第六章:8
孫 龍福は、暗い室内で目を覚ました。
身を起こし、しばらく放心状態でコンクリの天井を見つめた。暗闇が夢の続きのような非現実を醸し出し、それが彼の覚醒を妨げる。
「気がついたか、孫」
戸口からの声に、孫の頭はようやく晴れ渡った。
灯りが点けられる。声の主を確認することが出来た。
「ヨシ……」
「よかった。もう駄目かと思ったよ」
ヨシと呼ばれた少年は、ほっと胸をなでおろした。孫とそう変わらない14歳であるが、身長はすでに170センチあり、幾分大人びて見える。
「えっと、皆は?」
「最終決戦だ。オレっちは、留守番。戦力外通告受けちまってよ」
「飲むか?」と水を差し出した。それを受け取ろうと右手を伸ばしたが
「……あ」
肘から先が消失していることに、気がついた。同時に思い出す。『夜光路』での攻防戦を。
「いや……あのな、孫」
ヨシはばつが悪そうに、口ごもった。
「真田さんも、結構頑張ったんだが……ほら、さすがに数が違ったっていうか……あ、あんまり責めないでやってくれ。本当ならお前は」
「大丈夫だよ、ヨシ」
くすりと笑い、孫は左手を差し出した。コップを受け取る。
「鍼は別に、左でも打てるよ。真田さんには、感謝している」
冷たい水を、喉に流し込んだ。乾いた体に、急速に浸透し、潤す。
「それで雪久は、真田さんは……」
「ああ、今『鉄腕』とやりあっているみたいだ。さっき連絡が入った」
ヨシは、携帯電話をちらつかせていった。
「苦戦しているみたいだけどね」
「大丈夫だよ……」
コップを置き、再び何も無い天井を見つめていった。
「あの人たちなら、きっと大丈夫……」
省吾の前に、一つの影が立ちはだかった。
細く、しかししなやかで節くれだった腕を突き出し、仁王立ちになる。
両眼は鋭く、獣のそれを思わせた。
その顔、右半面には――かつて《南辺》にその名を轟かせた、彼の二つ名の由来ともなった獣の牙を模した刺青が、彫られている。
「宮……元っ」
ビリーが、噛み殺すように呟いた。
宮元梁が、ナイフを受け止めていたのだ。右の掌で、直に刃を掴む。血が滲み、赤い雫が地面に垂れている。
腕よりも足の方が、傷は深い。UZIサブマシンガンに打ち抜かれた両足は未だ回復せず、血に濡れた脚は小刻みに震えていた。
それでも――最後の力を振り絞ってその一撃を止めた。最後の最後に、駆けつけたのだ。
「お前たちは、いつだってそうだ」
ビリーを見上げるように、真っ向から睨みつけた。
「銃、金、全てにおいて無力な難民を、いたぶり、その血を啜り、骨までしゃぶりつくす……自分よりも弱いものに、力を振るう」
宮元梁は淡々として、いった。体は微動だにしない。
「それがルールとのたまうならば、俺たちが変えてやる。雪久!」
急に、刀に力が加わるのを感じた。
「待たせた」
雪久が隣にいた。両手で省吾の左手を包むように、柄を持っている。そして省吾と共に、刃に力を込めた。
「お前、腹が……」
雪久のわき腹から、血が滲んでいる。先刻、つき飛ばされたときの傷か。だが雪久は「問題ない」といって歯を見せた。
「今は、こっちだろう!」
雪久は握った長脇差を、無理矢理押し込めた。
徐々に肉に沈む、省吾の刀。1人が盾になり、2人分の力で突く。
「がああああああああ」
ビリーも左手に力を加える。梁が、右手を握る。
省吾の掌に、硬い感触が伝わった。ここが接合部。雪久が観たという――
(ここを破壊すれば)
最後の気力を振り絞り、立ち上がった。
右足裏で強く地面を押した。力が、腰から背中に、腕に伝播する。
「終わりだ!」
瞬間、切っ先が肩を貫いた。
唸る『鉄腕』が、振り上げた状態のまま停止した。太い金属は根元から、折れ曲がり――やがて地面に落ちた。
同時にビリーの体が、その鉄の腕に引っ張られるように崩れ落ちる。必死に右腕を振りあげようと、肩を動かす。だが、それはもう他人の腕のように動かない。
あれほど耳障りなモーターや駆動音を響かせていたのに、それももうない。ビリーの右肩からぶら下がったそれは、ものいわぬ鉄塊と化している。
『鉄腕』は、完全に沈黙したのだ。
「……クソ」
ビリーは最後に、雪久と省吾、梁の顔を順番に見た。全てを失い、地の果てへと落される亡者の目。かつて奪う側だった人間が、奪われる側に転落した。
宣告される。
「チェック・メイト」
梁が身を引く。省吾が膝をつく。
雪久だけが前に出た。左膝をかいこみ、ビリーの顔面に回し蹴りを放った。
