獄”と呼び習わすなら、まさに相応しい。このクソな街には、お似合いの代名詞だ)

 頬を叩き、完全に目を覚ました。

 ふと、鏡の中の自分と目があった。

 「そしてこれは……」

 人差し指で、顔を斜めになぞる。眉間から左頬まで刻まれた刀傷を。

 「さしずめ囚人の罪印ってところか」

 

  2ヶ月前。国連の難民認定を受けた省吾は、荒れ果てた故郷からこの成海に強制移住させられた。 

 正直、焼け野原となった故郷に未練はなかった。この地にはもう、省吾の知っている物はなにもなかったのだから。

 ただ、連れて行かれた先は焼けた故郷よりもさらに荒れた地だった。

 そしてそこでひとりの女と――パク 留陣(ユジン)という女と出会ったことが全ての始まりだった。


 (妙な女と出会ったせいでギャング共とやりあって……)

 鏡に背を向け、タオルを手に取った。顔を拭きながら独り呟いた。

 「人生ってのは分からんものだな」

 「全くだ」

 背後からいるはずのない第三者の声が響いた。

 「……は?」

 振り返った先に飛び込んできたのは、銀縁眼鏡のにやけ面。

 「よっ」

 「どぅわぁ!」

 不意をつかれ、奇怪な雄たけびを上げながら省吾は尻餅をついた。

 「て、てててめえ! どこから沸いてきやがった!」

 飛び出そうになる心臓を押さえ、省吾が指差したその先には

 「人をうじ虫みたいにいうなよ」

 満面の笑みを浮かべる、九路彰の姿があった。


 九路彰――省吾がこの街にきてなし崩し的に関わることになった、ギャング組織『OROCHI』の幹部の一人である。

 細面の、整った顔立ち。切れ長の目に眼鏡をかけ、唇に含み笑いを絶やさない。一見すると「優男」ともとれる容貌をしている。

 「元気そうだね、省吾。右手の調子はどうだい?」

 「どうだい、じゃねえよ! まず質問に答えろ、一体いつからそこにいた!」

 「ん〜、省吾が3流コメディみたいな悲鳴上げて飛び起きたところから」

 それはつまり最初からということだ。よりによって、一番苦手な相手に醜態を見せてしまったことになる。

 「っていうか、鍵掛けていたのにどうやって……」

 抗議する省吾の鼻先に、彰が針金のようなものを数本突き出した。

 「こんな粗末な集合住宅、鍵なんてこいつで十分だ」

 やけに弾む声でいうのに、省吾はいい加減イラついてきた。

 「ピッキングかよ」

 溜息を、今度は盛大についた。

 「……次にコソ泥みたいな真似しやがったら……まともにドアノブも握れん位に叩きのめしてやるぞ……」

 「おお怖っ。それは勘弁願いたいね」

 まるで会話がかみ合わない。お手上げとばかりに、本日三回目の溜息をついた。どうもこの男と話していると、調子が狂う。

 「あのなぁ……俺は真面目にいってんだよ。はぐらかすんじゃ……」

 もう限界だ。胸倉を掴んでぶん殴ってやろうと思った、まさにその瞬間

 「……あの」

 遠慮がちな声が、脇の方から聞こえた。声の主に振り返る。

 童顔の少女が、怯えているかのような目で省吾を見ていた。

 「何、あんた」

 「……あの、えっと……」

 波打つ栗色の髪の向こうで、大きな瞳が危なげに揺れている。少女はおずおずと、申し出た。

 「お茶……入りました」

 「は?」

 省吾、素っ頓狂な声で応じてしまった。

 「ああ、ありがとう舞」

 対して彰は、にこやかに返した。


 何かおかしい……テーブルの向かいに座っている彰と舞を見比べながら省吾は自問する。

 (そもそも俺は、こいつらとは縁を切ったはずだ)

 向かいに座るのは『OROCHI』の参謀兼メカニック担当の九路彰。その隣にいるのが――1ヶ月前の争いの渦中にいた、彰と『OROCHI』リーダーである和馬雪久の昔の仲間であったという、宮元舞である。『BLUE PANTHER』の別働隊、通称『突撃隊』の初代総長を兄に持つ、稀有な経歴の持ち主である。

