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監獄街  作者: 俊衛門
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第二十章:16

 女中が先導するのに、省吾は後ろをついていった。母屋から離れに通じる渡り廊下にさしかかると、石と砂ばかりの庭を臨むことが出来た。苔むした岩と波打つ砂、典型的な枯山水の庭を挟んで簡素な小屋がある。そこが湯殿だった。

 どうぞごゆっくり、と言い残して女中は立ち去っていった。脱衣所に一人残され、一瞬だけ躊躇したものの結局服を脱ぎ、義足をはずして浴室に入った。

 浴室は壁も湯船も檜で統一されている。湯に浸かる前に身体を洗い流し、湯船に入る。ただそれだけのことであるが、入った瞬間に湯の心地よさが身体に沁みた。

(風呂なんて久しぶりだな……)

 湯の中で手足を伸ばしてみる。湯船は人が三人ぐらいは余裕で入れそうな広さを有していた。思い切りのばせば筋という筋が伸びてゆき、湯の熱さが凝り固まった身体をほぐしてゆく。入った直後は熱すぎるくらいだった温度も、身体の芯がほぐれてゆくにつれてちょうど良い温さに感じられた。

 戦争が起きる前、まだ幼い時分には当たり前だったこと。戦争が終わった後、そして故郷を放逐されてからというものの、わずかな水で身体を拭くことはあっても湯に入るということはなかった。風呂に入りたいと思うことなどもなかった。

 疲れがほぐれると、眠気が襲ってくる。眠らずに済んだのは、脱衣所の方から声がしたからだった。お湯加減はどうでしょうか、という女中の声とともに省吾は一気に警戒を強める。適当に返事をすると、女中はさらにお背中を流しましょうか、と訊いてきた。省吾が応えるより先に浴室の引き戸が少しだけ開きかけたので、慌てて省吾は断る。女中はそれ以上どうこうするというわけでもなく、着替えを置いておきますと言って立ち去っていった。

(まずいな……)

 顔を洗い、自らの頬をぴしゃぴしゃと打ち付けた。ここは敵陣のまっただ中なのだ。気をゆるめてはいけない。今のこの状態、無防備な裸の状態で襲撃でもされれば、応戦することも出来ない。

 気を引き締めなければなるまい。

 省吾は湯船からあがると、脱衣所に人の気配がないことを確認してから浴室を出た。省吾が脱いだ服が消えており、代わりに着替えと手ぬぐいがきちんと畳まれた状態で棚の上にあった。ご丁寧に肌着まである。

 身体を拭き、義足をつけると女中が置いていったであろう服を広げる。濃紺の作務衣だった。下着ともども、裏表見て何かを仕込んでいるようなことがないか確認してから身に着ける。あつらえたかのように身体にぴったりと沿う。

 風呂場をでると、先ほどの女中が外で待っていた。夕食の準備が出来ました、と言うのに、省吾はなんと言っていいか分からず曖昧な口調でどうも、と返す。もと来た渡り廊下を辿り、先ほどの部屋まで戻ると、女中はごゆっくりと言ってどこぞへ消えた。さっきまで寝かされていた布団は片づけられ――扈蝶もどこぞへと消えている――部屋の中央にはちゃぶ台が据えられて、皿の上に握り飯が二個、ある。急須と湯飲みはそのままで、いつでも煎れられるような状態だ。

 省吾は座り込み、握り飯に手をつけて良いのか迷っていると、入り口側の障子がいきなり開いた。

「カラスの行水だな。随分と簡単な入浴だ」

 振り向かずとも工藤だということは分かった。あぐらをかいたまま、省吾はやや左足を後ろに引

き動ける体勢をつくった。

 工藤は何の構えも遠慮もなく、省吾の対面に座り込んだ。

「何で逃げなかった?」

 そう工藤が切り出した。

「何でとは」

「ここから湯殿まで行き、風呂に入って、そしてしてここに帰ってきてから。逃げようと思えばいくらでも逃げられただろう。特に風呂場までの渡り廊下。あんなむき出しの、いかにも逃げてくださいとばかりのフリーパスな状態。なのにお前、大人しくしていた」

「あの女がいたから」

「女中の一人くらいどうにかしようとは思わなかったのか?」

「ただの女中があんな隙のない佇まいなものか。それに」

 省吾はちらと庭の方を見た。

「その女中を振り切ったとしてもこの屋敷全体に嫌な気がした。どうせどこぞから監視できるようになっているんだろう」

 お前が逐一俺の行動をチェック出来たように。そういうと工藤は少しだけ驚いたような顔をした。

「逃げたとして、俺を屋敷から出さないぐらいの備えはある。そう感じたから、不服ではあるが従ったまで」

「その備えを、振り切って逃げるとは?

