第六章:5
地面が眼前に迫り、慌てて手をついて顔と地面との衝突を避ける。
続いて顔を向け、抗議の声を上げようとした。
が、「何……」と発した声は、一発の銃声にかき消された。
血が飛び散った。生温かい感触が、頬に当たる。それがグエンのものであると気づくのに、間があった。
銃弾が、グエンの体を貫いていたのだ。
「あ……」
グエンは一旦ユジンを見て、次に何もない虚空を見つめ、そして……血の中に膝をつき、倒れた。
素早く周囲に目を走らせる。5メートルほど離れた土壁の向こうで、男がライフルを構えていた。銃口からは、白く棚引く煙。
――まだ、いた。
その男を見据えると、あとは早かった。棍を構えなおし、走った。
再び発砲、銃弾が地面に刺さる。
跳躍。空中で棍を振りかぶり、着地と共に打ち下ろした。男の、頭蓋骨が割れる感触が伝わった。もう一度、腹に突き立てて止めを刺した。
「ご無事で何よりです」
血の海の中に沈むグエンが、静かに笑った。
「どうして……」
彰達が、駆け寄ってくる。ユジンはしゃがみ込み、グエンの顔を覗き込むように見る。
「私が、貴女に死んで欲しくは無い、と思った。それだけです」
弱く、震えるような声でいった。
「貴女のような人は、貴重ですからね。この街では」
何事か、彰が叫んでいる。それも、耳に入らない。
「ねえ、あなたの名前を教えてくれない?」
「仇の名を、知ってどうするのですか」
「仇でも、知っておきたいの。私は、朴 留陣。あなたは?」
ユジンがいうのへ、グエンはしばらく考え込むように黙っていた。虚空を見つめ、やがて口を開いた。
「……グエン・チー・イ、です」
「そう……よろしく、グエン」
そう発した。ユジンはグエンの肩に、そっと手を置いて囁いた。
「畜生、このクソガキ共がぁー!!」
『鉄腕』の指を鉤爪に見たて、引っ掻くように振り下ろした。
「右に!」
雪久がいうと共に、省吾が右側に身を翻す。風切る音と、モーターの咆哮が耳を衝き、鋭利な鉄の指がこめかみを掠めた。
踏みとどまり、方向転換。
『鉄腕』が拳を作った。腕を引き、省吾の顔面めがけて突いた。
省吾、足を左前に踏み出す。膝の力を抜き、半身になって倒れこむように前に出る。
入身。攻撃を避け、瞬時に敵の懐に入る体捌きは柔術の基本的技法だ。
来い、と目で合図した。雪久がそれに応じた。
鉄パイプを、振り下ろした。
『鉄腕』が、無造作に突き出された。
鈍い衝動が、加わった。鉄の指が、雪久の鉄パイプを挟んでいる。
「調子に乗るな、ジャップ」
指が、パイプに食い込んだ。握りつぶそうとしている。
「離せ、この……」
引き抜こうと、抵抗する。しかし、それより先に『鉄腕』が鉄パイプを握り砕いた。まるでガラス細工でも壊すように、いとも簡単に。
腕を返し、もう一度振り上げる。
今度は指を広げ、鉄の張り手を浴びせた。ただの平手打ちなら大した威力はない。だが、どれが鉄の掌となると話は違う。
「かあ!」
身を反らし、避ける。鉄の指が鼻先ギリギリを通った。数ミリ違えれば、喉元を切り裂かれる距離。
ビリー、追撃。雪久の足を払った。『千里眼』の死角をついた蹴り。そのまま倒され、足で踏みつけられる。
やるか――省吾は左手に剣をもち、右掌を柄に当て思い切り突きこんだ。
それをまた、ビリーは防いだ。尖った五指が、刀身を掴む。
強引に刀を奪い取り、放り投げて見下したような視線をくれる。
「貴様らの価値を教えてやろう」
振りかぶる。避けようとしたが、身を退くより先に『鉄腕』が、省吾の 右肩に触れた。
「ゴミ野郎、消え去れ!!」
恐ろしく強力な力が、腕の一点にかかる。筋肉が潰れ、骨がたわむ。
「止めろ、クソ野郎!」
雪久が、踏みつけられたまま叫んだ
嫌な音を奏でた。耳に直接響く不協和音。体に負荷がかかり、足裏が地面を離れた。
――畜生、このクソ野郎!
