第二十章:5
隠れ家と言っても、特別何か仕掛けがあるわけではない。元々は空き家を改造したものであり、食糧と少々の武器を備えている以外は、単なる廃墟であるに過ぎない。
第6ブロックの片隅、通りから離れた場所でさらに廃墟自体も入り組んだ構造体の中にあるから
人目には付かない。ただ人目に付かないというだけであって、こんなところは攻め込もうと思えばいくらでも攻め入る余地はある。
レイチェルは今後のことを考える。こことて残党狩りの連中に見つからない保証はない。長いことここに留まってはいられないし、そのためには劉剣は、悪いが足手まといになるだろう。
だが足手まといといえば、舞や孫龍福だってそうなってしまう。いざというときに戦えなければ、あの二人を守りながら戦うと言うことになる。果たしてこの先、彼らを守ることが出来るだろうか。組織というものがあれば、まだそれも可能だった。今はただの根無し草だ、守る術もなく、己の身を案ずるのに精一杯では。
と、その時。隣の部屋から何やら金属をすりあわすような音が聞こえてきた。
隣は舞にあてがった部屋だ。よく聞けばそれは刃物を研ぐときの音のようだ。気になって覗いてみれば、舞は砥石に向き合って刀を押し当てていた。
その刀には見覚えがあった。
「真田のものか、それは」
レイチェルが声をかけるに、舞はこちらに気づき手を止めた。
「すみません、うるさくしてしまって」
「いや良いんだけれども。それよりその刀」
「ええ、正確には真田さんのもの、というわけではないのですが」
そういえばいつか聞いたことがある。省吾が”焔月”と呼ぶその刀は、省吾が正式な所有者ではなく、その所有権は舞にあるらしい。どういう経緯でそうなったのか分からないが、とにかくそうだということだ。
「何とか持ち出せました。真田さん、今頃どこにいるのか分かりませんが」
舞は刃の状態を見ながら、少しずつ研いでゆく。慣れた手つきだ。昨日今日覚えたものではない。
「いつから、そんなことを?」
「昔、故郷にいた頃にです。父と兄が稽古をするときに使う、鎌や短剣を手入れするのは私の仕事でしたから。研ぎそのものは父に教わりました」
「稽古に刃物を使うのか?」
「ええ、時折真剣を使って稽古をしていましたよ。真剣の刃を挽いて切れ味を落として、釵やトンファー、もしくは全くの徒手で刃物の相手を制するのです。得物同士でぶつけ合うので、刃が保たなくて刃こぼれしてしまうことが多々あったので、こんな風に研いでやらなければいけなかったのです」
舞の手には刀、その傍らには中華拵えの剣がある。剣穂が異様に長い、長穂剣だ。確か孔兄妹の片割れ、孔飛慈が持っていたものだ。レイチェルは、時折雪久が一人でその剣を振り回して稽古していたのを見たことがあった。
「その剣も手入れするつもりか?」
「雪久が何故か、この剣を手放そうとしなかったので。どうせならばこちらも手入れしようと思いました。少しでも武器があった方が良いでしょうし」
「しかし、刀剣の類があの表の奴らに通用するかどうか」
「それでも、機械と戦うのでしたら、むしろこちらの方が扱えるでしょう。あのときの兄妹のように、白兵戦を仕掛けるタイプが主だとしたら」
さも当然のように舞は言ってのけるが、少なくともレイチェルは驚いた。
「機械と交えることを考えているのか」
「私は戦うことは出来ませんし、戦いのことなどなにも分かりません。けれども東の、『マフィア』でしたっけ? その彼らが機械をぶつけてきているのであれば、彼らに立ち向かえばまた『マフィア』は機械を差し向けることでしょう。そうなったときには、銃よりもこちらの方がまだ役に立ちます。こんな状況ですけど、まだ終わったわけでもないので」
舞は刃を返して切っ先を翳して見る。刀のことは、レイチェルはよく分からない。分からないが、よく研げていると感じた。
「お前はもう、戦うことを考えていたのだな」
「いえ、私は戦えませんから、せめてこういうことでもしないと」
「いや、戦っているよ」
たとえ銃を取り、刃を手にしないとしても。戦いに関わる以上は彼の人は戦人なのだ。補給するもの、修復するもの、治すもの。戦争に向かうには、あまりにも多くの補助するものがいて、彼らがいなければ戦うことはできない。
孫龍福は実際に、劉剣を治した。舞は次なる戦いに備えて刃を研ぐ。これらは戦いのためだ。舞も、孫龍福も戦っている。彼らは守るべき存在だ。守らなければ、レイチェルは戦うことも出来ない。
それを自分は、あたかも彼らを足手まといかのように考えてーー
「悪かったよ、舞」
「何がですか?」
いきなり謝られても、舞の方では訳が分からないだろう。だがレイチェルはそう言わざるを得なかった。
「お前たち二人を、侮っていた」
考えてみればこの少女、金を説得し『OROCHI』との同盟関係に持っていった実績があるのだ。直接的な戦力でなかったとして、それがどうしたというのだ。我が身可愛さに、彼女を足手まといなどとのたまう自分は、周りが見えていない。
「えっと、話が見えないのですが」
舞はきょとんとした表情で眺めている。