「そうするにはこちらの備えが少ないし、それに」

 ふと脳裏を、扈蝶の顔がよぎった。同時に連の顔も。だがすぐに首を振ってその残像をかき消した。どうかしている、あいつらのことを思い浮かべるなんて。

「どうやら馬鹿ではないようだ」

 工藤は二つある湯呑の一つを引き寄せ、茶を注ぐと酒でも飲むかのように一気にあおった。

「お前の連れから話を聞いた」

「連のことか」

 そういえばさっきいなかったな、と思いながら省吾は湯呑を引き寄せる。少なくとも茶には毒はないらしいということが分かったので、省吾は湯呑に茶をそそぎ入れた。

「《南辺》でのことを聞いた。以前南から来ていた隻脚の男がいたが、あの小僧がまさかそいつの下だったとは思わなかったが」

「小僧、って言ったか今」

「言ったが、それが?」

 ここで間違いを訂正すると、連は文句をつけるだろうか。そんなことを考え、省吾はとりあえず告げないことにした。

「いや何でもない。連が何か言ってたのか」

「何かってほどでもないがな。ただお前さんのことは聞いたぞ。何つったっけかな、監察官?」

 茶が喉に詰まった。激しくむせかえり、それでも吐き出さなかったことだけは評価してもらいたい。

「おいおい、汚すんじゃねえぞ」

「い、いや……っていうかあいつがそんな……」

 まあ確かに、ことこういう状況に至っては秘密にしておく必要もないのだが。それにしても口が軽いのではないか。

「その反応は、どうやらふかしじゃないってことだな」

 工藤はにんまりとうなずいた。

「噂では聞いてたんだが、監察官。都市伝説の類かと思っていたがいたんだな、本当に。国連の手先だってな? ってことはお前、難民でもなんでもないってことか」

「難民には変わりない」

 口元を拭き、省吾は湯飲みを置く。

「この街に渡る直前に声をかけられた。ある街に潜り込め、そうすれば生活の保証はしてやる。米ドルをちらつかされて。そう言われれば乗らない理由もなかった」

「潜り込んで、何かを探っていたのか」

「機械だ。存在してはいけない、戦闘機械。そいつがこの街で取引されていて、それが戦勝国で製造されているという証拠。そいつを掴めと言われた」

「そうか。ならばもう任務は完了だろう? 《東辺》のマフィアども、あんなにあからさまに機械どもを操ってんだから」

「状況が変わった。監察官を統括していた奴が殺され、俺たちも的にかけられている。今はもう、誰が何を訴えても無駄な状況だ」

 冷めた茶を飲みほした。

「あいつらは俺を探しているはず。監察官の残党を」

 工藤は思案するように腕を組んで言った。

「お前の話の通りならば、ここに東の連中が乗り込んでくるのも時間の問題ってわけだな」

「別に、俺が出て行けばいい話だ。今すぐにでもここを出て」

「そうはいかねえな」

 にっと工藤が歯を見せて笑う。悪巧みでもしているかのように。

「お前は一心無蓋流を名乗っている。が、あくまで一心無蓋流は、まあここ《北辺》じゃ俺のとこってことになっている。お前をこのまま出したんじゃ、人に笑われちまうことになる。一心無蓋流とは、あんなものかと」

 あんなものとは何だと抗議しかけるが、先の省吾の体たらくでは反論のしようもない。

「しかし、お前をただ置いておくんじゃ危機を招くだけ。じゃあどうする?」

「いやどうするって……それは」

 省吾が応えるより先に、工藤は握り飯が乗った皿を前に押し出した。

「食っとけ。毒だとかそんなのは入っていない。そいつを食って、今日は寝て、明日から鍛錬だ」

「鍛錬って」

「お前のだよ。一心無蓋流名乗る以上、中途半端じゃ困る。お前を、それなりに使えるレベルにはなってもらわにゃ」

「ちょっと待て、そんなこと俺が了承すると」

「もし逃げたりしたら」

と、工藤は立ち上がった。

「まあ、気づいた通り。ここはそう簡単には出られねえからな。大人しくしておいた方がいい」

 そう言われると省吾は何も言い返せなくなる。工藤は満足げな笑みを浮かべると部屋を出ようとした。

「あんた、連のこと」

それを省吾が呼び止める。

「何か?」

「連のこと、男だと思っていないか」

「違うっていうのか?」

「あいつ女だからな」

 工藤は特に興味もなさそうに、そうかとだけ答え部屋を後にした。工藤にとっては、連の性別などどうでもよいことなのだろう。

 ただ連は嫌がるだろう。人から聞いた話では、連は女を捨てたと公言しているらしい。女だとばらされることは、連にとっては屈辱かもしれない。

 だが奴も、勝手に人の正体を明かしたのだ。このぐらいのペナルティは受けてもらわなければ。


 結局布団で眠ることはなかった。壁に背をつけ、脚を折り畳んで座り込み、まどろむような眠りを繰り返しているうちに朝になった。部屋に誰かが入ってくる気配で目を開け、顔を上げると扈蝶が入り口に立っていた。

