第二十章:7
「少し不可解です」
マリアがそう言ったとき、佐間が帯を締め直している時だった。
「何がだ」
マリアは、いつもの軽装である。麻のズボン、綿のシャツ、足下は裸足。カポエリスタは大地を足で掴むのだから、靴は要らないのだという。
「あの男、韓留賢という」
「確かに腕が立つのか立たないのか分からないな」
「それもありますが、何を考えているのか分からないところが。一体、本当には我々に協力的なのかどうか。ギャングどもに、寝返る可能性はないのですか」
「寝返り、裏切り、そういうリスクは常なるものだ。今更恐れることもない」
佐間は長着を端折ると袴を履いた。通常の馬乗り袴よりもヒダが二つほど少ない細身の袴。足蹴りをしやすい形だ。
「あの男が寝返るかどうか、お前が気を揉むのであれば当然あの女や皇帝もそれを考えているだろう。それを俺たちが知る由もないが」
「ですが、不審を抱いたままでは全体の動きも悪くなりかねません」
「俺たちにはチームワークなんてものは存在しない。個々に有用性を示すという目的があるだけで。協力して獲物を取るわけでも、連帯責任が発生するわけでもない。あの男一人がどうなろうとも、たとえ奴が裏切ることとなっても、全体に対して影響はない」
「そうですか……」
佐間が言うのにも、マリアはまだ不服そうな顔をしている。
「警戒する必要はあるだろうが、その警戒は別に奴に対してばかりじゃない。皇帝にも、あの女にも」
「麗花様に対しても、ですか?」
「敵じゃなくても味方ではない。あいつらが言ったとおりにするという保証はないだろうよ」
大体がこの攻撃自体がそうだ。有用性を確かめるといっても、その目的はレイチェル・リーと和馬雪久を始末することを優先され、彼らがいないとなれば再び彼らを殺すようにという命令が下った。治安の確保のためといいつつ、明らかにあの二人を殺したがっている。そしてそれを、治安維持部隊でなく、わざわざ機械たちにさせようとしている。
(治安維持部隊に始末させれば良いものを)
だが、それをするということはすなわち部隊の人間に情報を与えるということになる。まだ部隊、つまり国連側にも渡すわけにはゆかない情報ということだ、あの二人は。
殺すのは、あくまでも皇帝の手の内で。理由は分からないが、ともかくそういうことなのだろう。
「まあ、私は良いのですが。有用性を示せと言うけれども、こんな街は早く出たいものです。そのために、あの二人の首が必要というのであればそれを成すだけ」
マリアは闘技場の中央、開始線の上に立った。佐間も同じく開始線上、マリアと向き合う形になる。
開始の合図はない。いきなりマリアが突進してきた。
脚がうなる。マリアの右足が鞭となり佐間の顔面に伸びる。そのつま先が佐間の顔を弾く、よりも先に佐間が動く。一足飛びに後ろへ。
空を切る、マリアの蹴り。佐間はしゃがみ込んで蹴りを避け、避けるともに佐間は地を這う低空の蹴りを打つ。マリアの軸足を払う。
マリアがバランスを崩した。
佐間、立ち上がる。後ろ回し蹴りを打ち込んだ
しかし、届かず。
マリアが身を伏せる、横伏せ。そのまま身体を回転、立ち上がりざま回し蹴りを繰り出す。
合わせ、佐間が前蹴り。飛び上がりながら。
脚と脚が交錯。そのまま両者勢い弾かれた。互いに後方に飛ぶ。
すぐさま二人、距離を縮める。マリアの先制、上段蹴り。
ぎりぎりかわす。佐間が体を転回、背中側で蹴りをやり過ごす。その勢いのままさらに回り、回旋蹴り。それをかわされるとさらに裏拳。
マリアが下がった。すぐに佐間は追った。
いきなりマリアが飛び上がる。空中で回し蹴り、それを避けると今度はマリア、地に伏せたかと思うと逆立ちになり、長い脚を繰り出した。
眼前を通過する、褐色のつま先。避けられたと知るや、マリアは手を入れ替えてもう一度、左脚全体で打ち込む。
佐間は飛び込んだ。懐に入り、両足でマリアの胴体を挟み、空中で腰をひねる。