 その『突撃隊』も『BLUE PANTHE』壊滅と共に即時解体され、総長宮元梁は妹を彰たちに預けどこかへ消えてしまった……そこまでは聞き及んでいる。それはいいのだが

 「そのあんたが、なんで俺の家にいるんだよ」

 詰問するような省吾の口調に、舞がビクッと肩を震わせた。

 「ええと……それは……」

 「この間、いい茶葉を仕入れてね」

 彰が舞の代わりに答えた。

 「この辺で茶といえば鉄観音かバター茶だろうけど、やっぱ俺ら日本人は緑茶だろう? 是非是非、省吾にも味わってもらいたいと舞が、ね」

 「……俺に?」

 舞が湯呑みにお茶を注ぎ入れた。茶葉の芳醇な香りが、鼻腔をくすぐる。

 「ええっと……一応、私が選んだんです。真田さんの好みとかは、その……分からなかったんでお口に合うかどうか……」

 ためらうような口調で、舞がいった。まるで親に叱られるのを恐れている子供のようである。

 「あ、ちゃんと市販のものを使いましたから大丈夫ですよ」

 当然だろう。毒されたこの街の水を飲むなど、狂気の沙汰だ。

 「感謝しろよ〜省吾。彼女なりに、お前と親交を深めたいと思っているんだから。あの戦いで随分助けられたって、舞も感謝しているんだし」

 何が感謝だよ、と聞こえぬように毒づいた。先の戦闘では、兄の方には色んな意味で世話になったが舞(妹)の方にはノータッチだったはずだ。

 まあとにかく、と彰が湯呑みを差し出した。

「こういうのもいいだろう? とりあえず飲んでみなって」

 彰が差し出した湯呑みを、両手で取った。

 (茶、か……)

 ここ最近飲んでいないな……などと思いながら口をつけた。少しぬるめの温度が丁度いい。茶葉は、熱湯よりも少し冷ました湯の方が味が出る。

 口に含むと、さわやかな甘い香りが、口腔から鼻に抜けた。

 (そういえば、母さんが淹れてくれたお茶もこんな味だったっけ……)

 夢の中で優しく微笑んでいた母。顔も思い出せないのに、夢で感じた温もりはやけに鮮明だった。

 あの時。呆気なく殺された母を見て最初に感じたのは、哀しみよりも恐怖だった。変わり果てた生々しい母の姿を、怖いと思った――近しい者の死を、そんな目で見ていた。

 そんな自分が、たまらなく厭だった。

 ……今は、どうだろうか。俺は母の死を、どう受け取っているんだろうか……?

 (母さん……)

 湯呑みの中の、緑色の水面をじっと見つめる。省吾の目から、水滴がこぼれ落ちて波紋を広げる。

 ――水滴?

 自分の頬に手を当てると、瞼から一筋流れる涙の軌跡。

 「あ……あの真田さん?」

 舞が心配そうに顔を覗き込んだ。彰は横で、驚いた顔をしている。

 「お、お口に合いませんでしたか? 淹れ方が悪かったんでしょうか……ええと、あの……」

 オロオロする舞と対象的に、彰がいたずら小僧のような笑みを浮かべた。

 「なんだあ、省吾? ホームシックか? 意外とセンチメンタルだな」

 「ち、違うっ!」

 慌てて顔を拭い、全力で否定するが彰はさらに楽しげに笑う。

 「なるほどなるほど。舞の淹れた一杯の茶が、彼の冷血なる心を溶かしたというわけか。『疵面の剣客スカーフェイス・ソードマン』も人の子であった、と」

 「違う! これはあれだ……目、目にゴミがっ!」 

 にやつきながら省吾の顔をまじまじと見つめる彰に対し、省吾が顔を真っ赤にしながら苦しい言い訳をする。が、もはや通じない。

 「まあまあ、そうカリカリすんなって」

 「うるせえ! 忘れろ! このクソ野郎!」

 省吾が掴みかかるのを、彰がかわす。さらにそれを追う。狭いダイニングで大の男2人が暴れる中、舞が『あの、その……』とかいいながら1人あたふたしていた。


次回は3月22日(土)更新予定です。

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