「真田さん? 寝ていなかったのですか?」

「いや、寝ていた」

 ただしそれほど深い眠りではない。だがこれで十分だ。

 扈蝶に向き直るが、しかしその扈蝶の格好に目が止まった。戦闘服やいつぞやの中華服ではなく、今の扈蝶は和服姿である。薄緑の布地に南天の柄が染め抜かれ、橙の帯を閉めている。

「何だ、その格好」

 省吾が訊くと、扈蝶はぱっと顔を綻ばせた。

「ああ、これですか?」

 柄をよく見せるためか、扈蝶は袖を翻した。

「この間から着させてもらっているんですよ。日本の伝統的な衣装ですよね? 柄が可愛いから気に入っているんですけど、どうです?」

「何だか動きにくそうだな」

「……まあ真田さんにその手のことを期待するのは酷かもしれないですね」

 扈蝶はいきなり不機嫌そうな顔をする。何のことだよ、と省吾は立ち上がった。扈蝶は小さくため息をついた。

「三浦さんが、朝食の準備が出来たので呼んでいます」

「誰って?」

「ああ、ここの女中さんです。この浴衣も、三浦さんに着付けてもらったんですよ」

 別に女中の名前などどうでも良かったが、省吾はともかく扈蝶についてゆくことにした。

連れてゆかれたのは最初に通された部屋だった。昨日とは違い、中央に長テーブルが据え付けられている。向こう側には梁が、そして手前には連が座っていた。

「眠れたかよ」

 省吾の姿を認めるなり、梁が口を開いた。

「おかげさまでな」

「そうは見えないが。まあいい、そこに座れよ」

 梁が、連の隣を指し示す。一人分の食事が並んでいた。飯と汁物、そして焼き魚と漬け物。シンプルだが、こんな街では絶対に拝めないであろう食事。

促されるままに座ったとたん、省吾は隣にいる連の格好に気づく。

「何だか面白い格好しているな」

「白々しい」

 連はうすら赤い顔をして、恨みたっぷりというようににらみつけてくる。扈蝶と同じような浴衣姿であった。白地に藍色の染料で菖蒲の花を染め抜いている。扈蝶のような派手さはないが、やはり成海という街には馴染まない衣服である。

「連も、三浦さんに着付けてもらったんですよ。もっと可愛い柄もあったのに、地味なものしか着たくないって頑なに拒否したんですよ。もったいないですね」

 扈蝶はからかうような口調で梁の隣に座った。その、三浦とかいう女中が柔らかく微笑みながら四人分の茶を持って来た。

「女は捨てたんじゃないのか」

 箸をつけるか迷ったが、梁や扈蝶が問題なく食べているので、省吾も食べることとした。最初の一口はそれでも少量を口に含み、毒見はしたものの。

「あなたのせいでしょう、あなたの」

 連は袖がまとわりつくのが慣れないらしく、しきりに袖下をめくっている。

「俺のせいとは」

「私が、その、女だと吹聴して回ったんでしょう昨日。それで朝起きたら何を着るのか、これが似合うだとか色々押しつけられて。しかも派手なものばかり。髪までセットされて」

 言われてみれば、連の髪型はいつもと違う。いつもフードをかぶっているからまじまじと見たことはないが、昨日までは髪は伸ばしっぱなしで何も手入れなどはしていなかった。だが今はちゃんと櫛を入れて、髪をまとめている。ゴムの髪留めには控えめな花飾りまであしらわれている。

「人のことをべらべらしゃべるからだ」

「それは必要な情報を言ったまでです」

「ならば俺も必要な情報を言っただけだ。男女の別は大事だろう」

「だからって何でこんな動きにくい服を」

「別にいいだろうよ、なかなか似合っているし」

「いつからそんな気の利いた皮肉を吐けるようになったんですか」

  連は省吾を一睨みし、とげとげしく言い放つ。その二人のやりとりを、何故か向かい側の扈蝶が刺すような視線で見据えているのに気づいた。

「何だよ、睨みつけて」

「……いえ、その子には言うんだなと」

「言う? 言うって何をだ」

「真田さん、まさかそっちの趣味じゃ」

「はあ? 何言ってんだお前」

「別に」

 憮然とした顔で扈蝶は湯呑みに口を付ける、その傍らで梁がため息をついた。

「真田よ」

 やがて梁、箸を置いて言った。

「工藤さんから言づてだ。食い終わったら道場に来いとな」

「工藤? ああ」

 そういえば今朝から工藤の姿を見ていないことに気づく。

「鍛錬がどうとか言っていたが」

「ここでの稽古、お前が耐えられないとは思わないが、それなりに覚悟はしておいた方がいいかもしれないな」

「何だよ気持ち悪いな」

 気がつけば飯をすべて平らげていた。あまり味わうこともなく食い終えてしまったが、腹は満たされた。

 ついてこいと梁が言うのに、省吾は席を立った。

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