大きくバランスを崩し、マリアが地に倒れる。倒れたところマリアの喉元に貫手。指先で軽く触れた。
「もう一度っ」
佐間は立ち上がるとそう声をかける。マリアはムキになってつっこんで来た。
飛び込む。人ならば三歩の距離を跳躍、右脚を叩きつける。
かわす。佐間が半歩下がり蹴りをはずす。
マリア、空中で身を転回。左脚で蹴る。佐間の顔面に伸びる。
佐間が飛び込んだ。
一瞬、マリアの目の前からは佐間が消えたように見えた。だが次にはマリアの眼前に拳が伸びてくる。すわ、と感じたときには遅かった。佐間の拳がマリアの顔面を弾く。
マリアが地面に伏した、その瞬間に逆立ちになり脚を転回する。右脚で蹴り上げ、つま先が佐間の額をわずかに削る。佐間は思わずのけぞる。
立ち上がるとすぐマリアが仕掛ける。すさまじい勢いで連続の蹴りを見舞う。後ろ回し蹴りで体を回転させ、軸足で跳躍して跳び蹴る。脚が半月状の軌道を描く、佐間の着物の裾を切る。
佐間はそのすべてを見切り、かわしてゆく。佐間の身ぎりぎりを裸足の蹴りが過ぎり、いずれも決定打とならずに蹴りが空を切る。佐間が自身の体を回転させ、また佐間の体軸そのものが変化するのでマリアは狙いをつけにくい。徐々にマリアの表情に焦りが見えてくる。
蹴り込む、マリアの右足が縦の軌道を描く。
佐間が体を翻す。蹴りを背中側で流し、身を返しながら突きを放つ。マリアのわき腹に刺さった。
マリアが崩れた。すかさず佐間が回転蹴りを放った。左の蹴りがマリアの顔面を叩く。マリアの顔が弾かれる。
しかし、こらえる。マリアは倒れそうになるところを踏み留まり、回し蹴り。右の脚が空を切る。
佐間は身をのけぞらして蹴りをかわす。のけぞる勢いでその場で宙返り、両足でマリアの顔面を蹴り込む。両の踵がマリアの顎を捉えた。
今度こそマリアは後方に弾かれた。マリアが倒れると同時に、佐間は一回転して着地。そのまま残心を取る。
「どうした、もう終わりか」
佐間が声をかけるとマリアがむくりと起きあがった。
「女性の顔を足蹴にするなんてひどいです」
「お前が女だったとは知らなかったな」
マリアは恨めしそうに睨み、しかし落胆したように肩を落とした。
「やっぱり届きませんね、私の蹴りは」
「しかし、先ほどはこちらも危うかった。もう少し体を押し込まれていたらやられていたかもしれない」
と佐間は自らの額を指し示した。つま先がかすめた箇所は薄く切れている。
「少し休むか」
佐間が言うと、マリアが少しだけほっとしたような表情になった。壁際に座り込むとマリアは合成水のボトルに口を付けた。
水を飲みながら、マリアはしきりに顎に触れている。常人ならば骨格ごと砕ける一撃だったが、マリアの場合は軽い打撲で済んでいる。
(さすがに丈夫だな)
だがそれだけだ。クラスCは、肉体耐久度は常人のそれを凌駕しているものの、身体能力に関しては並の人間と変わらない。耐久度も性能も、人間の能力を越えた動きを目指すクローンシリーズからすれば、クラスCなどは半端な「失敗作」に過ぎないのだ。
しかし麗花はその失敗作をチームに加えた。役割は南のギャングの掃討であったが、マリアはその役目を果たした。佐間や、クラスAの王春栄は圧倒的な身体能力を生まれながらにして持っているが、マリアの場合、ギャングを蹴散らしたのは純粋にマリア自身の技能によるものだ。今も、佐間を相手に自らのスキルアップを計り、自らの力で遺伝的能力の差を埋めようとしている。
(あの女がマリアを加えたのは、こういうことなのか……)
クラスAやクラスBが生まれながらに有利なことには変わらない。だがマリアのような、すでに不利な立場のものも加えることで何かの効果を期待しているとすれば。
(うかうかしていられない、か)
額を押さえながら、そんなことを思う。今だってかなり危なかったのだから。遺伝的能力差など、果たしてどれほどのものか。それとも、マリア自身の学習能力が元々高いのだろう。マインドセットされた運動性能は決して不動のものではなく、学習して進化させることが出来るもの。それ
