第二十章:13
範首央は『OROCHI』にいたことがある――と省吾はトラックの荷台の上で聞かされた。
「そいつが何で《北辺》に」
「覚えていますか? 金大人が単独、《北辺》に行ったときのこと」
金の名が出たとき、連の肩がぴくりと反応した。しかしそれだけで、会話に参加しようとはしなかった。
「行方不明になって、機械の脚をくっつけて戻ってきた――」
「そのとき捜索隊に抜擢されたのが範首央で、そして今回私が《北辺》に派遣されるとなったとき水先案内人をしてもらったんですよ。お陰で目的も果たせました」
その範首央が今、トラックを運転している。隣の席には工藤が座っており、二人して何事か離しているのが見える。が、会話の内容は聞こえない。
「目的というのはあれか、あの工藤とかいう」
「金大人からの情報で、《北辺》には日本系難民の勢力があると聞いていました。その勢力に接触し、今度こそ協力をあおぎ、《東辺》に対抗しようとしたのですが……」
扈蝶の顔が曇った。どうやら西と南の騒動は訊いているようだ。省吾はそれ以上何かを言うのをやめた。
トラックは砂利道を走っていたので上下の揺れが激しい。だがその揺れも、段々と少なくなってゆく。道を見れば、完璧と言えないまでも整備されていた。
それに伴い背の高い建物も増えてくる。バラックは相変わらず多いが、《南辺》にあったような過密した集合住宅や、ほとんど破壊されていない商用ビルの抜け殻が点在し、道沿いには少数だが露店が並んでいる。先ほどの、明らかに何もない場所とは違い、こちらはかすかでも生活の基盤がある「街」という感じがする。
「あの男は何者だ」
省吾がそう切り出すのに、扈蝶は聞き返した。
「あの男って、工藤さんですか」
「そうだよ、他にいるか。《北辺》を取り仕切っているのか。いつからここにいて、どれだけの勢力なんだ」
「私もそこまで詳しくはないのです。まだこちらは日が浅いので。けれどもどうも、この街ができる前からいらっしゃるようで」
「何で戦前に日本人がいるんだよ、こんなところに」
「その辺りの経緯は聞いたことがないです。今から工藤さんの屋敷に行くようなのでそこで聞いてみますか」
「屋敷?」
この街では耳慣れない言葉だ。そのときトラックが街を抜け、再び砂利道に抜けた。そのまま走っていると、建物の代わりに樹木が多くなってくる。大小の木々が数を増やし、いつの間にか並木道のようなところにさしかかった。その道の先には小高い丘があり、その丘全体に木々が密集している。ちょっとした森のようになっていた。
「《北辺》、第一七区画」
扈蝶が言った。
「成海市の境界です」
《南辺》と《西辺》の分け方は、第一ブロック、第二ブロックと呼ぶ。《東辺》も、おそらくは同じ分け方だろう。
ただ、《北辺》は単なる放棄地区にすぎなかったので区画分けなどなされるはずもない。それを、西や南と同じように区画に分けたのが、先の男――工藤善哉であるらしい。
一七区画に分けられたうちの最奥部は、人の気配の感じられない森が広がっている。そこにやや平地よりも高くそびえる丘がある。今は、雪が覆い尽くした枯れ木が密集するそこは、葉が芽吹けばそれなりの森になるのだろう。
その森の中心部に、不自然な建造物が建っている。
「着きやしたぜ」
トラックが止まると、運転席から降りた範首央が声をかける。扈蝶に続いて連、最後に省吾が降りた。
目の前には家屋がそびえていた。瓦葺き、木造の壁の古い造りの家屋。玄関口まで石畳が敷き詰められ、母屋と離れ、蔵がそれぞれ建っていた。古い時代の日本家屋だ。省吾はこんな形の建物を、写真か何かでしか見たことがない。
「何か、ずいぶん、その……豪華、ですね」
