第四章:12
冷たい壁に手をつけ、足を引きずりながらユジンは路地裏に逃げ込んだ。
「チョウ……」
後ろを、何度も振り返った。
チョウが作った隙を無駄にするわけにはいかない。自らの身を呈して、自分を逃がしてくれたのだから。
「助けを……呼ばなきゃ」
といっても、事故の瞬間に携帯電話を壊してしまったため、直接呼びにいく他ない。
「雪久……」
無意識に、呼んだ。そのことに気がつき、自嘲気味に笑う。
本当に自分は弱い人間なのだな。気がつけば、心のどこかがいつも誰かに、何かに寄っている。
『釜山事件』以来、自分一人で生きたためしが無かった。人買いに売られた、そのときから3つ上の姉に頼りきっていた。冬の満州から逃げるときも、そう。『二人で逃げよう』と約束したのに、自分がもたついたせいで人買いたちに見つかった。そんな自分を責めるでもなく、それどころか姉は向かっていった。
そして銃火に消えた。大好きだった姉を、自分が弱いせいで死なせてしまったのだ。
だから、何ものにも頼っちゃいけないのだと、自分にいい聞かせた。何にも寄りかからず、誰にも支えられず。自分の足で立たなくちゃいけない。
(なのに)
どうして、気がつけば寄りかかってしまうのだろう……。『OROCHI』の仲間たちに……雪久に。寄りかかった支えが――それらが消えてしまえば、「私」という人間は崩れてしまうと分かっていながら。
一歩歩くたび、身体が軋んだ。
「弱いのは、イヤ……」
そういうユジンの目には、少し涙が浮かんでいた。
ユジンは『夜光路』に舞い戻ってきた。
だが、通りに一歩足を踏み入れた瞬間、ライトの光が目を突いた。新手が現れたのだ。
ここまで、きて……一気に、力が抜けた。膝から下が消え去り、崩れ落ちた。
ゆっくりと、接近する『突撃隊』の1騎。刀を振りかぶる。ユジンの身が、斬られる。
その刃は、しかして大きく外れた。
「あ……」
正確には、近づくバイク自体が外れたのだ。ユジンを斬るそのバイクに体当たりを食らわした、別のバイクがあったのだ。
「……省吾!」
その機上の人物をユジンが呼んだ。
「まさか、お前も『夜光路』にいたとは……」
省吾がバイクから降りる。刀傷で満身創痍である。
隣には孫。だが
「孫、腕が」
「そういうことだ。このままだと危険なんだが……帰してくれねえんだよこいつら。全く、軟派野郎が女口説くみてえにしつこく、ネチネチと……」
バイクの排気音が、また近づいてきた。
「とりあえずだな……」
省吾は、突き飛ばしたバイクを起こした。
「俺が、こいつらをひきつけとく。お前は孫を連れて、アジトに戻るんだ」
ユジンが何かいおうとするのを、省吾は手で制した。
「悪いが、議論は無しだ。うだうだいっている暇は無い。こいつはもう、限界だ」
見ると孫はぐったりとしている。出血と、打撲傷は幼い体には堪える。
「さっき何とか4人斬ったから、今なら包囲も甘くなっている」
「分かったわ。でもその前に」
ユジンは孫を、抱えながらバイクに乗った。
「チョウを、助けてあげて」
「あ、チョウだ?」
少しイラッとした表情で聞き返した。
「私を逃がすため、一人で10人に向かっていったの。お願い、助けてあげて!」
鉄の咆哮が、徐々に近づいている。迷っている時間は無かった。
「分かったよ、場所はどこだ」
騎兵を相手に、歩兵はどう立ち回れば良いか。
多くの場合、遠距離から弓か鉄砲で狙う。あるいは、長槍などの間合いが取れる武器で馬上の人間を叩き落とす。
それが無い場合、馬を狙う。足を払う、手綱を切るなどして馬自体を無力化する。
だが……目の前の鉄の馬はそれすらもできないのだ。
「くそったれ……目が霞みやがる」
チョウが、悪態をついた。
