第二十章:4
体の奥底が重たいと感じた。
一度でもそう感じれば、それはその日はろくでもない日であるということの証でもある。生れ落ちてこの方気分が晴れ晴れとしたことなど一度もないのだが、特に気分が悪いというときは必ずある。そういうときは、やはり悪いことが起きそうな気がする。
それが真実になるのには、さして時間はいらない。起床してから五分後に管理官がナンバーを読み上げる声を訊いた。彼女自身を表すナンバー、つまりは彼女を呼んでいるのだ。早く来い、ナンバー六十八。今日はお前だ。
それを無視するという選択肢は最初から存在せず、渋々体を起こして返事をする。もし少しでも返答が遅れれば、雷撃棒をひっさげた怖い顔をした管理官が彼女のいる房までずかずかと入り込んでくるだろう。真っ赤な顔して怒鳴り散らし、その細長い棒で突っつき電撃を浴びせる。さんざんこづき回した挙げ句、髪の毛をひっつかんで房から引きずり出すのだ。抵抗しても管理官の鉄の腕はびくともしないし、暴れれば髪の毛を頭皮ごと持って行かれることも覚悟しなければならない。ここにいる子たちの何人かが、そうやって頭髪を持って行かれたけれども、しかし頭皮がはがれた程度ならば次の日には元に戻る。髪の毛というものはきっと、管理官が掴みやすくするためにあるのだ。掴めなくなるから、いくら引きちぎられても髪は再生するのだろう--そんなことを本気で思っていた。
早くしろ、ナンバー六十八。その声とともに彼女は房から這い出した。
管理官にせっつかれて廊下を歩いていると、他の房の子たちが遠巻きに見ているのが分かる。その視線は様々で--哀れみだとか同情だとか、しかし自分でなくて良かったという安堵の目。だけれどもいずれは自分の番が回ってくるのだという恐れ--そんな多くの思惑をはらんだ目。
その視線が届かなくなると、いよいよ彼女はそこに、”実験室”に入ることとなる。
鉄の腕の管理官が、彼女を引っ立てる。白い壁に囲まれた部屋、その中央にはベッドがある。ベッドを挟んで白衣の男が立っており、そのまなざしはこの上なく冷たい。
脱げ、と男が短く命じる。彼女が躊躇していると、鉄の腕の管理官が雷撃棒を振り上げる。早くしろ。仕方なく彼女は、布一枚だけの粗末な服に手をかける。シャツを脱ぎ捨てると、華奢な肢体が露わになる。男はじっと自分の裸身を見つめてくるのに、居心地が悪くなって体を隠しそうになるがそれは許されない。そうすればまた電撃が飛んでくる。恥ずかしくても、後ろ手に組み、薄っぺらい自分の裸を晒すよりない。
男が、ベッドに横になるよう命じる。一気に体の奥の重苦しさが増す。指示通り横になると、男の指が、彼女の体を遠慮なく這い回る。細い肩と薄い胸、下腹部をまさぐり、その間にわき上がる怖気を彼女は喉の奥に押し込めなければならなかった。
男の手が放れると、今度は頭に何かの電気コードをつける。同じような電極を体のあちこちにつなぎ、男がコンピュータの端末に何かを打ち込む。
途端に全身を電流が走る。手足がしびれ、そのしびれは針を抱えているかのような痛みに変わる。痛みが激しく体内を行き来し、そのたびに彼女は悲鳴をあげる。それが貫くたびに、目をむき、体が跳ね上がり、のたうち回る。傍らの監察官どもがしかし手足を押さえてくるので、彼女は苦しみもだえる権利すらない。
男はそんな彼女を無視して、コンピュータの画面をにらみ、端末のキーを操作する。やがて彼女の悲鳴が聞こえなくなる。
彼女は痛みの中で意識を閉ざす。眼前が闇に落ちる。
重苦しい心地がした。
胃の中に鉛がつっこんであるような気分。そういう気分は初めてではないけれども、久しく感じていなかったものだ。
目の端に光が差し込んでくる。すぐに朝の陽だと知れた。そこでようやく、意識がはっきりとしてくる。
レイチェル・リーは壁際に預けていた自らの身を起き上がらせた。体の節々が痛む、というよりも体のだるさが抜けない。関節を回して、首を鳴らし、手足の筋を伸ばした。そうして自分がやたらと汗をかいていることに気づく。長いこと眠ってしまったのかと思い、時計を見てみたが眠りについてから三十分しか経っていなかった。短い時間の眠りを何度も繰り返して今に至る。
「おはようございます、レイチェル大人」
後ろから声がする。声がするよりも先に、レイチェルはそこに誰がいるのか知っていた。
