第六章:9
向かいの廃ビルの屋上に、2人の男女がいた。
男の方は、すらりとした長身をかっちりした黒いスーツで包んでいる。全身黒づくめ、双眼鏡で、省吾達の戦いを覗いている。
女の方もやはり黒づくめ。ただし、特殊部隊が着るようなタクティカル・スーツ姿。男の後ろに、控えている。
「なんだか……当初の予想を大幅に裏切ったな」
男の方が、けだるそうにいった。流暢なビジネス英語だ。
「銀行レースかと思いきや大番狂わせ、といったところか。あいつらに投じた数千ドルが一夜で紙くずになっちまったぜ」
「チーム『OROCHI』……」
女の方が歩み出て、屋上の縁に足をかけた。流れるようなブロンドの髪を掻き揚げ、それが風に棚引いた。
「生かしておいては厄介かもしれません。仕留めますか?」
拳を握りこみ、今にもビルから飛び降りそうなくらいに身を乗り出す。それを男が、手で制した。
「やめとけ。『鉄腕』と『千里眼』のデータの採取、という最大目標は達せられた。これ以上の干渉は無用だ。後は、本国の指示を仰げ」
さらに男は付け加えた。
「それに、お前の体もまだ完全じゃあない」
諭すように、女に言い聞かせる。垂れ気味の碧眼で、穏やかな視線を送った。女は無表情のまま「イエス、サー」といって引き下がった。
「しっかし」
男は双眼鏡に目を戻した。
「『OROCHI』とかはまあともかくだ……妙な鼠が一匹、紛れ込んでるな」
そういってレンズの内に1人の少年を――真田省吾の姿を捉えた。
――《南辺》第2ブロック、『夜光路』
ひしゃげた外灯と放置されたジープの残骸、崩れたレンガの壁が、今も残る。
そして地面に残る血痕。死体は片付けられたのか、存在しない。しかし、それだけで十分、分かった。
ここで、チョウは命を散らしたのだ、と。
ユジンはその事実を、以外に素直に受け止めた。泣き崩れるわけでも、取り乱すわけでも無い。ただ淡々と、仲間の「死」という情報を受け取ったにすぎなかった。
それでもどこか――生気を失ったかのように見えた。跪き、手に持っていた花を供えた後も、呆けたようにその血の痕を見つめていた。
「あいつは、お前を護るために散った」
省吾が、沈黙を破った。
「最後までお前の身を案じていた……別にどうでもいいけどな」
「省吾……感謝しているよ。ありがとう、ここにつれて来てくれて」
ユジンが、嘆息したような声を漏らした。二、三度地面を指でなぞり立ち上がる。
「私は、生きて欲しかった……仲間を失うのは悲しいから……私には、皆大切な仲間……だから」
最後の方は、しゃくりあげるような声になった。
頬を一筋、流れるものがあった。死んだチョウのために、泣いていたのだ。
そんなユジンを見て省吾は『こりゃ男が勘違いするわけだ……』などと呟いた。
「……俺は、あいつのことは知らん。別に親しくも無いし。だが、あいつは死を覚悟していた。意味ある死を、選びたかっただけだろう。生き死にを、自分で選べただけましだ。この街じゃ、それすら出来ない奴が多いんだから……」
風が、ごうっと砂埃を舞い上げた。一瞬だけ視界を塞ぎ、ユジンの後姿を影にする。
つむじ風に煽られた塵が顔を叩いた。思わず目を背ける。次に目を開けたときには
「でも……」
ユジンが、省吾の方に向き合っていた。涙で濡れた両の瞳が、光明となって省吾を射抜く。真っ直ぐに、逸らさずに省吾の目を見ていた。
「死を覚悟したから、それでも死んでもいいって願う人は、いないわ」
「……そうかい。この街じゃ、他人の死を誰よりも望むやつばかりだと思うけどな」
砂が血の痕を覆い隠す。そうして、この街の全ての死は「過去」となり、忘れ去られて行くのだ。
かつてここに誰がいたか、そしてどう死んでいったか。それらは時がたつにつれ、消えてゆく。時代が、いや例え時代が違ったとしてもそれがこの世の理だ。
「ねえ」とユジンが声をかけた。
「例えば、死ぬことを是とした人がいて、でも死んで欲しくないって願う人がいたらその人はどうすればいいの?」
「どういうことだ?」
「死を覚悟した人に、“生きて欲しい”ということは、唯のエゴなのかしら……?」
ユジンは空を仰いだ。省吾もまた見上げる。午後の日差しが容赦なく照りこみ、瞼を細めた。
「……さあな」
砂塵が、空に立ち昇る。死者の魂が昇っていくようにも、見えた。
「じゃあ、俺は行くから」
踵を返し、省吾はユジンに背を向けた。
「やっぱり、仲間にはなってくれないんだね……」
諦めたような、でもどこか寂しげな表情を浮かべて溜息混じりにいった。省吾は振り返ることなく、応じる。
「いろいろ考えたんだが……やはり俺には、人の群れとかそういうのはあわない。俺はチョウと李、2人を見殺しにしたんだ。そんな俺が、うまくやっていけるとは思えん」
「そんなこと」
そんなことは……唇を噛み、ユジンはしかしそれ以上何もいうことは無かった。拳を握り、下を向いたまま黙っている。
「まあ、あんたみたいな人間ばかりだったら……少しは考えるかもしれんがな」
「……えっ?」
ぱっと、顔を上げる。もしかしたら、気が変わったのではという一抹の期待を覚えた。しかし、やはり省吾は振り返ることは無かった。
「いやなんでも無い。まあ、せいぜい元気でやれ」
立ち去りながら、最後に投げかけた。
「再見(じゃあ、また)」
背を向けたまま、左手を振り上げた。