もはや、戦いともいえない。繰り出される刃から、ただ逃げるだけである。しかし、もうそれすらもできなくなっていた。
1騎、首を斬ってきた。チョウは膝をついた状態で、身をひねる。
もう1騎が、両断に仕留めんと走ってきた。少しでも触れようものなら、命はない。
「ユジン……」
もう逃げ切れただろうか? 路地裏に何とか逃がしたものの、不安である。
「お前だけは」
切っ先が肩を貫いた。肉と骨が、破片となって飛び散った。
耳が削ぎ落とされる。意識が遠のく。
「チョウ!」
誰かが、叫ぶ。そして、目の前に影が立った。
「俺をぶちのめすんじゃなかったんか?」
「……そんなこといったっけか」
「いった。惚れた女のために体張る、なんていまどき泣かせるじゃねえか」
省吾が、バイクに乗って『突撃隊』の前に立ちはだかっていた。
「ユジンは孫を連れて逃げた。あとは貴様を連れ帰るだけだ。後ろに乗れ」
省吾がせかすが
「悪いが……ぶちのめすのは無理そうだ。この体じゃな」
チョウは腕を広げ、血まみれの自分の身体を晒した。
省吾は、目を見張った。
脚が、斬られている。右足の腿の中ほどから先が無い。出血で死なないのが不思議なくらいだった。
「つーことで、無理だ。どの道、助からんだろう」
こんな状況であるにも関わらず、チョウは明るい調子でいった。いや、わざと明るくいっているのか。
「……それでも来い、ユジンに貴様を助けるっていっちまったんだ。意地でも連れ帰る」
「こんな身体で生き残れと? ご免だね、例え命を拾ってももう俺は戦えない。戦えないまま卑しく生きるなんて、耐えられない」
チョウが、省吾の目を見た。省吾もまた、チョウの目を見た。
その瞳には、覚悟が映っていた。
「死なせてくれよ、ここは黙って。ユジンも分かってくれるさ。ただ生きるより、意味ある死を選びたい。そうすりゃ、オレのクソみてえな人生も少しはマシに思えるだろう?」
「自己満足だな」
「ああ、自己満足だとも。人の一生なんて、そんなものだ」
「……阿呆が」
省吾は大きく溜息をついた。
気がつけば、二人を騎兵達が取り囲んでいた。チョウは壁に背をつけ、懐から煙草を取り出した。
「火、あるか」
省吾は黙ってターボライターからの火を差し出した。肺一杯に紫煙を溜め込み、吐き出した。
省吾はバイクを降りて、チョウの隣に立った。
「全く、のんきな奴だ。こんなときに草を食ってる奴がどこにいる」
「なあに、連中も末期の煙くらいは待ってくれるさ」
確かに、『突撃隊』は仕掛けてこない。いつでも殺せる、という余裕の表れだろうか。
ふと、省吾は訊いた。
「なあ、チョウ」
「何だ?」
「ユジンのどこがいいわけ?」
「馬鹿か、お前。あんないい娘に惚れない奴はいねえよ。惚れない奴はよっぽどの女嫌いか、ホモセクシャルだ。あ、お前まさか……」
「俺にそっちの気はねえよ」
慌てて省吾は否定する。
「ただなあ、あの女は和馬にご執心なんだろう? それでも、なのか」
煙草を投げ捨てたら、チョウは上空に目を泳がせた。わずかな空には、わずかに星が瞬いていた。
「あいつな……いつも『皆のため』とか『チームのため』とか。一番大事な自分の身を案じないで、人の心配ばかりしてやがるんだ。危なっかしくて、放っとけなくてな……」
チョウは片足だけで立ち上がり、省吾のバイクに手をついた。
「だから……お前にこんなこと頼むのはすっげえ癪なんだけどよ」
チョウは残りの左足に、力を溜めた。
「ユジンのこと、ちゃんと見ておいてくれ」
正面の1騎に身体ごとぶつかり、そこに包囲の穴が出来た。
省吾はバイクに跨り、その崩れた一角に走った。振り返ることは無かった。
もうすぐアジトにつく……。ユジンは後ろを振り向いた。追っ手は来ない。
