第二十章:8
積み荷は何か、と兵士二人の声がした。
「ああ、鉄屑だ」
「鉄屑とは何だ」
「北にいきゃ、こんなもんでも金になるんだよ。だからよ」
トラックの運転手ののんびりした声と、兵士の緊迫した口調がやりとりしている。それを聞きながら連は暗がりで息を潜める。あえて、何をそんなに気にしているのか分からないという口ぶりの運転手、全て心得てのことだから何もない風を装う。
連は身を縮めながら、両手に峨嵋刺を抜いている。だがそれも気休めみたいなものだ。この暗闇が上から取り払われ、光が射し込めば一巻の終わり。奴らはギャングどもとは違う、本物の兵士。そんな奴らに、こんな小さな暗器の一つや二つでどうにかできるかと言えば、厳しいだろう。
「とにかく荷を改める」
兵士の声がした。連の心臓が一気に跳ね上がった。
近づいてくる、足音がする。峨嵋刺をいよいよもって握りしめる。
膜を払う音。
「本当に鉄屑だけか」
一瞬おいて、兵士の声。さっきのとは別の声だ。連は変わらず暗がりにいて、その二種類の声がなにやらやりとりしているのを訊いた。どうも英語ではなく、ドイツ語のようである。内容は聞き取れないが、もっとよく探せとか何か言っていないだろうか、あるいはトラックごと押収するとかじゃないだろうな、などと考えるほどに不安になる。
「いいぞ、行って」
だから兵士が運転手にそう言ったときには心底ほっとした。といっても、安堵の声が外に漏れてはいけないので変わらず気配は殺したままであった。
そのままトラックは走り、やがてごとごとと車体が上下に揺れるようになった。舗装された路が砂利道に入ったのだろう。
やがて車が止まった。
「おうい、出ていいぞ」
運転手が声をかける。連は頭上を圧迫していた板を取っ払い、鉄屑をかき分け、最後にビニールの膜を取っ払った。
「ここはもう《北辺》ですか?」
「んだな。まあまだ入り口だけんどよ、あの連中もまだここらにまでは来てねえからな」
「三度ともうまく切り抜けられて良かったです」
「逃がし屋なんてやってると、だいたいの要領は掴めてくるわな。まあ今回はあんたの依頼が急だったから、こんなもんしか用意できなかったけどよ」
と男はトラックの車体を叩いた。荷台は二重構造になっており、荷を積んだその下に隠れるためのスペースがある。そこに身を隠してやり過ごしたのだが、見る目のある者だと二重構造を見抜く可能性もある。目の粗い策だった。
「あなたの準備が整うまで《南辺》に留まっていては、こちらに捜索の手が回る。急なお願いを、唯一聞いてくれたのがあなたでした」
「まあ、わしとてお前さんの連れが持っている札がなきゃ動かなかったさ。それで、その連れはどうだい?」
「そうでしたっけね……真田さん」
連が声をかけると、荷台の底からもう一人頭をもたげた。
「どこだここは」
薄暗い場所からいきなり明るいところに出たものだから、眩しくて仕方がない。省吾は目を眇めた。
「北ですよ」
「北? 北って、《北辺》……」
「私、説明しませんでしたっけ」
連は盛大なため息をついた。
「もう、あとで説明しますから。とりあえず真田さん、例のを」
連は手を出した。具体的に省吾の懐を指さしている。言われるまま省吾は、胸ポケットに詰め込んだ札束を取り出す。
省吾が差し出す米ドル紙幣を、連は男に渡した。
「こいつがなきゃ」
男はほくほく顔で札を数え、最後の一枚を指で弾く。
「こんな危険なことはしねっからな」
「そうでしょうね」
連は同意するともしないともいえない口調で言った。
男はトラックに乗り込むとそのままもと来た道を帰って行った。そのトラックを見送り、完全に見えなくなったあたりで連が促してきた。
「さて、行きますか」
「行くってどこに」
「あてなんてありません」
わずかな荷物の入った袋を連は担ぎ上げていった。
「ただ離れるだけです」
砂の平野が広がっている。
放棄地区ですら、廃墟や瓦礫の山が散在していたというのに、ここには何もない。時折、戦時中のものと思われる戦車の残骸が転がってはいたものの、建物らしきものは遠くに点在するばかり。背後に《西辺》の建物群、これから向かう先には背の高い建物は見当たらない。
「米ドルなんていつ手に入れたのですか」
連が先頭に立って歩き、歩きながらそう訊いてきた。省吾は最初、何のことを言われているのか分からなかった。
「ああ?」
「とぼけないでください。あなたの手持ちがなければここにはこれなかったのだから、けちをつけるつもりはないのですが。しかしただの難民が米ドルを持っているはずがない。私たちですら、取引は単なる軍票、あるいは銀を使っていたというのに」
取引とは何のことか分からなかったが、どうせ薬のことだろう、と思った。それを追求する気にはならなかったので黙って聞き流したが。
「別に、手持ちはあれが最後だ。この街に来る前にたまたま持っていた分、ただそれだけのことだが」