「おはよう、舞」
振り返ると、狭い部屋の入り口に宮元舞が立っていた。そして昨日までのことが、脳裏によみがえってくる――襲撃とともに西辺を発ち、その後拠点の一つに飛び込み、そして夜を明かしたことを。
本部が何者かに襲われたとあれば、次に手が伸びるのは支部、西辺に散らばる「黄龍」の拠点であることは間違いない。座して死を待つよりは動くしかない。かといって、地上を歩けば連中に見つかる。必然、地下通路を行くこととなった。地下を夜通し歩き、ようやくたどり着いたのが、金や雪久たちとの調停の場として使っていた酒場だった。
果たしてその判断は間違っていなかったと見える。まだ連中にこの場所は漏れていないらしく、荒らされた痕跡もなかった。
そして何より、ここで雪久たちと合流出来たことが大きい。
「何だか、顔色が悪いようですが」
舞はそういって手ぬぐいを差し出してきた。レイチェルは礼を言ってそれを受け取る。額にかいた汗を拭い、首筋にあてがった。
「柄にもなく野宿をしたからね。ちょっとこの感覚が久しぶりだったから」
体が重いのは、いつものように横になるでなく壁に寄りかかったまま眠ったからだろうか。野宿をする場合、いつでも起きることが出来るよう体を横にすることなく、しゃがみ込んだまま至極浅い眠りを何度も繰り返すこととなる。路上にいた頃はそんなこと平気でやっていたのだが、一度ベッドでの生活に慣れてしまうとなかなか身体は元に戻ってはくれないようだ。体中が軋むようである。
「昨日、あんたたちがここに来たのは驚いたけれども。どうやってこの場所に来たんだ?」
レイチェル達がこの場所に転がり込んだときには、すでに雪久と舞がいた。互いに互いの無事を喜び合う間もなく、交代で見張りにつきながら眠り、長い夜を過ごしたのだ。
「地下基地から、地上に抜ける脱出孔がありましたので。雪久と一緒に抜けだして、宛もなくさまようよりは、ということで雪久が私たちをここに連れていって。私たちも、レイチェル大人がここに落ち延びているとは思いませんでした」
舞は首筋の辺りを手で撫でている。寝ている間に筋を痛めたのかもしれない。
「確かにここが一番安全かも知れないな。今のところは。連中が嗅ぎ付けない限りは」
だが、それがいつまで保つのかわからない。
「ここは秘密の場所だったのでしょう。なのに私が来たことで、明るみになってしまっては」
「気にすることないよ。一度は同志だったのだから、こういう時には助け合わなければ。雪久の彼女ならば尚更ね」
「……ありがとうございます」
舞は何故か、一瞬だけ顔を曇らせた。何やら余計なことを言ってしまったか。話題を変えようかと思ったとき、舞の後ろから音がした。
舞が振り向き、レイチェルはその音の方を見やる。舞の目の前に人影が立ち、その人物が虚ろな目で二人を顔を眺めている。
レイチェルが声をかけた。
「いきなりだとさすがに驚くよ、雪久」
舞は雪久を見たまま固まっている。
「朝っぱらからうるせえよお前ら」
雪久は不機嫌そうにぼやき、舞の脇をすり抜けてバーカウンターに座り込んだ。カウンターのボトルに手を伸ばす。茶褐色のボトルには、酒ではなく水が入っている。
「俺が連中だったら、お前は今頃首かっ斬られてたな、舞。呆けている間にお陀仏だ」
「あまり脅すようなことを言うものじゃない、雪久。お前とは違うのだから」
「路上に出ればそのぐらいは覚悟しておくもんだろ。出来なきゃ死ぬんだから」
「この子はお前とは違うんだから。路上の厳しさは今更言われるまでもないよ。だけど」
「食いモンはあるのかよ、ここ」
レイチェルのいうことなどまるで聞いていない。雪久は勝手に棚をあさり始めた。言っても無駄なものだ、この男には。いつものことだ。
「缶詰がある。それなりの備蓄はしてあるから。お前と舞と、あとお前のところの若い奴。そして私らが二人。五人で籠城しようとするなら、何とか二、三週は保つだろう。ただし、配分は考えなければならない」
「ふーん」
雪久が取り出した、缶詰がカウンターに積み上げられてゆく。加工食品の類も、ここでは貴重なものだ。贅沢は言えないはずだが、雪久は好みではないのかうんざりというようにため息をつく。
「本当、ろくなもんがねえのな」
「今はそれでしのぐしかない。外に出れば、連中の思うつぼだ」
