第六章:4
鉄の腕と長脇差が十字に交差し、互いに押し合う。
手首の関節部分の隙間に、刃が挟みこまれている状態だ。ぎりぎりと鉄が唸っている。
ビリーが押した。省吾の体が、ずり下がった。
省吾は右手で柄を握り、刀の峰に左手を添えつつ、渾身の力で押し返す。だが、力の差は如何ともしがたい。『鉄腕』が、迫ってくる。
――やばいなこれは
内心、焦っていた。このままなら、力で押しつぶされるのは明白だ。
腰と足が、徐々に折りたたまれる。骨盤が悲鳴を上げていた。
足を踏ん張る。臍下丹田に力を込め、下半身で押し返すことでどうにか均衡を保っていた。だが、それももう――。
――拙い。
頬を、一筋伝うものがあった。汗かと思ったが違う。血だ。梁に斬られた傷が、今になって疼いてきたのだ。
傷口が、開く。骨が軋み、筋肉が疲労を訴える。省吾の体が、限界を告げようとしていた。
力が抜けていく。出血が酷い。体が重い、目が、霞む……
もう、駄目だ。
全てを、投げ出しそうになった。楽になれる、苦しみたくない。死という誘惑に、囚われそうになる。
止めてしまおうか――そう思った刹那。省吾の脳裏に、“先生”の声が蘇る。もう何年も聞いていないのに、やけに鮮明に聞こえた。
――違うだろ、省吾。武とはそういうものじゃない。
そう……だったけ。
――力無きもののための“武”だ。弱き者が暴力から身を守るために作られたのが武術本来の姿。教えただろう。
はい、先生。
笑みがこぼれた。絶望に支配されかけた心に、光が差し込む。
有難い。こんなときまで、俺に教えを授けてくれる。力を、くれる。普段は弟子でも容赦の無い人だったが、こういうどうしようもないときには必ず助けてくれる――。
そんなあんただから、俺は……。
省吾は刀を構えたまま、腰を落とした。一旦、力を溜め。そして思い切り、後ろに退いた。 3メートルほどを、一足飛びで。同時に刀にかけた手の力を、緩めた。
『押さば引け、引かば回れ』
柔道創始者である嘉納治五郎の言葉である。
この言葉の意味するところは、相手の力に拮抗しないということである。
力押しの勝負では、単純に力の強い者が勝つ。それが真理である。そうではなく、相手の力に逆らわず、相手が押す力、引く力を利用して相手を崩すということ。
例えば、綱引きなどで互いに綱を引き合った状態で、一方が急に手を離すとどうなるか。今まで引っ張っていた力が消え、もう一方は自分の力でバランスを崩してしまうことだろう。
それと同じことである。力で押してきた者に、力で返すのではなく体を捌いて相手の力を流し、相手の体の重心を崩す。そうなれば、斃すのは容易い。道でつまづいて不安定な状態になったものを転ばすことは簡単であるように。
この理論を体現したのが、「柔道の神様」と称される三船久蔵であった。身長159センチメートル、体重55キロという小柄な体格だった三船は、体力に恵まれないもののその理論を応用し、「空気投げ」という技をつくりあげた。
そして省吾も。一心無涯流柔拳法は名前に“柔”の字を冠するだけあって、柔術や合気の術理にも通じていた。
呼吸を読み、相手の力を利用する日本が生んだ『合気』『柔』の極意――国は滅びたものの、精神だけはしっかりと受け継がれている。
省吾が大きく、下がった。ビリーの方は、寄りかかっていた壁が急に消え去ったかのように大きくバランスを崩した。前のめりに、手をつくほどに転ぶ。
これこそが合気。彼我の呼吸を合わせ、自らの中心線をしっかりと定めなければできない技である。
ビリーの頭が、差し出される。
「雪久!」
反射的に、叫んだ。
「おおよ!」
高い声が、背後から聞こえた。次に、視界の端に銀色の影を捕らえた。雪久が鉄パイプを大上段に振りかぶり、省吾の右側から跳びかかったのだ。
一瞬、空中で止まったように見えたそのパイプ。次の瞬間には、唸りを上げてビリーの顔面に叩きこまれた。
「かああああっ!」
甲高い悲鳴を上げながら、ビリーが崩れ落ちた。
もう一度。ビリーの左手を打つ。丁度UZIの銃身に直撃した。フレームが大きく歪み、地面に叩き落される。敵の武器の一つを、これで潰した。
