第十九章:16
雪が吹き付けてくる。それにつれて刺々しい冷たさが肌を叩く。正面を向けば圧倒的な風の圧と雪の壁に息を止められる心地だった。
省吾は少しうつむき加減に歩く。足取りを確かめ、しかしなるべく早くに駆け抜けた。
途中で雪に埋もれた躯をいくつか見かけた。遊撃隊どもが、首をねじ曲げられた状態で倒れていたのを見る。その中に、ユジンの姿がないことに一定の安堵を覚えるも、しかしそれで不安がぬぐえるわけではない。
どれほどの機械がこの《南辺》に入り込んでいるのだろうか。いや、南だけではない。あのハルバードの女の口振りでは、《西辺》にも入り込んでいるのだろう。そうなればレイチェルの方にも、機械どもは行っているのだろうか。
急がなければならない。そうは思っても、ユジンがどこにいるのか分からない。とりあえず今は地下への入り口に走ってはいるが、そこにユジンがいるという保証もない。
「くそっ」
叩きつける、雪と風にまともに向かい、省吾は歩を早めた。
ユジンが飛び込んだ瞬間、王春栄の手元が光った。
銀色が閃き、棍の先端にかすかな衝撃。それとともに突きだしたはずの先端が消滅した。
(--え?)
握った棍が半分になっている。訳が分からずにいると、次に王春栄が腕を返した。
左腕に衝撃が走る。
ユジン、腕を見る。自身の左肘から先が消えている。
下を見る。まるで現実味のない朱が雪の白に滴り落ちている。黒っぽい色をした自身の血が、実感のなさに拍車をかける。
王春栄を見る。いつの間にかその右手には刀が握られている。鉈のような直刀だ。王春栄の足下には、さっきまであったユジンの左腕が転がっている。王春栄はその腕を踏みつけ、刃についた血を舐めながらにやりとする。
斬られた。そう理解するより先に痛みが襲ってきた。切断面に灼熱が走り、全身の血が逆流する心地を覚え、背と首筋から脂汗がわっと噴き上がる。
その場にうずくまりたいのをこらえた。ユジンは切断面をきつく握りしめて止血する。痛みはあとからあとからわき出てくる感じで、痛みが増すほどにユジンは傷を握りしめる。
「弱いやつは、急場をしのぐっきゃないんだろうけどよ。あくまでその場限りでしかねえ」
王春栄はそう言って足下の、半分になった棍を拾い上げた。その棍も、あの直刀で斬られたのだと知る。
(あんな刀、さっきまで持っていなかったのに……)
いきなり現れた。そうとしか表現できない。どういう現象があったのか、どういう原理が働いたのか分からない。王春栄は、こんな寒い中でもタンクトップ一枚という格好だから服の下に隠していたはずもない。
王春栄は刀の血を振るった。
「さんざん手こずらせてよ、ただで済むとは思っちゃいねえよなぁ?」
今や間合いの利は完全に逆転した。刀の王春栄に対して、ユジンの武器は半分になった棍。それでは武器としては心もとない。
王春栄が近づいた。
ユジンは棍を打ち付ける。が、力が入らない。王春栄は難なく棍を避け、ユジンの残った腕をつかんだ。
「普通にヤるにはもったいないからよ」
王春栄、ユジンの腕を握る手を強める。ユジンはたまらず声を上げる。必死に逃れようともがくが、力でかなうはずがなく、壁に押しつけられた。
「動くなよ、暴れるともう一本もいっちまうぜ」
余裕綽々で、王春栄はユジンの服に刃をあてがった。
最初は刀の先にひっかけて引っ張る。布が引き裂かれた。上着を裂かれ、胸元をはだけさせる。ひんやりとした空気にさらされる。
動こうとした。しかし動けない。いくらふりほどいても、王春栄の手はふりほどくことができない。
刀が、胸に巻いたさらしにかかる。 おとなしくされるがままになるしかない自分がたまらなく悔しい。けれども、にらみつけるユジンの視線も、王春栄にとってはそれもあまり効果がない。
さらしを一枚、引き裂いた。はらりと頼りなさげに落ち、肌がその分露わになる。屈辱と恐怖が今更ながらに襲ってくる。けれども決して目だけはそらすまいと王春栄をにらみつけた。たとえこの身がどうなろうと、こんな男に心までは明け渡すことはしまい。こいつを視線で殺せるなら殺してやる、そういうぐらいのつもりでにらみつけた。