レイチェルは、今は堅く閉ざされた窓を見やる。窓の外、そこからさらに十キロほど離れた往来を、今は軍服姿の兵どもがうろついているのだろう。襲撃から一夜明けた後、どこからきたのかわからないが、ブルーグレーの迷彩パターンの兵士が、見たこともない小銃をひっさげ、これまた見たこともない装甲車に乗って南辺や西辺に乗り込んできたのだ。成海の路上をギャングどもが闊歩することはあったが、軍隊がのさばる光景はこの街では一度も見たことがない、それは異様なものだ。
だが、どこの軍であるとか、どこから送り込まれたものであるかとか。そういう背景が一切見えてこない。UNの刻印はあるので多国籍軍か何かだろうか。
「ここが見つかることはないですか?」
舞は不安な面もちで訊いた。
「連中が、まだ街の中心に固まっていてくれれば良いんだけど……」
隠れ家は、南辺第6ブロックの、さらに端。放棄地区にほど近いところにある。ギャングはおろか、難民どももめったにここを通ることがない。放棄地区に近いということは、不発弾がどこかに埋まっている可能性があるのだ、好き好んで来たがるものもいない。だからこそ、身を隠すには最適な場所である。
しかし、だかといって見つからないという保証もない。連中が本気で探そうと思えば、奴らの機動力ならば探せないことはない。ずっと同じところにとどまってはいられない。
「食糧だって無限ではないわけだからね」
「一人でも減りゃ、食い扶持も増えるだろうよ」
雪久は缶詰を断りも入れずに開けた。中身は魚の切り身のようだ。まるでドリンクでもあけるみたいに、雪久は口に流し込んだ。
「どういう意味だ」
「そのまんまだよ。人が減れば、そいつの食う分は浮くんだってことだ」
「それは何か、お前が誰かを排除するということか」
「俺が何かしなくても、直ぐに一人逝くだろうよ。姉御、あんたのツレだよ。撃たれてんだろ?」
レイチェルは言葉に詰まる。ここまで逃げてくるのに、レイチェルはあの連中--往来を闊歩している連中に襲われていた。レイチェルを守るために、黒服の一人が撃たれ、もう一人--レイチェルが本部に行くことを止めようとした劉剣も撃たれて深手を負ったのだ。
「五人つったけど、これ配るんだったら四人計算にした方がいいだろうよ、今のうちに――」
「配分は変わりませんよ」
また入り口から声がした。レイチェルと舞がそちらの方を見た。
「孫龍福、どう?」
すぐにレイチェルが訊いた。孫龍福は右の手のひらで手ぬぐいをもみ込むようにして、指についた血を拭っている。
「ええ、大丈夫でした。あの方、劉大人。剛性繊維の上から打ち込まれたのが幸いでしたね。肉は裂けても内蔵までは到達していない。弾を取り除いて止血しました。心配いりません」
それを訊き、レイチェルは息を吐き、舞もまた胸をなで下ろした。雪久だけ何の反応も示さなかった。
「済まなかったね」
「礼には及びませんよ、レイチェル大人。それよりあの人、目覚めるなり真っ先にあなたの心配をしましたよ。慕われているのですね」
孫龍福はくすりと笑い、次に雪久に向き直った。
「というわけで、五人計算でいきましょう。当分は
「そうかよ」
雪久は憮然として返す。一気に機嫌が悪くなったようだ。
「まあだからといって、ここに長いこと放置しておくわけにはいかないね。ここは衛生状態も良いとは言えないだろうから」
「焦りは禁物です。一命は取り留めたとはいえ、安静にしておかなければなりません。あなたも少し休んだ方が良いでしょう、レイチェル大人」
「もう十分休んだよ。それよりも今後どうするかを……雪久」
ちょうど雪久が立ち去ろうとするのに、レイチェルが呼び止めた。
「どこへ行く」
「便所だよ。いちいち訊くなっての」
「分かっていると思うが、外には出るなよ。連中がいないとも限らない」
「指図すんな」
一言毒づき、雪久は出て行った。階段を下る足音が響き、完全に聞こえなくなってから孫龍福がつぶやいた。
「荒れてますねえ」
「いつもの通り、ですけれども」
と舞。ため息混じりに言った。
「あれだけやられてしまっては、容易に立ち直れるなんてことはない。昨日は随分、でしたから」
舞は表情を曇らせた。
「結局生き残ったのはこれだけか」
レイチェルはタバコを取り出そうとポケットに手を伸ばしかけたが、今の自分たちの状況を思い出して止めた。煙一つで居場所を突き止められたらどうする。