思ったときにはもう、省吾の体は空に舞い上げられていた。
上下左右が消え去った。目の前が暗くなる。腕にかかる痛覚だけが、唯一の現実だった。
地面のざらついた感触と夜の冷気が、肌を舐める。
右手の感覚が消え失せている。見ると、腕が本来とは逆方向に折り曲がっていた。
「状況は最悪、か」
身を起こして、目を凝らす。丁度、『鉄腕』が雪久の首に掛けられるところが、見て取れた。
「待て……この野郎」
立ち上がり、おぼつかない足どりでビリーの背中に歩み寄る。
「ぶっ殺す……」
左手で、ビリーの背中を殴りつける。巨大な筋肉の前には、しかしそれは徒労に過ぎない。
「ぶっ殺す、このクソ野郎……」
縦拳を、背中に浴びせる。何度も、何度も。ビリーはそれをうるさそうに、手で払った。
「クソ、畜生……」
省吾の攻撃など、ドアをノックするかのように効いていない。
「うるせえ、馬鹿」
面倒くさそうに、省吾を蹴り飛ばした。足で押した程度だったが、それでも今の省吾には地面にひれ伏させる威力はあった。
力なく倒れこむ省吾に、蔑む視線が叩きこまれた。
「畜生――」
無力――身に着けた術理が通用しない。命を賭して、身を削って戦っても――まるで子供をあしらうかのように弄ばれる。
這い蹲り、地面に顔をつくその姿は敗者の姿だった。圧倒的な力の前にひれ伏す、亡者か奴隷のそれ。いま、省吾と雪久が置かれている立場がそれだ。
――悔しい。
喉からせり上げそうになるものを、噛み殺した。感情を押し込める。なのに、どうしても涙が滲んできてしまう。
俺がどんなに力を尽くしても――この化け物には
勝てない……。
ビリーの手が、雪久の首を締め付けている。
止めろ、といった声は、届かない。
「あきらめ……るな」
雪久の声が、降ってきた。締め付けられた、小さな声。しかし、力のある声が。
見開いたその先には、省吾の刀があった。
立ち上がってか走り出すまで、一挙動だった。3メートル先に転がっている長脇差を、左手でとる。
握りこむ、振りかぶる。
「離せ、クソ野郎!!」
斜めに斬った。斬るというよりかは、ただ殴りつけるかのようである。片手では刃筋もたたないし、皮を切ることはできても骨を断つ力は無い。
それでも、ビリーの『鉄腕』の力を緩める一助にはなったか
「やめろこのっ」
ビリーは雪久の首を離し、『鉄腕』で刃を防いだ。唐突に開放された 雪久は地面に叩きつけられ、激しく咳き込んでいる。
「このぉー!!」
『鉄腕』の鉄槌が、省吾に下される。
省吾は長脇差の柄尻を持った。天頂に翳し、それを『鉄腕』に向けて投げつけた。
手裏剣の打剣とは違う、ただの闇雲な投擲だった。人が作り上げ、術理にまで昇華した武をかなぐり捨て、物を「投げる」だけという極めて原始的な攻撃だった。
だが――それが意外な形で功を奏す。
斬っ
ビリーの肩に、刀が刺さった。当たったのは右鎖骨の辺り。
刺さった瞬間、ビリーの腕が省吾の脳天ギリギリで止められた。
「この……クソが」
『鉄腕』が、ブルブルと震えている。そこから先が動かせない、といった様子だ。
その隙をついて、省吾、ビリーに体当たりを食らわせた。ビリーの巨体が少しだけ下がる。 その間に距離を取った。
ある、疑念が沸いた。
(? 何をやってる、あの程度で――)
あの程度で、なぜ動きを止める……?
疑念から思考を巡らせる。何かを、掴めそうだ。
(もしかして……)
やがて、ある解に辿り着いた。
「雪久! 来い!」
呼びかけに応じるように、雪久がおぼつかない足取りで来た。首を押さえている。
「何? ちょっと休ませて――ゴホッ」
「雪久、あいつを倒せるかもしれねえぞ」
「……は?」
雪久の首筋には、赤く圧迫された痕が残っていた。あの『鉄腕』ならば気道を塞ぐことは愚か、下手したら雪久の首がぽっきりと折られていても不思議は無い。
だがそれに関して、省吾はなんら関心を示さず、若干興奮したような声で雪久にいった。
「突破口を、見つけた」