省吾は止めの突きを、入れようとした。だがビリーは2人を遠ざけようと、集る蝿でも追い払うように鉄の腕を振り回した。仕方なく、その場から離れた。
「ボーっとしてんなよ大間抜けっ。ちゃんと飯は食ってきたんか」
おどけた調子で、雪久がいった。からかうような言い草が、癪に障る。
「うるせえ、来るなら早く来いってんだ。この役立たず」
「役立たずはどっちだよ」
「なんだと、この……」
言い返そうとしたが、止めた。ビリーが立ち上がる気配を察したのだ。
刀を水平に、刺突の構えを見せる。霞の構えよりも大きく、刀の刃を上にした“松風”という一心無涯流の構えだ。
「まあいい、そんなことは後回しだ。今は」
「……ああ。舌戦、痴話喧嘩の類は命あっての物種」
雪久がパイプを、両手で握りこんだ。野球のバットのように持つのではなく、両手を離して握っている。
「今は本物の戦争だ。命を賭けた、デスゲームだっ!」
跳躍。鉄パイプを振りかぶって向かう。省吾も血を拭い、駆け出した。
残り、7人。
ユジンは最後の閃光弾に火をつけた。導火線が半分ほど燃え尽きた頃、思い切り空中に放り投げる。
「今!」
白光が照らされる。男たちの目を焼き、同時に位置を把握することも出来る。
ユジンは走りながら、左手で持った棍を頭上に掲げた。
右手を添えて空中で回転、螺旋を描く。棍は水平に振りぬかれ、3人の男の顎を正確に叩き割った。
グエンもまた、走る。
一閃、グエンのククリナイフが走る。ナイフを器用に回しながら、縦横無尽にナイフを振り回した。
1人、喉を抉った。2人目は顔面を、3人目は胸を斬った。身を躍らせる様は、さながら舞踊。
最後、4人目。バンダナの男がライフルを構えている。
「この……っ」
男が銃を構えた。閃光弾の効き目はおよそ2分。まだ大丈夫だ。
「はっ!」
ナイフを腰だめに構え、刺突。同時に銃声が響いた。
鮮血が、舞った。
切っ先が、男の背中から生えていた。グエンのナイフは心臓を突き、背中側へと抜けたのだ。
声を上げることも無く、男は息絶えた。
「大丈夫なの?」
ユジンが駆け寄る。
男が放った銃弾が、グエンの右肩を貫いていたのだ。褐色の肌に、アクセントのように赤い筋が流れている。傷口から白い骨が、覗いていた。
「もう、剣は握れそうも無いですね……」
腕をだらりと垂らし、グエンは呻いた。左手を失い、今さらに右手の機能をも失ってしまった。彼の、戦士としての命は、尽きた。
「早く止血を……」
ユジンが慌てて、傷に布を当てる。グエンは自嘲気味な笑みを浮かべていった。
「なぜ、私の心配など? 私は貴女の敵だったのに」
「喋らないの」
包帯で、きつすぎないように傷を抑える。あまり強く傷を圧迫すると、血は止まらない。 「確かに、敵だったかもしれないけど、今は違うでしょ? 今、一緒に戦った。敵だった ら、そんなことはしない」
「ですが……我々は貴女の仲間を……」
そこまで聞いて、ユジンは手を止めた。
「……仲間、って……」
「あの『夜光路』で、我々は『OROCHI』の者を、2人……」
それだけで、ユジンは全てを理解した。俯き、唇を噛んでしばらく黙っていたが
「……そう」
やがてかぼそく、吐息のような声を漏らした。
「私は本来は貴女と共に戦う資格など、ありはしないのです。私は罪深き人間。貴女には――」
「だからって!」
グエンの声にかぶせるように、ユジンがいった。
「だからって……見捨てられるわけ無いじゃない。どんなに憎い相手だとしても、目の前で死なれるのは嫌。まして、一度でも背中を預けたのなら尚更……」
ユジンはグエンの腕を取り、立ち上がらせた。驚いて顔を上げるグエンに、ユジンはさらに付け加えた。
「いくわよ! もう戦いは終わったの。過去にこだわる時間は無い、それよりも今に目を向けるの。とりあえず今は、雪久達の戦いを見届けなさい。あなたにも、その義務があるはず」
怪我している腕を、かまわずグイグイ引っ張ってあるくユジンにグエンが苦笑で返した。
「優しいんですね……でも」
途端、グエンの目つきが変わった。
「それだと、生き残れません。この街では」
その瞬間、グエンがユジンを突き飛ばした。