「彰のこと、残念だったね。あいつらしいと言えばあいつらしい最期だけれども。あなたと、雪久を逃がすために本部ごと埋めるなんて」
「あなたの方も甚大だったと聞きました」
孫龍福は、劉剣の様子が気になるのだろう。ちらちらと隣の部屋の方を見たりしていた。
「本部は潰され、私服どもも散り散りになってしまった。バートラッセルとの連絡も途絶えたから、おそらくは奴もやられたのだろう」
「他の拠点、南にいる黒服とは?」
「連絡をとる術がない。ここみたいなセーフハウスは方々に在るから、そういうところに身を寄せていればいいんだけれども」
かといって、どれほど残っているかも分からない。拠点に散った黒服なんてたかが知れている。そういう彼らも残党狩りに遭わないことなどないのだから、表の連中の目をかいくぐって合流することなど至難の業と言える。
「金たちの状況、何か分かるかい? 孫龍福」
「いえ、私はあまり……襲撃を受ける前、彰が金大人と連絡が取れないようなことを言っていました。遊撃隊に協力を仰ごうとしたようだったのですが」
連絡が取れなかった。それならば、その時点で遊撃隊もやられていたと考える方が自然であろう。
随分広範囲に展開したものだ。奴らは一体どれほどの刺客を送り込んだのか、見当もつかない。
と、そのとき入り口に誰かがいることに気がついた。
レイチェルはすぐさま銃に手が伸びるが、最初に目に付いたのはその人物が頭に巻いてある包帯、そして何よりその男は杖をついてやっと立っているということだ。
孫龍福があわてて立ち上がった。
「劉大人、まだ寝てなければ」
劉剣だった。死に体ではあるが、かろうじて生を拾った男が孫龍福を見て口元だけで笑みをつくる。
「手当してくれたのは、お前か。礼を言う」
「いや、あの、お礼はともかく今動いたら」
「のんびり寝てはいられない」
慌てる孫龍福をよそに、劉剣はレイチェルの前で膝をついた。かしづくようであったが、立っていられなかっただけかもしれない。
「あなたの身に」
酷く息切れするような声で、劉安は言った。
「何もなくて良かった」
「……苦労かけたね」
一体、この男にどう声をかけたものか、言葉を色々と選ぶのに時間がかかった。本部へ行くことに対してレイチェルを妨害し、しかしここまで来るのに身を挺してレイチェルのことを守った男。一晩で色々ありすぎたのだが、出てきた言葉はわりと何てことはないことだったが。
「この程度のことは」
言ってる傍から劉安はせき込みだした。孫龍福が身体を支える。舞もそれを手伝い、二人がかりで劉安が座らせた。
「だから無理をしてはいけませんよ、劉大人。何せ傷は深いのですから」
劉安はもう今年で四十にもなろうという歳だが、そんな男が十二と十六の子供に支えられるとは、何やら老いた父を子らが助けているような図式に見えなくもない。
「しかし、ここに留まってもいられないでしょう」
劉剣は声を絞り出す。苦痛に顔をゆがめているあたり、傷はまだまだ癒えないのだろう。
「あなたも、先ほど言っておられました。表通りを歩いている連中が、すぐにここの存在に気づかないとも限らない。そうなれば、私など真っ先に足手まといになってしまう。あなたはここを置いて、『千里眼』とともに早くに逃げるべきだ」
「お前を置いていけるわけがないだろう、馬鹿なことを言うな」
「現実的な提案です。彼ら残党狩りは、あなたを探している。もちろん、『千里眼』も。奴らは本気だ、完全にこの街のギャングを根絶やしにしなければ気が済まないようで」
「しかし」
言い争いになりそうなところを、孫龍福が二人の間に割り込み制止しにかかった。
「今後のことは大事ですが、身体を休めることも大切です、ご両人。劉大人はもちろんのこと、レイチェル大人あなたも疲れているでしょう。今後の体勢を整える意味でも、今は」
孫龍福にたしなめられると、劉剣は押し黙り深く頭を垂れた。
「出過ぎた真似を」
「いいよ。確かに、拙速に動くわけにはいかないね」
レイチェルは缶詰を六個取り出すと、三人に二つずつ配った。
「今はこんなものしかないけど、無いよりはマシだろう。食糧は、五人でも十分まかなえるほどはある」
「レイチェル大人、あなたの分は?」
舞は魚の切り身の缶をつまみ上げながら訊く。レイチェルは缶詰の一つをつかみあげ、すぐに卓上に置いた。
「今はあまり食欲がない」