「そうは思えませんけれども。あれだけの金があって、難民狩りに遭えば白人どもに奪られるのは必至。あれは最近手に入れたものではありませんか? そうでなければあれだけの大金、どうして今まで後生大事に持っていたのですか。あれだけあれば、すぐにでもこの街を出ることだって出来なくはなかったはず。それを」
「けちはつけないんじゃなかったのか」
言うと、連は黙った。大いに不服そうな顔をして。二人してそのまま黙って歩いたが、しばらくして今度は省吾の方から口を開いた。
「あの機械ども、何故俺たちを狙っているのか分かるか」
「さあ、ギャングが邪魔になったのでしょう。そんなこと分かりませんよ、どうせマフィアの差し金でしょうが」
「たかがギャングに兵を割くと思うか?」
たかがギャング、という物言いに連は不満そうであったが、しかし言い返すことはなかった。しばらく考えるように黙り、ややあって遠慮がちに口にした。
「我々、というよりもあなたが、機械を倒したから。それで」
「それもある。しかし大きな理由は、俺が国連の犬だからだろう」
「国連? 何故そこで国連が出てくるのですか」
いきなり聞き慣れない単語が出てきたから、連は驚いたようだった。
「あのマフィアの連中が、国連と癒着しているのは明白だ。この街だけでなく、特区にああいう連中が蔓延っていられるのもそういうことだ。戦勝国の政府ども、地元のギャング、そして国連。難民保護のためといいつつも、特区のほとんどはそういう状態だ」
歩いていると、乗りつぶされた装甲車がそのまま放置してあった。車体の半分がつぶれているそれは、もう長いことそのままだったのだろう。錆びた車体は、そのまま土に還りそうなほどに朽ちている。
「特区の、そういう状況にメスを入れるがために監察官は生まれた。国連事務総長直属の、特区監察部。そこから派遣された連中の手足となって、俺はこの街の状況を逐一報告していた。あの米ドルはその報酬ってわけだ。俺の一挙手一投足は監視されていたから、当然この街を出る自由なんてない」
このことを人に話すということも本来は許されないことだ。禁を破ったエージェントは、しゃべった相手ごと始末されるだろう。
だからエージェントは--この街に潜入している誰もが、難民とは一線を引いている。
「……それを信用しろと言うのですか」
連は疑いの目を向ける。無理もないことだろう、ストリートにたむろする難民やギャングどもの範疇を越えた話だ。連からすれば、省吾もそういううちの一人であったという認識であったはずだろう。
「別に信じなくてもいい。どうせもう、どうでもいいことだ」
やや捨て鉢な言い方になってしまったのは、仕方のないことだろう。
「どうでも……」
歩けば、やがて掘っ建て小屋のようなバラックが、一つ二つ現れてくる。トタン板を組み合わせたもの、ただ布を吊っているだけのもの。そんなものがぽつぽつと現れ、やがてその数は徐々に増えてゆく。やはり背の高い建物はなく、遠くにわずかにかすむ程度である。
砂の煙が舞っていた。通りを誰も彼もがボロ切れのような服を纏いけだるそうにうなだれて歩いている。《南辺》ではそれでもまだ、難民たちにも人の精気はあった。ここにいる者たちは死人が歩いている風にしか見えない。
《北辺》。成海市の内陸側に位置するこの場所には無気力ばかりが漂う。周辺の二つ三つの街が集合して無理矢理一つの都市に仕立て上げられたこのちぐはぐな街には、隙間のような場所がいくつも生まれた。それらは特別な呼称などなく、放棄地区と呼ばれる。
だが、数ある放棄地区の中でも最大の面積を有する場所が、ちょうど《南辺》と呼ばれる界隈の対極に位置していた。その場所はいつしか《南辺》と対となる《北辺》という名で呼ばれるようになった。ここに住むものは、主に《南辺》や《西辺》から逃げてきたもの。さらには成海の外からも難民たちが押し掛けてくるようになったという--省吾が事前に聞いた、北辺に関するすべての情報である。
もともとこんなところに来るつもりなど無かったし、監察官たちもこの領域は監視対象には入っていなかった。西や南のギャングたちもここをどうにかするという考えはなかったらしく、誰もこの《北辺》に見向きもしない。成海に入り込んで来ている欧米の資本も、ただの放棄地区に再開発を持ち込むつもりもなく、この場所は毒にも薬にもならないという評価しか下さなかった。年に2、3度来る国連の支援物資のみがこの場所に融通されるのみで、ここに住まうものはただ死を待つのみであると。省吾のこの場所に対する評価は、概ね成海市に住まう者の総意だろう。
「私も、初めて来ますが……」
フードの奧で連が顔をしかめているのが分かる。そういえば先ほどから糞尿のような悪臭が漂っている。南辺よりもさらに衛生環境など悪いだろう、何が垂れ流されているか分かったものではない。
「想像以上ですね。金大人は本当にここに来ていたのでしょうか」
バラックの合間合間を歩いていると、通行人たちの視線が突き刺さる。北の住人にとって、《南辺》から来たものは目立つのだろう。彼らから見れば今の二人もそれなりに身綺麗に見えるのか、何か集団で見張られているような心地にさせられる。