また一枚引き裂かれた。
そのとき声がした。
信じ難い光景を前に、省吾は思わず叫んでいた。
壁に押しつけられているのはユジンだーー左腕を切り落とされ、服を引き裂かれ、しかしユジンは抵抗することも出来ないでいる。
それをしている男の方に目を向けるーー男は楽しみを邪魔されて、忌々しく振り向いた。長身であまり筋肉質ではない細身の男、手には環刀らしき直刀を持っている。その刃はすでに血に塗れている。
「おい、何してんだよ」
近づいた。男に向かって歩きながら、省吾は永脇差を抜く。鞘を投げ捨て、諸手に持って、脇に構えて。
「何だよ、まだいたのか」
男は面倒くさそうにため息をつく。
「何をしているかってーー」
省吾は足を早めた。男の目の前まで走り、そして
「聞いてんだよ!」
切りつける。
カン、と涼やかな金属音がした、と思った。省吾の長脇差は男の直刀に阻まれ、次の瞬間、腹に衝撃を受ける。
省吾の体が宙を舞った。一瞬の浮遊、後、省吾は雪の上に投げ出される。
「省吾!」
ユジンが身を乗り出すが、男の手がそれを許さない。ユジンは再び壁に張り付けにされた。
「あのよ、あんた何のつもりか分からねえけど。今お楽しみなわけ、わかる? そんなに遊びたいんならあとで相手してやるからよ、ちょっとそこで待ってろ」
男はそんな勝手なことをほざく。省吾は起き上がった。
「その手を離せ」
蹴られた腹を押さえた。骨の何本かにはひびが入ったらしい。だからどうした、そんなことは。
「ユジンから離せ、クソ野郎!」
走る、省吾は長脇差を振りかぶる。切りつけた、その省吾の打ち込みを男はまたもや受ける。省吾は二度、三度と刀を振るい、男に切りつけるも、直刀の刃に阻まれ、男の体まで刃が届かない。
「だーかーら、空気読めって言ってんだろうが!」
男の右脚が躍った。
上段の蹴りが省吾の顔面に伸びる。省吾は身を逸らして蹴りを避ける。一旦後ろに下がり、構える。
すぐさま正眼に取り、突きを打つ。
刃と刃がぶつかった。男が直刀の腹で省吾の刺突を受け止めた。
次の瞬間、男が直刀を横薙に斬る。省吾の目の前をよぎった。省吾、鼻先ぎりぎりの位置で避ける、避けた勢いのまま後ろに飛び下がった。
「離せ、鉄屑野郎」
額から顎にかけて生暖かい感触が伝ってくる。気温の低さがその温さを際だたせる。そんなことには構わず、省吾は唸った。
「その手を離せ!」
「離してやるよ」
男は直刀を突きつけて言った。
「終わった後にな。お前はそこで見てなよ、あとで相手してやっから」
「今離せってんだ」
「嫌だといったら?」
「殺す」
省吾は右足を引き、やや霞気味の正眼となる。別に右をかばうわけではないが、やはり少し不安であった、右側をさらすというのは。
男は最大限おかしいとばかりに笑った
「殺す? お前が? 俺を? 面白い冗談だな、おい」
男はユジンの手を離した。ユジンがその場に崩れ落ちる。
ユジンは立ち上がろうとするが、その男に軽く蹴り飛ばされた。ユジンの体が一度地面をバウンドし、壁に激突。うっとうめいて、そのまま動かなくなった。
省吾はユジンの元に駆け寄りそうになるが、男が直刀を突きつけるのに、足を止めた。
「身の程知らずって、怖いもんだよな。順番も守れないばっかりに、手足ぶった斬る程度じゃ済まなくなる」
直刀を握り直し、刀を手中で回転、そのまま肩に担ぐ。男は心底うんざりというように息を吐き、省吾の方に向く。
「面倒だが、じゃあまずはお前からやってやんよ」
男が飛び出した。
楽々間を飛び越え、撃尺。直刀が唸った。
横薙、省吾、紙一重で下がる。刃をかわす。かわすと同時に上段に振り上げ、一気に切り下ろす。
交わる、刃。刀身同士十字にかみ合った。
膠着は一瞬。すぐに両者は離れる。互いに互いの制空圏内から脱する。
「しゃああ!」
また動いたのは、男の方。直刀をほとんど出鱈目に近いほど振り回し、省吾に切りかかった。
下がる、かわす。
しかしまた次の斬撃。省吾の目の前に迫る。
長脇差を切り上げる。下からすくい上げた刃が直刀の打ち込みを弾く。返す刀で袈裟に斬る。
ガッ、と鈍く刃同士かみ合う。省吾の長脇差は直刀で防がれた。