ならば、この稽古もまた意義のあるものだ。
「あの方は、《北辺》に派遣するということでしたが」
マリアは汗を拭きながらそう訊いてくる。
「《北辺》について私は詳しくはないのですが。あそこには何かそれほど無視の出来ない勢力がいるということですか」
「お前は先の襲撃では『STINGER』の遊撃隊を相手にしていただろうが、俺はあそこの長を相手にしていた」
「確か金とか呼ばれていた男……」
「その男が身につけていたのが、機械の脚だ。詳細は分からんが、その機械脚を《北辺》周辺で手に入れたらしい。何かの勢力といっても街のギャングの域を出ないものではあるだろうが、それでも外部とのつながりを持った何かが存在している可能性は高い」
「それで北に進撃するということですか。しかし今更機械が流れてこようと、そんなことはもはや問題とは思えませんが」
「それでも、表向きは違法なものだからな。難民が持つには過ぎた武器だ、取り締まるに越したことはない」
「我々のうち誰か一人が行けば事足りるのでは」
マリアはいかにも不服そうな顔をしている。
「というと?」
「《北辺》に何が居るか居ないか、それは分かりませんが、この街の主立った勢力は壊滅させたはず。レイチェル・リーと和馬雪久を討つのならばともかく、《北辺》を壊滅させるなど我々が出るまでもないでしょう」
「相手が機械化しているとしたら?」
「機械化していようとも、すでに我々の敵ではないはずです。旧機械の性能など我々のそれには及ばないはず、ならばそれこそ治安維持部隊を差し向ければ済む話では」
「性能の差が、そのまま戦力の差となるならばそれでも良いだろうが」
「そうではありませんか?」
「そう単純にことが進めば良いが、たとえ生身であってもこちらを脅かす可能性もあるということもある。機械はおろか、生身であってもその性能差を埋めるための術を持っているということも。お前のように」
自分のことを引き合いに出されるのはあまり気に入らないのか、マリアはあからさまに不機嫌そうな顔になる。
「私は生身ではありません」
「お前が奴らと同じだと言いたいのではない。生身の者であっても、その差を埋めようとしてくる者がいるということだ。絶対的な能力の差というものはもちろんあるが、それを縮めようとしてくる大ばか者がな」
「なにやら、ずいぶんと連中を買いかぶるのですね。あれほど完膚無きまでに叩いたというのに」
「むろん杞憂であればとは思うが」
だが佐間は、あの男--金とと対峙したとき、すでに力の差が歴然となっていても尚、向かってきた。無謀というか命知らずというか、あの男も機械脚は装備していたが他は生身。蹴りの一、二撃も入れれば戦意を喪失してもおかしくない状況だったにも関わらず、あの男は食い下がってきた。
そして、決定打ではないものの、佐間に一打届かせた。
「ああいう連中ほど、何をしでかすか分からない。『千里眼』、レイチェル・リー、そして監察官だという『疵面』もまだ見つかっていないのだろう」
「しかし、いくら食い下がるといっても所詮は生身で--」
「先天的要素を埋めるために、お前は今こうして稽古を重ねているのではないのか? だったら奴らも同じことを考えるだろう。生身と機械での差は比べるまでもないが、だからといって見くびりすぎるのもどうか」
佐間の物言いは、マリアにとってあまり愉快なものではなかったようだった。納得のゆかない様を、ありありとその顔に表している。
「あなたがそういうのであれば」
しかし、それ以上意見することはなかった。
「注意することとします。確かに慎重になるに越したことはありませんから」
果たして本気でそう思っているのかどうか分からない不満顔であったが、だがそこで議論をしても仕方がない。
マリアが開始線に立ち言った。
「もう一手、お願いします」
そう言うのに、佐間もまた立ち上がり、マリアと対峙した。