脚が鞭となり、空に走った。音を切る鋭いミドル・キックが決まり、顔面を跳ね上げる。もう一度、髪を掴んで膝蹴り。ビリーの意識を、彼方へ弾き飛ばした。
「そこ」はおそらく、スイッチのようなものだったのだろう。
機械義肢は、体内を流れる微弱な電流を感知して動く。それを効率よく伝達するための装置だったのか……朦朧とする意識の中、省吾はそんなことを思った。
が、それ以上は考えることが出来なかった。省吾の気力も限界であった。ビリーの巨体が頽れるのを見届けると同時に、自らの意識も滑り落ちるのを感じた。
「おい、生きてるか?」
次に目を醒ましたときには、省吾は仰向けに寝かされていた。雪久が、省吾の顔を覗きこんでいる。
「ったく、気持ちよく気絶びてんじゃねえよカスが。これだから難民育ちは」
雪久が憎まれ口を叩いた。状況が分からぬ省吾は、後半の暴言など気にも止めず、上体を起こしながら訊いた。
「『鉄腕』は?」
省吾が訊くのへ、省吾は黙って背後を指差した。
丁度ビリーが、『OROCHI』の少年たちに縛り上げられているところであった。白目を剥いて失神している。
その横で、宮元梁が黙ってビリーを見下ろしていた。その胸中は如何ほどか。悲哀や怒りといったものはなく、ただ目の前の光景を事実として受け止めているようにも見えた。
「よお、色男」
雪久が梁の肩を叩いた。呼ぶ声は屈託なく、因縁めいたものは何も感じられない。本当に、親しいものに呼びかけるそれだった。
「ったく、美味しい所を持ってきやがってこの男は……」
「駆けつけてやったんだ、有難く思え、よ」
梁が、崩れ落ちた。それを雪久が支える。
「ありがてえよ、マジでそう思ってるさ」
「本当かよ」
梁が含み笑いを漏らした。雪久もまた、鼻を鳴らす。肩を組みながら、彰たちの方へと歩いていった。
「雪久」
ユジンが駆け寄る。雪久の姿を見ると、曇った表情に安堵の色が滲んだ。そして気まずそうに顔を伏せ、次にためらいがちに訊いた。
「えっと……その」
「大丈夫か」
雪久が、ユジンの頭に手を置きくしゃくしゃと撫で回した。
「すまんな、遅くなって……いつも苦労掛ける」
「あ……」
驚いたように顔を上げたユジンの耳元に口を近づけ、雪久がいった。
「もう少し、迷惑掛けるかも知れねえ……ついてきてくれるか?」
その言葉を聞いて『え』とか『そんな……』とかいいながらユジンは顔を背けてしまった。耳まで真っ赤に染めている。
「わ、私こそっ、その……あ、ありがとう。助けに来てくれて」
しどろもどろになって答えるユジンを、省吾は遠い目で見ていた。
「俺も、一応忘れんで貰いたいね……」
などと1人ぶつくさ呟いたが、おそらくユジンには聞こえていない。
赤い装束の少年たちの群れの中央に、青い男達が5人、いた。
その青装束たちの真ん中には、褐色の肌をした男が横たわっている。腹から血を流し、顔面は蒼白だった。呼吸は浅く、時々思い出したように胸が上下する。
「グエン」
梁が、その男の名を呼んだ。
「宮元、サン」
ゆったりと顔を向け、グエンが微笑んだ。
「ご無事で……」
「馬鹿野郎」
グエンの声を遮り、梁がいった。跪き、グエンの手を握る。
「どうして……お前は、俺のためなんかに。自分の命を削ってまで」
梁の表情は伺えない。だが、肩を細かく震わせていた。
グエンは次に、顔を左に向けた。薄く開いた目、その視線の先には宮元舞の姿があった。
舞は、目を伏せていた。そんな舞に、グエンはいった。
「あなたが、宮元舞、サンですね」
切れ切れな声。虫が鳴くような、弱い息。残りの力を振り絞り、グエンがいった。笑みを絶やすこと無く。
「お会い出来て、光栄です……噂どおり、可愛らしいお方だ……」
それが、最後の言葉だった。
グエン・チー・イは死んだ。
魂が、器を離れる。その手から力が抜けるのを、梁は感じた。
最後まで、主君と仰いだ宮元梁への忠義を貫き、そして今散ったのだ。
「馬鹿な奴だ」
梁は、グエンの瞼を閉じた。安らかな、顔だった。
「顔も知らぬ女のために……俺なんかのために逝きやがって。自分1人のために、生きようと思えば生きられたのによ……」
青の男達が、嗚咽を漏らしている。赤の少年たちも、それぞれ顔を伏せ、中には胸に手をやって『突撃隊』の副長の死を悼んだ。
気がつけば、夜が明けていた。朝日が、壁の隙間から差し込んでいる。
柔らかな白い陽光が、廃ビルのくすんだ壁に色をさす。赤装束の少年たち、一人一人の顔を照らし出していた。
それが、血に濡れた夜の終焉を、彼らに告げていた。
いま、『百鬼地区』で街の火種の一つが、潰えたのだ。