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監獄街  作者: 俊衛門
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第七章:3

 風が、少し肌寒く湿り気を帯びた空気を運び、柔らかな冷気が頬を撫でる。


 季節の変わり目の、穏やかな涼風。目の前に広がる、黄金色の稲穂をそっと揺らす。金の草原が波立ち、さあっと風が鳴いた。


 空が高い。透明で抜けるような、清涼な空間が視界一杯に広がっていた。まるで染め上げたような青、その中でアクセントのように白い雲が、あちらこちらに浮かんでいる。太陽は夏の日差しがまだ抜けきらぬ、それでもいくらか活動を落ち着けたであろう暖かな光を照らしていた。

 金色の中を、少年は裸足で駆けぬけた。手と、頬に当たる稲穂の柔らかな感触が無性に嬉しくて、ついいけないと分かっていながらも田んぼを突っ切るように走る。

 実り多きこの時期が、彼は一番好きだった。垂れた稲穂が風に揺れるたび、かさかさと笑うように歌っている。彼もつられて、笑ってしまう。手を触れれば、さらさらと滑らかな感触。それが楽しくて、また笑う。

 ――豊作だ!

 少し冷えてきたにも関わらず、少年は真夏のような格好で田畑を駆け巡った。肌の露出が多いと、それだけ稲穂のくすぐったいような柔らかさを感じ取れる。裸足で走れば、肥沃な大地の鼓動が足裏を通して伝わってくるようで……


 ――よく実ったわね。


 背後から軽やかなソプラノが降ってきた。振り返ろうとすると、その背後の人は少年を後ろから抱きすくめた。


 ――あらあら、また汚しちゃって。ダメじゃない、省吾。


 女性は白いワンピースを着ていた。黒い真っ直ぐな髪が風に棚引き、その髪から白梅が甘く、ほのかに香る。女はしなやかな指で、少年の頬を撫でた。

 顔と首筋にかかる、白い手。しっとりと柔らかいその手が、ほてった体を冷ます。

囁くような、かすかな声が耳朶を打つ。それが心地よい。


 ――お母さん。


 少年はその女性を呼んだ。母は眩しい、秋の日差しの中で柔らかく微笑んだ。




 黒が、蒼を切り裂いた。


 円筒状のそれは、着弾と共に光を放ち爆砕する。東の空が朱に染まった。


 

 灰色の雲が、空を塗りつぶしてゆく。ごうっと、地響きのような低音が直後に鳴り響いた。

 金属が破裂したような爆音。まるで巨人が大地を踏み鳴らしているかのような振動。

 突風とともに衝撃が走り、少年のその小さな体が投げ出された。世界が反転し、地面に頭を叩きつけられた。

 爆音。視界が炎に包まれる。

 稲穂の海が、紅蓮に呑み込まれ黒く染まる。柔らかな土と涼やかな風が、急に熱を帯び少年の体を焦がした。


 熱い。


 頭の中が渦を巻く。一体何が起こったのか、打ち据えた頭蓋の痛みと炎の熱さが少年の全てだった。

 目を、見開く。

 黒煙が、天高く舞い上がっていた。幾つもの黒い筋が空を引っかくように伸び、その合間を縫うように銀色の機体が飛びかっていた。

 逆三角形の、人工の鳥。そして、その中から黒灰の点がいくつもばら撒かれている。

 点は、よく見ると人の形をしていた。空中に飛び出した後、地面まで落下傘の類を一切つけずに降下している。

 ――お母さん?

 熱風と煤で渇ききった喉を、無理矢理動かした。間断なく続く衝撃が大地を揺るがす。火炎が背中から迫っているのか、背中が焼けるようだった。

 ――どこに、いるの。ねえ、どこに!

 少年は叫んだ。傍らにいるはずの、母の姿を求めて。


 何かが弾けた――煙の中で、それが確認できた。


 続いて雨が降ってきた。ぱらぱらと生温かい水滴が、数回顔を叩く――


 いや、雨ではない。顔にかかったそれを拭って見ると、やけにぬめっとした赤い液体が手の甲にこびりついた。


 ――おかあ……さ……


 母はそこにいた。

 細い体をワンピースに包み、そこに立っている。

 だが、その顔は――いや顔だけではない。細く白い首をわずかに残し、母の頭がそっくり消えていた。

 首の付け根から、骨が見えた。断裂した筋繊維と黄色い脂肪がのぞき、それらを覆い隠すように赤黒い血が溢れ出ていた。

 後から後から、断裂した母の首から噴出す血――


 少年は慄き、後ずさった。その時、なにかを踏んだのを感じた。

 裸足だから、よくわかる。それは先ほどまで踏んでいた土の感触とも違う。省吾は足をどけた。

 細かく砕けた赤い肉片が、足下に散らばっていた。乳白色の骨と黒く長い髪が、同様に散乱している。それが何であるのか、幼い彼にも分かった。

 髪の毛に埋もれるように、透明な球があった。薄茶色の虹彩が、少年の方を睨むように見ている――

 それはさっきまで彼を見つめていた、母の眼、だった。

 恐怖が心に広がり、唇が悲鳴をかたどった。



 「わああああああああああああ!!」



 悲鳴とともに、真田省吾は飛び起きた。


 かび臭い毛布を跳ね除け、上体だけ反射的に起きあがる。湿ったマットレスの上で、省吾は溜息をついた。

 「またか」

 うすぼんやりとした日の光が、窓から差し込んでくる。ベッドから降りると、呻き声を上げながら窓に近づき。

 開けた。


 真っ先に飛び込んできたのは、建設途中のビルだった。むき出しの鉄骨がいくつも組まれ、大小のクレーンがせわしなく動いている。

 その隣も、向かいも。造りかけだったり、廃墟に近いほど崩落していたり、と。いずれもこの街の名物ともいえるような廃ビルと集合住宅が立ち並んでいる。

 成海市――ここが、省吾の住む街である。かつて戦争に敗れ国を失った流浪の民を収容する、国連直属の特例都市。難民たるアジアの民はここで暮らしている。

 そう、ここは故郷とは違う。戦争は10年も前に終結し、省吾の国はもうない。

 だというのに――ここのところ、同じような夢ばかり見る。大抵は戦争時の夢であり、ろくな記憶に出くわさない。

 しかも、今朝のは最悪の部類に入る。

 「はぁ……」

 ひとつ伸びをして、深呼吸をした。埃まみれの街の気が、入り込んでくる。

 天を仰ぎ見た。

 「いやな空だ」

 ビルの狭間には、くすんだ曇天が広がっていた。

次回更新は3月20日(木)です。

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