「いや、こちらの話だ。そう気にしなくても良い」
「はあ、そうですか」
レイチェルの物言いにますます釈然としない顔のまま、舞は研ぎの作業に戻ろうとした。
だがそれも、レイチェルの顔を見た瞬間に手を止めた。
「なんだかうるせえと思ったら」
正確には、レイチェルの後ろに現れた人物を見て。レイチェルは振り向かずとも気配で分かった。
「雪久、いつも言っていることだとは思うけど……声をかけるにしても、何故いきなり喧嘩腰で入るんだ」
「してねえよ、喧嘩腰だの。あんた被害妄想入ってんじゃねえか、姉御」
雪久はレイチェルの脇をすり抜け、ずかずかと室内に入り込んでいった。舞の傍まで来て、舞の手の中にある刀を一瞥して鼻で笑い飛ばす。
「そんなもの手入れしてんのか」
「いけませんか」
舞はやや刀をかばうように身を引いた。
「死んだ奴の物だ」
「死んだとは限りませんよ」
「死んだよ。とっくに機械どもにぶっ殺されてるに決まってら。だのに、何を未練たらしくそんなもんを」
「あの人がそう簡単にやられるとは思いません。それに、この刀は基本的には私のものです。あの人が帰ってくると私は思っているのですから、あの人が戻るまで、私のものであるこの刀の手入れを私自身の意志で行ってーー」
「口答えすんなよ」
やおら、雪久が凄んだ。舞は気圧され、黙った。
「あいつは死んだんだよ。そんな野郎を戻ってくるだ何だって。お前はあいつの何だってんだ? 未練たらたらにそんなもん研いで。うっとおしいよなぁ、お前は!」
雪久が声を張り上げた。
舞は雪久を、じっと見上げている。怯えたような目ではあるけれども、しかし視線をそらそうとはしない。真っ向から見てやることで抵抗しているかのように見える。
そして雪久は、そんな舞の態度にも苛立っていた。
「ユジンも彰も、皆して死んだんだ。あの機械どもに殺されて。あいつが生きてる道理があるかよ! いいか、あいつは死んだんだよ!」
「彰が死んだのは、お前のせいじゃないのか」
見かねてレイチェルが口を挟んだ。
「聞いたよ、あいつの死に様を。お前かばって機械に向かっていって、自ら生き埋めになったと」
「ああ」
雪久はレイチェルに向き直り、にらみつけた。凄むようではなく、見下ろすような目で。
「そうだ。よりによってこの俺を後ろに追いやって、爆弾抱えて、自分一人でな。そんなもんで機械が殺せるわけがねえってのに」
「それを承知で、あいつは行った。何故か分かるか? お前を生かすためだろう」
レイチェルは雪久に詰め寄った。両者の視線が近い距離で交錯した。今にも焼けそうな視線が。
「お前は何に苛立っているのだろうね、雪久。あいつは最後までお前を案じていたこと? お前がその目をやられたことと、今後のことと。自分だって大変なのに、お前のことを案じていたことがお前は気に入らないんだろうね。あいつに頼るだけ頼っておいて、ないがしろにして、だけどあいつはお前を助けた。お前自身がどうこうしたのではないにしても、お前が死なせたようなものだ。それが気に入らないからそうやって人にあたるんだろう」
「黙りなよ、姉御」
「お前が目を背けなければ、黙るよ。そうじゃないから言っている。ただそうやって虚勢を張って覆い隠して、それで弱くなくなったつもりでいてもそうはいかない。情けないお前を、未熟な自分を自覚しようとしない、本当は見えているのに見ようとしないお前が、いつまでもそういう態度を続けているというのならば」
雪久の手がレイチェルの胸ぐらを掴んだ。
「歳食ったか、耳でも遠くなったんか。黙れってんだよ、俺がそう言ったんだ。聞こえねえんか!」
レイチェルは、雪久の顔を見た。精一杯凄んではいるが、しかし悲鳴のような怒声だと思った。
一瞬の間があった。
次には、レイチェルの顔面が弾かれた。右頬に鈍い痛みが走り、衝撃が脳を揺さぶった。打たれたのだと知ったときには、また雪久の手がレイチェルの襟を掴んだ。
「そうやって、ねじ伏せようとしたところで、手に入らないものはある」
レイチェルが言葉を発するたびに、雪久は表情をゆがめてゆく。
「弱いことを認め、弱さと向き合うこと。それをしていたあいつの方が、よっぽどお前の欲しいものに近づけていたぞ、雪久」
再び衝撃が来た。今度は左、一瞬目の前が白く弾けた。
雪久はもう一度殴ろうと手を振り上げたが、振り上げたまま止まった。レイチェルが見つめるその目とかち合い、そのまま二人してにらみ合った。
たっぷり一、二分はかけたか。やがて雪久はレイチェルを突き飛ばし、踵を返した。
「レイチェル大人、あの」
雪久が部屋を出てから、舞が手ぬぐいを差し出した。レイチェルは礼を言ってからそれを受け取る。口にあてがうと奥歯が一本、ごろりと出てきた。
「ごめんなさい、あの人あんなんで」
「お前が謝ることはないよ。だが……」
頬が熱を帯びている。完全に壊すというつもりの拳だった。殴られる瞬間に力の方向を変えたので大事には至らなかったが、雪久にしてもそれは本気の拳だったはずだ。
「少し時間がかかるな、あいつ」
まだ口の中が鉄っぽく、最後の方はささやくような小声でレイチェルはつぶやく。