第六章:11
右腕の痛みに叩き起こされるように、ビリー・R・レインは目を醒ました。
最初、目の前に水溜りが広がっているのが見えた。
鉄と地の臭気が、凍てつく空気と共に、ビリーの鼻腔を刺激した。次には皮膚に突き刺さるような、ざらついた地面の感触が。
消えていた五感が、徐々に蘇ってきた。
「ここは……」
ビリーは仰向けのまま、目を凝らした。
「何だよ、ここは」
まだ半覚醒の頭を無理矢理動かし、周囲の環境から自分が置かれた立場を推測する。
そこは何も無い空間だった。灰色の天井と床が、どこまでも続くだだっ広い部屋。壁は、見えない。奥の方に影を落す、あれがこの空間と外を区切る境界だろうか?
立ち上がろうともがいたが、両足が鎖で縛られている。右腕はすでに意味を成さぬ鉄塊と化しており、自由な左腕もかじかんだように動かない。
「良く眠れたか、ビリー」
と呼ぶ声があった。幼い少女のような、甲高い声が。
振り返る。
「てめえ……」
その主の方を振り返る。
影の中に銀髪が現れた。タンクトップの小柄な男、今日は両の瞳ともが墨を流したように黒い。
「いい夢見れたかよ、ブタ野郎。美味いもん食って、いい女抱いて……十分に堪能しただろう?」
和馬雪久が、舐めるような声でビリーをなじった。見下す目線が容赦なく、爪先でビリーの尻を突いた。
「よぉ、ビリー。コンクリートの味はどうだ? 血とションベンが染み込んだ床は新鮮だろう? そいつはお前が殺した奴らのモンだ。自分でかぎ回るとひとしおだろうぜ」
ビリーの腹に、サッカーボールキックを食らわせた。胃がせり上がり、内容物を盛大にぶちまけた。
「ぐ……かはっ」
「おやおや、意外と粗食だなビリー。おまけに消化不良ときてる」
ビリーの吐瀉物を足で踏みつけ、その踏みつけた足でビリーの顔を踏んだ。二度、三度と念入りに蹴り、足裏を擦り付ける。痣となり鼻っ柱が砕けても、止めない。
「……ろせ」
「はぁ? なんかいったか」
「さっさと、殺すなら殺せよクソが」
もう抗うだけの気力も残されていないのか、投げやりにいってのけた。雪久はへえっと意外そうな顔をした。
「何だ、無様に命乞いでもするんかと思ったけど」
うるさい、と毒づくより先に雪久の靴底がビリーの口を塞いだ。
「でもそれじゃあ、面白くねえよなぁ……素直に死んでもらっちゃあ、つまらねえよ」
おい、と雪久が声を掛けた。直後、10代ぐらいの少年が3人何かを持ってくる。
「つまんねえんだよ……皆してあっさり殺りあって、あっさり逝っちまうことがいいとか思ってるんだけど、それじゃあ楽しくもなんともねえよ」
雪久は、両手にやたら分厚い手袋をはめた。革製の、茶色のグローブ。
そして、次に長さ50センチほどの鉄の棒を掴んだ。太さは、直径2センチといったところか。先端は尖り、鈍色の光沢を放っている。
「俺はさ、もっと語らいたいわけよ。死というツールを使って、血と刃のやり取りをする。それは、ただ喋くるよりもよっぽど心に響くコミュニケーションだと思うんだよな……喧嘩、殺し合い、そして……」。
1人が、バーナーを取り出した。鉄の先端を、青い炎で炙る。見る見るうちに、黒い鉄が赤く燃えだした。
「拷問」
炎の下で、雪久の顔が満面の笑みを浮かべた。
「古代殷の王は、女に溺れて暴政を繰り返したそうだ……」
数千度に熱せられた鉄を、ビリーの顔に近づけた。鼻先が、燃えるように熱い。
「反逆者には容赦なくてね……そいつがやった拷問の一つに、焼けた鉄柱に罪人を縛りつける、なんてのがあったっけな。そいつに比べたら、火箸はかわいいもんだろう」
熱せられた部分を、ビリーの肩に押し付けた。
悲鳴、悶絶。鉄が肌を焼いた。皮膚が燃え、黒くこげてゆく。じりじりと音を立てるたびに、肉の焦げる臭いが充満した。
棒を離す。押し付けられた箇所が、ケロイド状になっていた。
「ん、ちょっと弱いかな」
そういうと、雪久はビリーの額を踏みつけた。
「こっちのほうは、どうだ?」
再び熱せられた鉄棒を、ビリーの右目に突き刺した。
これにはビリー、絶叫した。すさまじい熱さと痛みが体内に直接、叩きこまれたのだ。
「ぎゃあああああああああ!!」
体を貫く、未知の痛覚。ぶすぶすと音を立て、眼球が焼かれた。
「ん〜、いい反応だね」
雪久は鉄杭を引き抜いた。
闇が、口を開けていた。眼球のあった場所は、ぽっかりと空虚な穴に仕上がっていた。闇の目から涙のように、赤黒い血が滴り落ちた。
「あ……あが」
這いずり回って、逃げようとするが両足の鎖がそれを阻んだ。さらに、右の『鉄腕』が重くて動けない。動かぬ機械など、もはや枷でしかない。
「おおい、まだ終わってねえよ」
雪久、ビリーの後頭部を踏みつけた
「もっと語らおうぜ、旦那」
今度は自ら、バーナーで棒を熱した。
「まだまだ足りない、だろ?」 特に先端の尖った部分を、念入りに熱する。そして左の掌に、突き刺した。