連も戸惑っているようだ。この街で目にするものと言えば、建物と建物が密接したような集合住宅と、環境破壊など度外視した排煙を立ち上らせる工場、やたらと毒々しいネオンサインの酒場か売春宿や、あとは廃墟かバラック、その程度でしかない。こういう、家屋らしい家屋は目にすることなどない。もしこんな家が《南辺》に建っていたら、たちまち標的にされるだろう。
「まあ、とりあえず入れ」
工藤は短くいうと、さっさと家に引っ込んでしまった。省吾と連は顔を見合わせたが、扈蝶にも促され、結局家に入った。
格子の引き戸の玄関をくぐり、靴を脱いで上がり込む。すぐに和服を着た女が出てきて、どうぞこちらへと省吾たちを誘導する。長い廊下を歩き、奥の部屋に通される。襖をあけると一面畳張りの広間が広がっていた。
「しばらくお待ちください」
女はそう言って襖を閉める。その襖も、金糸が織り込まれた豪奢な造りだ。畳も、紛い物ではなく本物のい草を使っている。
「こいつはどういうことだ」
省吾は部屋を見渡した。天井は上等の檜材である。欄間の格子は細かい装飾となっており、その細工の見事さは見る目のない省吾でさえも素晴らしいと感じさせるものだった。
「ここは《北辺》なんだよな?」
「そうですよ」
扈蝶は壁側に正座して言った。
「俺の中では、《北辺》というところはバラック街ってイメージだったけど」
「あってますよ、それで」
正座したはいいが、扈蝶は時折膝をすりあわせたり、足首をさすったりして落ち着かない。正座に慣れていないのだろう。無理をしないで脚を崩せばいいのに、と思った。今の省吾のように、遠慮など欠片もなく胡座をかいて。
そのとき廊下をどたどたと走ってくる音がした。足音は近づいてきて、やがて襖の前で止まった。工藤が来たのかと思い、省吾は襖の方を注視する。
襖が開けられた、その先には意外な人物がいた。
「南から逃げてきたっていうから、どんな吠え面かいてきたかと思えばお前か、『疵面』」
たっぷり一〇秒はその人物を眺めていただろう。顔の左半面に刻み込まれた牙の入れ墨が、かつての彼の異名の由来。《南辺》の支配者の、忠実な右腕であり、そして雪久と彰の仲間だったというその男――。
「……宮元? 宮本か、お前。なんでこんなところに」
「そいつは俺も聞きたいな、真田省吾。どういう経緯でここに逃げてきたのか」
宮元梁は尋問するような口調で言う。
「あの男に聞けよ、工藤とかいう。成り行きでこんなところに来たが、お前あいつの何なんだ」
「何って、別に。俺は工藤さんのところに世話になってはいるが」
「あのあと行くところもなくて、《北辺》に逃げ込んだというわけか。お前こそ吠え面かいている」
雪久や彰と違って、省吾は梁とは最初から敵として相まみえ、味方になりきらないまま別れたのだ。だから遠慮する気などない。
「あ、あの」
険悪になりそうな空気を振り払うように、扈蝶が割って入った。
「お二人は、どういう……」
「前に話しただろう、雪久らと南で一戦ぶったって。そのときのな」
梁は扈蝶の方を見ずに言った。どうやらここに至る経緯はすでに伝えてあるようだ。
「まあ、お前の言うとおりだ、真田省吾。俺は結局、あそこから逃げてきたのだからな。今のお前と同じ負け犬。だからそのことをどうこう言うつもりはない」
「一緒にするなよ、お前と」
「しかしどこか違うところなどあるまい?」
梁がそういうのに、省吾は黙るしかなかった。
「最初は特にあてなどなかった」
梁は壁に寄りかかるようにして座る。扈蝶に比べれば、ある程度この家に慣れているかのような所作である。
「《南辺》に留まっていられない、が《西辺》は『黄龍』が押さえている。レイチェル・リーとは知らぬ仲ではないとはいえ、《南辺》で青豹なんぞに手を貸していた俺が《西辺》にいけるはずも無かった。必然、北に流れるしかなかったわけだが、そこで俺はあの人に拾われた」
