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監獄街  作者: 俊衛門
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第二十章:22

 渡り廊下を抜けて客間にゆくと、連一人だけがいた。

「遅かったですね。夕食はもうみんな済ませましたよ。真田さんの分はそちらの卓に――」

「チャムはどこだ」

 連の言葉を省吾は強引にぶつ切る。連が怪訝そうな顔をした。

「チャムさんですか?」

「そうだよ。どこにいるのかって」

「あんたに呼び捨てにされる云われはないんだけど」

 奥のふすまが開いた。チャム・リットは大きめの浴衣を着ていた。胸元が若干開き、帯もほどけかかっていてどうみても着慣れていない感じである。が、そんなことに構ってはいられない。

「ちょっと聞きたいことがある」

「私、もう寝るところだったんだけど」

「後にしろ」

 思い切り不機嫌そうな顔をして、チャムは鼻を鳴らした。

「何なのよいったい」

「お前、《南辺》に行ったことはないか」

 省吾が聞くのに、チャムは不可解さを表に浮かべる。

「なんて?」

「だから《南辺》に行ったことはあるのかどうか。あまつさえそこで、ギャング相手に立ち回ったことはないか」

「そんなこと聞いてどうすんのさ」

「いいから答えろ」

 ちょうどそのとき扈蝶が部屋に入ってきた。来るなり空気の重さに気づいたのか、省吾をたしなめようと近づく。扈蝶が差し出した手を、省吾は払いのけた。

「すっこんでろ、扈蝶」

 ここで引くわけにはいかない。チャムは明らかに不機嫌そうにしていたが、省吾からすれば最優先の確認事項なのだから。たとえこの女と殴り合いになろうとも、殺し合いになろうとも。

「……まあ、一年前にね」

 殴り合いにも殺し合いにもなることなく、存外素直にチャムは答えた。

「何をしに行ったんだ」

「そんなことまで答えなきゃならないの? 答える義理あるとは思えないけど」

「じゃあ、それはいい。そのときギャングと揉めたことはないのか」

「揉めたら何だっての」

「その物言いは、心当たりがあるってことでいいのか」

 省吾はチャムが次に口にすることを待ちわびているような、しかし同時に聞きたくない気にもなっていた。もし、この女が自分の思った通りのことをしていたならば――

「青いギャングと衝突したことはあるよ。そのとき、ナイフ遣いの奴とやり合った」

「覆面した奴か?」

「だった気がする」

 傍で聞いていた、扈蝶には何のことかわからないらしいが、連はさすがにぴんときたらしい。ナイフ遣いの”クライシス”・ジョーのこと、南にいたものならば、誰しも一度は名を聞く。

「ナイフを二本使いで、まあ苦労したけど、とりあえずそいつをぶちのめしたんだけどね。殺しちゃいないよ」

「お前は、そいつに何か言ったか」

「え、何って」

「だからその男にだよ。ぶちのめしたんは良いんだけど、何か言ったんだろ」

「そんなのいちいち覚えちゃいないよ。まあ、《北辺》の一心無蓋流、文句あるなら北まで来いとはいっておいたけどさ」

 これで満足? と聞くチャムに、省吾はもう気を配ってはいられなかった。

「そうか……」

 一心無蓋流柔拳法は、かつての師がそう名乗った我流の武術は、この世に師と自分以外に名乗れるものはいない。そう思っていた。

 だがこの女がそう名乗っているのであれば、あのときジョーが口走った女の存在とは――師ではなく、この女――チャム・リットのことだったのだ。

 この街に、師がいるのだと思っていた。かの師匠の腹を、機械が貫いたのを目の当たりにしておきながら。一心無蓋流というその言葉が、たかがギャングの口から出ただけで、師がここにいるものだと思いこんで。

(そういうことかよ)

 どうして死んだものが生きていられよう。どうしてそんな都合良く解釈できよう。自分が賢いとは思っていなかったが、それにしてもこの己の馬鹿さ加減とは。

「真田さん? あの」

 扈蝶が省吾に声をかけた。その扈蝶の声も、ほとんど耳に入っていなかった。若干足取りがふらついているのを、扈蝶が肩を支えようと手を伸ばす。その手を払いのけ、省吾は部屋を後にした。