早く、早く手当てを……。
1騎が、前方より飛び出した。
「まだいたの!?」
だが、敵は単騎であった。他には見当たらない。
――1騎なら突破できるかもしれない。
APSバトンを握り締めた。
だが、敵はどういうわけかバイクを止め、降りてきたのだ。そして、口を開いた。
「また会ったな、ユジンとやら」
その声に、聞き覚えがあった。ユジンもまた、バイクを降りた。
「梁……!」
右半面の、獣の牙。
宮元梁の姿が、そこにあった。
「今は宮元梁、だ。まあどっちでもいいけど」
「あなた、『突撃隊』だったの」
「それも、頭を張っている」
バイクのライトが逆光となり、梁の姿が影となって浮き上がる。
「……そう、白人の手先はあなただったの。あの時は、少し見どころがあると思ったけど。失望したわ」
「失望? なんだそれ」
ユジンはバトンを振った。伸縮自在の警棒が最大長に伸び、かちりと小気味良い音を奏でた。
「言葉どおりよ。あなたなら、私たちと志をともに出来ると思ったのに。虐げられた難民達を救って、白人たちと戦う仲間になれると思ったのに……なんで!」
「お前の価値と俺の価値、それが違っただけの話だ」
梁は、ポケットに手を突っ込み見下ろすような視線で見ている。
「志など、相容れようがない。もともと、お前と俺は“別”だったんだから」
「そう……残念ね」
ユジンはバトンを、突きつけた。
「そこをどいてくれないかしら?」
「無理な話だ」
「何故」
「いったろう、価値が違うと。価値感というものは、時代によって、人によって異なる。人の歴史は、異なる価値観の衝突、その繰り返し。ぶつかり合えば、それは戦争しかない」
まさに今がそうだ。そういって梁もまた構えた。腰を落とし、膝を曲げた重心の低い構えだ。右拳を、腰につけいつでも突ける体勢をつくる。
「そうね……戦争だったわね、これは」
孫に離れるようにいって、そして
「破っ!」
バトンを振りかぶり、突進。振り下ろした。
上段から打ち下ろされる、それを梁は、左腕で、受けた。
「……え?」
ブラッククロームのバトンを受け止めたのだ。当たれば骨をも砕く一撃を、生身の腕で。
「ついでにいっておこう」
梁が、右正拳をユジンの水月に叩きこんだ。
「お前が思うより、ずっとこの街は広く、深い。生半可な力は身を滅ぼす」
その一撃が、ユジンの意識をかき消した。
「ユジン?」
省吾が駆けつけたときには、梁がユジンの体を担いでバイクに乗ろうとするときだった。
「貴様、ユジンになにをした!」
「お前か、ジョーを殺った傷の男は」
顔に牙の刺青を入れた男は、質問には答えず省吾を興味深そうに見た。
(こいつ……どこかで?)
目の前の男に、見覚えがあった。つい最近目にした気がしたが、今はそれどころではない。
「安心しな、こいつは殺さない。だが、放っておけば命の保障は無い」
エンジンをかけた男が、去り際にいった。
「こいつを返して欲しければ、雪久に伝えろ。明日零時、第6ブロックの『百鬼地区』で待つ、とな」
ごう、っと轟かせて立ち去る。
「待て、貴様!」
追いかけた。だが、すでに燃料が底をついてしまった省吾のバイクでは、追いつくはずも無かった。
エンジンが止まり、省吾はバイクを降りた。敗北が、付きつけられた瞬間だった。
「畜生……畜生畜生畜生っっっ!!」
屈辱と悔恨にうち震え、拳を何度も地面にうち据えた。
排気熱に熱せられた風が、路上にしみこんだ血と油の臭気を運ぶ。
成海市、そこは魔の棲む街。淀んだ闇はあまりに重く、あまりに深い。
第四章:完
ここまでお付き合いいただき、ありがとう御座います。
第五章の更新は、年明け1月10日を予定しております。