一瞬、男がにやりとした。その次に男の肘が飛んできた。省吾、顎を跳ね上げられた、その瞬間に直刀の真っ向斬りが襲う。
横に飛ぶ。刃をかわす、紙一重。
否、かすめていた。耳の先に熱を感じ、刃の先が肉を削いだのだと知る。
下がる、今度は思い切り後ろに。刀のやりとりで後ずさるなど愚の骨頂だが、今の省吾はそれしか出来なかった。
「どおしたどおした、さっきの威勢はどうなったんだあ?」
男は直刀を手の内でぶん回して、頭上に掲げる。切っ先を向け、威嚇するような体を取る。
省吾は長脇差を見る。打ち込んだ所の刃が欠けていた。あまりにも堅牢で分厚い、あんな刃に、こんなにも細くて脆い長脇差などで対抗できるわわけがない。
(ならばーー)
男が踏み込む。
斬撃、両断に。頭を割るような重い一撃。
避ける、省吾。入り身。刃やり過ごし、長脇差の先端で直刀の鍔もとを押さえた。そのまま体を入れ込み直刀を抑え込む。
いきなり掌が目の前に差し出される。省吾、よけきれず鼻を打つ。思わずのけぞる、省吾に向けて男が渾身打ち込む。斜めに。
かわす。
右側頭、痛み。皮一枚、舞った。
それが自分のものだと、認識する間もなく次が来る。直刀の突き。
先端が迫る。頭を傾ける。首もとをかすめる、直刀の刃。鈍い銀の輝きを横目に、薄笑いの男の目を見、その顔めがけて省吾は切り上げる。逆袈裟。
「はぁっ!」
雪の合間を銀が走った。影が退き、銀は空を裂いた。
それでも先端はわずかに男の皮膚を捉える。薄皮一枚ではあったが、男の顔に初めて傷がつく。
(斬ったーー)
だが、浅い。
男は顔を歪め、直刀を斜めに切りつけた。
省吾素早く退く。直刀が空振りした。
斬撃の勢いそのままに、男は体を回転。男が背を向けた、次には後ろ回し蹴りが飛んできた。
避ける、が間に合わず。蹴りは省吾の顎先をかすめる。脳が揺れる。
下がる、がそのとき足がもつれた。ひざまづいた、省吾の頭上に鉈の刃が振り下ろされる。
咄嗟に横に飛ぶ。省吾の真横を刃が通過。地面を叩く。雪が舞い上がり、地面にめり込んだ。
ほとんど後ろに倒れ込むように後ずさる。男から遠ざかり、九歩。間合いを取る。
男は笑っていた。口元を歪めている。しかし、男は笑ってはいない。目は、狂気をはらんでいる。
「しゃあああっ!」
突っ込んできた。
間を飛び越え、半歩。男が横薙に切りつけた。
しゃがむ、省吾。低く体を取り突進、刃をくぐり抜けた。
振り抜く。長脇差を逆袈裟に、男のがら空きの脇を斬る。
膝。眼前に見た、と思った瞬間に衝撃。省吾の顔が弾かれる。一旦の浮遊を得、省吾は地面に倒れ込む。
(しまーー)
慌てて起き上がろうとしたところに刃が迫った。
また衝撃。
血が飛ぶ。
遠くで、二つの影があった。二つは離れたり、交わったりを繰り返していた。
一つは王春栄だ。長い直刀を縦横に繰り出している。その直刀に向かってゆく影は、省吾だ。直刀に比べればあまりに貧相な長脇差一つで。
ユジンは起き上がろうとする。が、思うように立ち上がれない。蹴られたせいだろうか、と思ったが、ない方の手を見て、ああと声を上げる。腕は体のバランスを維持するためでもある、とすれば腕がない状態だとうまくバランスがとれないのだろう。だから、そう簡単に立ち上がれないでいる。
しかし何とか立ち上がる。壁に手をつき、ふらつく足を固定させるように、体を密着させる。
そして見る。省吾が振るう、挙動の一つ一つを。
こうして見るのは、初めてのことではない。省吾が、自分の前に立ち、誰かと戦っているのを、自分ただ見ているーーそんなことは何度かあった。何度かあったことなのだ。
ユジンは足を動かした。
「うっ」
腹の底に痛みが走った。あの男は加減して蹴ったのだろうが、それでも生身には堪える。
それでも、やらなければ。
ユジンは残った手で、ナイフを抜く。最後に残ったナイフだ。それを順手に持つ。ナイフの柄が、ちょうど自分の掌に収まるように。そうでなければナイフがすっぽ抜けてしまう。
もう見ているだけではない。遠くで、省吾が戦っている。自分はそれを見ているだけではない。少しでも、省吾の役に立つようにしたい。だから。
ユジンは足を踏み出した。