 しばらく誰にも会いたくはなかった。


 朝目覚めたときには、誰もいなかった。

 凍える空気が満ちていた。深く呼吸すると外気の冷たさが腹の中に入ってくる。外と内の熱が消えてゆくにつれて、頭がさえ渡るような気がした。

 省吾は毛布を取り払う。あの後、食事もせずに部屋に戻り、布団も敷かずに毛布だけかぶって眠ったのだ。横たわることなく、壁にもたれ掛かった状態で。いつでも抜けるようにと刀を抱いた格好で、夜を明かした。そんな体勢では当然深く眠れるはずもなく、浅い眠りを何度も繰り返していた。

 今、ようやくの目覚め。時刻を確認すると、明け方の四時だった。耳を澄ましてみても、誰かが起きている気配はない。障子の外に光はなく、夜があけるにはまだまだかかるだろうと思われた。

 省吾はつと、起きあがる。今から眠りにつこうにも、頭がはっきりとしていてもう眠れる気はしない。もともと睡眠は短い方だ。短い睡眠を、眠れるときに眠り、すぐに起きれるようにする――特にこれは師に教わったわけでもなく、自然に拾得したものだ。多分、この街の誰もが当たり前にしていること。

 部屋を出る。冷たさが一気に足下から駆け上がってきた。感覚の無い義足はともかく、生身の方の足はさすがに堪える。省吾の今の服装は綿の作務衣と下着を穿いているくらいでしかない。

 一度部屋に引きこもろうとすると、卓上に半纏と足袋――ご丁寧に左足分のみ――がおいてあった。おそらく、三浦とかいうあの女中が用意したのだろう。半纏は綿の詰まったの厚手のもの、足袋も裏起毛の仕様になっている。

 省吾は一瞬、躊躇した。しかし寒さには勝てず、すぐに半纏を作務衣の上から羽織る。首もとがやや心許ないが、それでも幾分か暖かくなった。続いて足袋を取るが、そもそも省吾は足袋の履き方など知らない。どうしたものかと思ったが、よく見れば踵の部分は一体型になっている。どうやら足袋といいつつも、靴下のようにそのまま履けるようなつくりになっているらしい。足袋型の靴下というものがあるのだろうが、それにしてもこんな界隈でこんなものがどうやって手に入るのだろうか。

「早い目覚めだな」

 奥の襖が開かれて、工藤が入ってきた。この男はこちらの都合を考えるということはしない性分なのか――うんざり気味に振り向く。工藤は省吾の格好を見てにやりとした。

「《南辺》の、凄腕の剣遣いも寒さには参るのか。存外似合っているものだ」

「似合うも似合わんもないだろう」

 よく見れば工藤も同じような半纏を着ている。黒地に白の格子模様といった柄まで同じである辺り、どうやら同じ生地であるらしい。途端に脱ぎ捨てたくなったが、そんなことを意識しているのかと思われるのも癪なので踏みとどまった。

「何だか、昨日はやたら早く寝たらしいな。だからそんな早起きなんか? 飯も食わずに風呂も入らずにって聞いたが」

 そういえば、あの後どうしたのかあまり覚えていない。チャムから聞いた真実が、聞いてみれば下らないことだが、省吾にとってはそれなりに衝撃的なことでもあった。飯やら風呂やらを忘れるくらいには。

「ま、何だって良いけども。とりあえず今日くらいには千振れるようにはなれよな」

「あ?」

「いやだから、振り棒だよ。あれを千振って、ようやくスタートラインなんだからよ。何度も言うが、出来なきゃ――」

「命をとるってか」

 省吾は嘲るように鼻を鳴らした。工藤に対してではない、自分に対してだ。

「たかが《南辺》の破落戸一匹、殺すのに大層なことを言うもんだなあんたも」

「何だよ、急に」

「別によ。ただ自分の馬鹿さ加減が馬鹿馬鹿しくてな」

 たかだかギャングの一人に言われたことで生きる意味を見いだして、それが打ち崩されるとショックを受ける。何と情けないことか――その情けない者は、紛れもなく自分であることが、更に情けない。

「あんなもの千も万も振れたところで何ともならない。殺すんならさっさと殺せば良いものを。あんた、言ったろう。殺す気があればいつでも殺れるってな」

「ほう、じゃあ今この場でお前を殺しても文句は言わないってか」

 工藤の目がなにやら滑稽なものを見ているかのように笑っている。何がそんなにおもしろいのか。そんなことを問いただす気にもなれない。

 省吾は答えることはなく、その場に座り込む。

 その瞬間、背筋に怖気が走った。

 反射的なことだった。意図せず省吾は腰を浮かせ、後ずさった。工藤から二メートルほども離れ、距離を取る。

「おいおい、何だよその反応。お前がやれって言ったろうが」

 言いながら工藤は懐から匕首あいくちを覗かせる。

「いや、今のは……」

 自分でも不思議だった。別に避けようとしたわけではない。工藤は抜刀はおろか、匕首を懐から出していなかったのだから。

 ただ、勝手に動いた。そうとしか思えなかった。何か嫌な気を得たと思ったときには、全身が跳ねていたのだった。妙なのは右足に全く引っかかりがなかったこと。機械とやりあったときは義足が邪魔で仕方がなかったのに、今動いた限りでは義足の存在すらも忘れていた。