「少し、急ぎますか」
連が足を早めた。何かに急いでいるのではなく、居心地が悪いのだろう。連が歩くのに、省吾の足もまた早くなる。バラックの軒は、さらに数を増やし、それだけ人の数も増えてくる。刺さる視線を気にしないそぶりで、何の気にもとめないように装う。
少し歩けば、バラックに混じって土壁の廃墟も見えて来た。ここもかつては市街地が存在したことを伺わせるが、《南辺》界隈の廃墟よりも建物の損傷が激しい。倒壊のリスクを考えると中に入るのをためらうほどであったが、それでも連は廃墟の一つに飛び込んだ。省吾もそれにならう。
「あの連中、夜になったら襲ってくるかもしれませんね」
連は緊張を隠せない面もちであった。それでも少しだけ安堵の色が滲んで見えるのは、見通しのよすぎるバラック街よりは廃ビルに飛び込んだ方がまだ身を隠せるからか。《南辺》の人間は、とかく廃墟に身を隠したがる。
「《北辺》なんて難民キャンプ紛いが転がっているだけと聞いていましたが、思いの外居心地が悪いものですね。金大人はこんなところにも足を運んだというのですから、全く考えられない」
「それより、連」
省吾が訊くのに、連は外を警戒しながら答えた。
「何でここに来たのか、と。もしかしてそう訊きたいのでしょうか?」
「分かっているならば答えてもらおうか」
「一応、あなたにも説明したと思いますけどね。《南辺》に留まっていれば危険だということ。あそこにいれば残党狩りに遭う。そしてあなたの言うことが正しければ、その、監察官とやらの生き残りであるあなたを狙ってくるはず」
「それは、俺を連れてきた理由にはならない。何故俺を連れてきた」
「それは」
連が向き直った。フードの奧で、青い目が見据えていた。今日初めて、まともに顔を合わせた気がした。
「それは、あなたがあの場所にいたから。今のところ、生き残りを確認出来たのはあなただけでしたから」
「逃げるだけならばお前一人でも良かったものを」
「何ですか? もしかして迷惑だったとか言うのですか?」
やや強い口調で連は問いつめてくる。省吾はそれには答えなかった。
連は嘆息し、再び外に目をやった。
「それと、個人的に気になっているのは、ここから金大人があの義足と、装甲車両を引っ張ってきたということ。何もない場所と思っていましたし、今でもそう思っていますが」
「何かあるとでも思ったのか? こんな荒れ野に」
「しかし、その荒れ野から武器を持ち込んできたことは確かです」
確かに、と省吾は口にはしなかったもののそう思った。
何もない荒れ野。
朽ちるだけのバラック街。
そんな中であっても、金は少なからず道を示したのだ。
だが。
「まあ、適当に探せばいい」
だが、今の省吾にはそれを探す理由が見あたらない。
「なんか、さっきから投げやりですね。ここに来たときから、あなた随分」
今までにないほど、連はきつい口調で言った。
「そう見えるか」
「見えます。あなたとて、仲間を殺され、自らも傷ついて、《東辺》やマフィアに恨みを抱いているでしょう。それなのに、どうも他人事として片づけようとしているようにしか」
「それは、まあ……」
感触がよみがえった。両の手のひらに、い感触が。ユジンが流した血をすくい上げた時の熱さと、こぼれ落ちたはらわたを拾い上げた時の重さと、それらをかき消していった雪の冷たさを。
それらが冷めてゆくにつれて薄れていった我がの感情を。
「ユジンさんのことはお気の毒です。だけどそれはあなただけのことではないのですよ。私とて、恩人を亡くし、友が果てるのを目の当たりにしているのです。あなたの気持ちをくみ取るには、私はまだまだ未熟なのでしょうけど。それでもあなた一人が特別なわけでは」
「何が分かるんだ」
無意識に口をついた言葉の前に、連は押し黙った。自分でも驚くほど、強い言葉だった。
「最初から、この街で暮らして。南で仲良くやっていたお前に、俺の何が」
「……どういう意味ですか」
「別に」
こいつに当たっても仕方がないだろう――そう言い聞かせる。自分の感情のやり場がないからといって、それを人に向けたとしても。その結果を招いたのは紛れもなく自分自身なのだから。
連はそれ以上追及することなく、ため息をついた。
「とりあえず、身を落ち着けられるところを探してきます。ここでは少し心もとない」
そう言った後は早かった。持ち前の素早さでもって、連は廃墟から出て行った。
その後ろ姿を、省吾は見送った。随分小さい背中だと思った。無理もない、まだ幼い少女でしかないのだ、連は。それなのに過酷なこの街の運命を背負っている。年端も行かない子供とは、この街の誰も見なしてはくれない。
石を拾い上げた。ぶつけようもない気持ちを、コンクリートの壁に投げつける。壁の一部が崩れるほど思いきり投げてみても、全く気は晴れない。
そしてこの先何をしても、この気持ちは晴れることはないだろう。