「拾ったとは妙なことを」
「実際そうだったからな。《北辺》の破落戸に絡まれて、やむなく降りかかる火の粉を払ったんだが。そこで工藤さんに、道場に来いと言われたんだ」
「道場といったか今」
「一応な、俺はここでは師範代ということになっている」
「何か教えているとでも?」
「そうだな、武術もそう。兵法も、銃の撃ち方も、都市ゲリラも――ともかく色々だ。ここでは
特に、そういう技術を《北辺》の連中に教えているらしい」
「拳法か、柔か? ここで教えているっていうのは。流派はあるのか」
「ああ、でもお前も知っている流派だぞ。そう言えば、お前からしてみれば同門ということになるな」
「同門? 俺のか?」
「ああ、だって前に聞いた話じゃ、お前はその、何と言ったか」
「一心無蓋流柔拳法」
声が響いた。声と同時に襖が開いた。その先には工藤が立っている。華奢な体格の割にはよく通る声だった。
「何だ何だ、もう来たのか、宮元。あとで対面させるつもりだったんだが」
工藤は部屋に入ると、上座の方に腰を下ろした。ちょうど省吾たちと対峙するような位置である。
「ま、いい。お前たちは初対面というわけでもないだろうから、説明は不要か。で、あんたがいつか宮元が喋っていた『疵面』だろう。話は聞いている、何でも南の蛇に腕の立つ奴が入ったって」
「別に俺は『OROCHI』じゃあない」
この男が変な勘違いを起こす前に、そこははっきり訂正してやる必要がある。
「奴らと一緒にいた期間はあったが、奴らとつるんでいたわけではない。そこを間違えるな」
そうだ、別に仲間だったわけではない。たまたま行動を同じくすることがあった、ただそれだけだ。
だから関係がない。奴らが、雪久や、彰や――ユジンが死んだことは、省吾には。何も。
「まあ、それはどうでもいいことだ」
工藤は肩をすくめた。
「この《北辺》に来た理由は、まあ聞かねえよ。想像つくからな。東の奴らが、西や南に攻め込んで来たってのは聞いているからな、扈蝶から。なあ」
扈蝶はその話を振られると、下を向いてしまった。あまり触れてほしくはないのだろう。
「お前さんの立ち会い、ちょっとだけ見ていたが、まあ確かに使える方だな。剣か、柔術か。いずれにしても、お前みたいなのを野放しには出来ない。だからこっちに来てもらったんだが」
「降りかかった火の粉を払ったまでだ」
工藤の意図などどうでも良い。それよりも確認すべきことがあった。
「あんた、さっき一心無蓋流と」
「ん、ああそれな」
工藤はちらりと梁の方を見てから言った。
「一応、ここで掲げている看板だ。別に由緒正しいわけでもないが、一心無蓋流柔拳法、それがここの連中に教えている武術。母体は柔なんだが、拳法も含んでいるからな、宮元にその辺りを教えさせている。古流に加えて――」
「古流に加えて、近代格闘術と、戦場技術を合わせ、柔術拳法をベースに組み上げた総合武術」
省吾が工藤の言を遮った。工藤は不思議そうに眉をひそめた。
「何だ、知っているのか?」
「知っているも何も。俺が修めているのも同じなんだがな。一心無蓋流柔拳法」
工藤の顔が、やや険しさを帯びた。
「そりゃ妙な話だな。言ってて悲しくはなるが、そんなに普及しているはずもなし」
「ああ、妙な話だ」
おそらく、省吾の顔も相当に険しいものになってきているのだろう。脳裏に浮かぶのは、かつての師の姿。その師と、目の前の男はどうしても結びつかない。
「一心無蓋流、俺の師が始めたものだ。先生が俺に教えた全てのものを、一括りにしてそう名乗っただけ。他に教わった者などいないのに、どうしてお前たちがそれを?」
「お前の師匠とやらは、俺は知らんが……」
顎に手を当て、工藤はなにやら考えていた。やがて顔を上げて言う。
「ちょっとお前さん、道場まで面貸しな」