「口では言ってもお前の身体は生への未練ありありのようだな。出来もしないことを言うのは恥ずかしいぞ」

 まだ呆けている省吾に、工藤は馬鹿にしたように言う。挑発口調はいつもの通りだが、省吾はそのことについてはもう気にもとめない。

「まあ、それが普通の反応だ。てめえの生き死になんてものは、てめえの足りない頭で決めることじゃない。どうしようもなくなりゃ、大体の人間は生きる方を選ぶものだ、自分の身体が生きる方を選択しちまう」

「……たとえそれが、生きる意味がなくなったとしてもか?」

 省吾が訊くのに、工藤は眉をひそめた。

「何だよ、生きる意味ってのは」

「人間である以上、生きる目的はあるだろう。それが唐突に消えたとしても、生きたいものか」

「生きるのに目的やら意味やらが要るのか、おめでたい奴だな」

「お、おめでたいって……」

 この街にいて、というよりも生きていて初めて言われた言葉かもしれない。

「おめでたいだろう、明日食うものも分からないってこんな状況でな、意味だ目的だなんて甘っちょろいことを」

「そりゃ、そこらの難民風情ならそうかもしれないが、意味も目的もなくただ生きるだけってなら――」

「そこらの難民風情って、何だよその物言い。お前もその難民だろ、お前いつもそんな見下した風に見てたんか?」

「いや……その」

 工藤の、思いの外厳しい指摘につい口ごもる。考えてみれば自分も、《南辺》や《西辺》、《北辺》のバラックで過ごしている連中と変わらないはずだ。雪久の物言いを、知らず知らずに自分もしていたのか。

「確かに俺の若い頃、まあまあ平和だった頃にはな、生きている目的やら意味やら価値やらがあるって言われていたんだよな。そいつは食うに困らず、誰かに殺される心配もなく、先の保証があるうちには言ってられるものだ。けどよ、そこいらにいる動物はどうだ? そんなこと、多分頭にはないだろうよ」

 訊いたわけじゃねえがな、と工藤はおどけるように言った。

「生きる目標だ、価値だ。そんなものは人が頭の中で作り上げたものだ。そういうものが原動力になって大きいことを成し遂げるってことはあるが、それに振り回されて生きる死ぬをてめえの妄想一つで決められると思っている。けど人間だって生き物、生き物である以上死にたい奴なんていない」

「あんたには、じゃあ生きる意味はないっていうのか」

 かつて生きるための理由が必要だと言った者がいた。この街でただ目的もなく生きるよりは、すべきことに向かって生きていたいと思ったものたち。その路を、図らずも示されて、いつしか彼らと同じように――それが必ずしも同じ目標でなかったとしても――意味を見いだして、それが希望らしきものだと思っていた。

 それが取り払われた、消えてしまった後は、一体どちらを向いていけばいいというのか。

「ただ生きるだけなら、こんな大層な道場やら訓練場やらつくる必要はないだろう。ただ生きるだけなら、武に頼る必要もないだろうに。それを」

「意味なら持っている」

 工藤は省吾の言を遮った。

「ただ、無くても生きていけるってだけだ。意味とか目標とか、頭の中でできあがっているものだって別に無視するべきものじゃない。だけど、そいつに縛られて、自分の身を不自由にさせることが馬鹿らしいっていうだけだ」

 工藤が背を向けた。見た目、小さな背中であるが消えぬ殺気を内包している。

「頭の中で出来たものは、自分の中の一部にしか過ぎんよ、真田。生きていることはもっとまるごと全部を使っている。頭で考えたことだけに縛られるのはつまらん」

 立ち去ろうとする工藤を省吾は呼び止めようとした。そのとき、工藤がふと振り向いた。

「さっき、俺の気配感じて避けたとき。ここに来て一番良かったぜ。あんな風にやりゃ、刀も棒もまあまあさまにはなるんじゃないのか」

 そう言い残して工藤は立ち去った。

 省吾は一つ身震いをした。夜が明けようとしていた。

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