「くあ、ああ……あ」
情け無い声を出して、ビリーは涎と涙にまみれた顔を上げた。
「ほら、どうした」
熱しては刺し、また熱しては刺す……わざと急所を外し、手足を中心に責める。太腿に一本ずつ突き刺し、腕と肩に大小の火箸を突き刺していった。
突きたてるたびに、ビリーは悲鳴を上げながら身を打った。熱さと痛みに、のたくる様を雪久はどこか呆然としたように眺める。そしてまた新たな火箸を、突き刺すのだ。顔色一つ、変えずに。
周りの少年たちが、目を背けた。やりすぎ、と1人が呟いた。その言葉は聞こえていないのか、あるいは無視しているのか――雪久は手を止めようとはしなかった。
「……て」
かすかな声が、漏れた。
ビリーは、失禁していた。全身の穴という穴から、体内の液を噴出させてのた打ち回る。
「許して……ください。おねがい……ゆるして、たのむ」
300人を束ね、『鉄腕』が《南辺》の恐怖の代名詞と語られるまでになった男が、かぼそく鳴いた。
もはや、そこにはかつての威厳はどこにも無い。物乞いか、浮浪者――卑しさを絵に描いた、餓鬼か畜生のような姿で、哀願していた。
「張り合いのねえやつ」
ふうっと溜息をついて、火箸を投げ捨てた。古いおもちゃを投げ捨てるように、もうビリーには興味が無いといった風情であった。
「まあいいや。後の始末は、お前の女たちに任せらあ」
女たち? ビリーは顔を上げた。
ぺたり。裸足がコンクリートを打つ音が、耳元で響く。
「あ……」
薄い布を纏ったアジア系の女が、ビリーを見下ろしていた。雪久と同じような、鉄杭を持っていて――
「うわ、うあああ!!」
ビリーが飛びのく、より先に女が杭を突き刺した。例によって、熱せられている。
「いてえ、いてえよ……」
ビリーは周囲に目を走らせた。
女が数人ほど、いつの間にかビリーを囲っていた。全員アジア人、まさか――
「みーんな、“パープル・アイ”の娼婦たちだ。お前に是非とも礼をしたい、ってんで連れて来てやった」
女たちはそれぞれ、同じような鉄杭を持っていた。白い布を纏い、手だけ茶色いグローブに包まれている。
そしてその目。氷点下の遥か下をゆく冷え切った視線に、精一杯の憎悪、殺気といった類の負の感情を込めて見下ろしている。
突き刺さるような目、目、目……視線で殺せるならば殺してやりたい、とでもいいたげな風である。
少年たちがバーナーを手に、女たちの杭を熱する。途端、身震いするほど寒かった部屋の温度汗ばむほどに上昇した。
「じゃ、後任せた」
雪久はそれだけいうと部屋を後にした。
女たちが、ビリーの囲む。包囲の輪が縮まるたびに、熱気がビリーの肌を撫でた。
「や、やめろ……」
うずくまりながら、悲痛な声を漏らす。そんな悲痛な命乞いが通じるか否か。
語るまでも無い。
女たちが杭を振りかぶる。灼熱の鋭気が、天頂に幾つも翳された。
「やめろおおおおおおおおおおおおお!!」
恐怖と悲哀の叫びを、上げた。
断末魔の悲鳴が、遠くから聞こえた。
「あらら、意外とあっけないな」
鼻唄交じりにいうと、廊下へ出た。そこへ、燕が通りかかった。
「……」
相変わらずの細い目で、じっと雪久を見る。その視線を手でひらひらとかわしながら「文句あるのか」と訊いた。
「これが俺のやり方だ。この街のギャングどもを潰し、天辺に昇り詰めるための足がかり。そのためなら何でもやる」
「……お前のことは、認めているよ」
燕は雪久とすれ違い、いった。
「『BLUE PANTHER』を潰し、あの2人の死に報いた……それは、いい。だけど……」
ためらいがちに、雪久の背中に投げかけた。
「やっぱ、好きにはなれない……ああいうやり方は」
「……誰かに好かれるためにやるわけじゃねえさ」
誰にいうでもなく、雪久は1人呟いた。
「なんだってやるさ、奴らをぶっ潰すまでは、な……」
雪久は立ち去った。燕の方を振り向くことは、なかった。
燕もまた、背を向けて去っていった。
強きは屍肉を貪りて 弱きは死を怖れる
討つものは討たれ 奪るものはいずれは奪られるゆく運命
成海市 欲と憎悪の螺旋の果てに
潜む魔物は静かに嗤う
監獄街 第一部:完
ここまでお付き合いいただき、まことに有難う御座います。
どうにか、なんとか、やっとこさ。第一部完了で御座います。
ちまちま更新していたら、時間がかかりすぎてしまいました。第一部終了させるのにこれだけ時間がかかっていたんじゃ完結するのにどれくらいかかるんだ、って話ですよね(汗) まあ、そうならないように第二部からはなるべく更新速度を早くしたいと思います。
第二部は、3月中旬もしくは4月の頭になってしまうかもしれません。作者の都合により、しばらく執筆から離れることになりますので……できるだけ早く再開できるように努めます。
もうしばらくお付き合いいただければ幸いです。