第十九章:6
女が海中に消えてから10分が経過していた。
「上がってこないね」
リーザは残念そうにそうつぶやく。獲物を取り逃がしてしまい、口惜しいことこの上ないという顔だ。
「手間が省けてちょうどいい」
一方のハルトマンは、無表情のまま剣を納めた。ロングソードの長い剣身が収縮し、全て柄の中に収まる。柄だけになったそれを腰のベルトに提げた。
「しかしあんた、生身なんかに遅れとって。どういうことよ」
「生身ではあるが、あの女。一筋縄じゃいかない。単なるハンドラーかと思ったが、侮れないな」
「本当に? あんたの腕が悪いだけじゃないの? あるいは、遺伝子に欠陥でもあったのかしら」
リーザが嘲るように言った。ハルトマンは険しい顔つきで睨みつけたが、すぐに海面に目を向けた。
しばらく見ていても、そこには何も浮かんでこない。静かに波が押しては返すを繰り返している。
リーザがきびすを返した。
「もう沈んだみたいね」
「まだ死亡を確認していない」
「あんまり時間はないよ。麗花から、すぐに片づけて戻ってこいって言われているし。ぐずぐずしていると他の奴らに獲物取られちゃう」
リーザは船から飛び降りた。港の岸壁に降り立つと、そのままさっさと歩いて行ってしまった。
ハルトマンはつぶれた左目を拭う。すでに血は止まっていた。海面を見、次には船を飛び降り、闇の中に消えた。
ハンドラーは船の縁にしがみつきながら、じっと上にいる二人の会話を聞いていた。
船尾からちょうど死角になるところ。船にぴったりと貼り付いて、そのまま息を殺していた。もし、船から飛び降りてそのまま逃げていたら、あの二人はどこまでも追ってくるだろう。そのため、飛び降りてからもしばらくはじっとしていた。
冬の海は堪える。軍服の下にはアンダーウェアを着込み、しかしそれも単純な防寒仕様であって、冷たい海水に耐えられるように出来ている訳ではない。氷水のような海に、何分も浸かっていれば凍えてしまう。寒さに耐えながら、船の二人が立ち去るのを待った。
二人が船上から飛び降りたのを感じた。それでもすぐには顔を出さず、そこから20分ほどは待っていただろうか。気配が完全に消えたのを察知し、ハンドラーは陸に上がろうとした。
「おい……ちょっと」
上がろうとしたとき、声がした。
「なあ、こっちも助けてくれてもいいんじゃねえの」
埠頭の縁に誰かがしがみついて、ふるえていた。特徴的な赤い髪は、夜であっても目立つ。
「燕か、どうした」
「どうしたとかこうしたとかじゃなくて、こっち引き上げてくれよ」
「私の次にな」
ハンドラーはどうにか埠頭によじ登り、燕を引き上げてやった。転がっていた鉄パイプを燕の方にのばしてやり、燕はそれにしがみついてやっとこ上る。
陸に上がると同時に燕はぐったりとなった。しかし直ぐに両肩を抱えて震え出す。
「お前一人か? 省吾は」
「その名を口にするなよ。あの野郎、南に行っちまいやがって。おかげで俺一人で、あの化け物相手しなきゃならなくなった」
「そうか。つまり、あの女は省吾を斬ったわけではないんだな」
「斬られたんは俺の方だよ。ってか、そっちの傷も癒えないんだから、治してくれよ」
「ということは、省吾はまた戻ったということか。南に行ったというが、あのギャングたちのところにか?」
「いや省吾のこともいいけど、ちょっとは俺の心配もしようって気にはならないの? 省吾省吾と」
燕は恨めしそうに、ハンドラーをにらみつけた。
とりあえず二人して倉庫に入った。濡れた服を脱ぎ、二人して下着姿となる。その服をひもで吊して、ドラム缶に燃料を継ぎ足して火をつける。しばらくするとようやく冷えた体に温かみが戻ってきた。
「見せてみろ」
ハンドラーは燕に背中を向けさせた。右の肩から左の腰まで深い傷が走っている。もう少し深く入れば、骨まで達していそうな傷。しかし、今は血も止まっている。
「たいしたもんだな、セルってのは。普通ならば死んでいたところだ」
燕は火に触れそうになるぐらいのところで手をかざしていた。まだふるえている。
「加えて剛性繊維のジャケットと鎖帷子の二枚重ねとあればね、傷も浅くて済む」
「そんなに着込んだら動きが鈍くなるだろう」
だから斬られるんだ、と言いながらハンドラーは燕のえぐれた傷に薬を塗り込んだ。殺菌の為だ。燕は薬がしみるのか、顔をしかめている。
「そりゃあ、事前情報聞いていたからね。変な、機械の連中が沸いているってのは。あの女がそうなのか?」
「その一部だろう。奴らは機械であって、機械ではない。もっと質の悪いものだ」
「ああそうかい、機械であって機械でない、ってね。分かるかくそったれ」
燕は必要以上に毒づいているが、それを無視してハンドラーは軍刀を引き抜き、刃の状態を見た。
刀の中程から切っ先までに、細かい刃こぼれがいくつも生じている。突き刺した剣先は、小さく欠けていた。金属の塊を切りつけた後のようになっている。
「奴らの皮膚は特別だ。刃も通らないし、無理に通せばこの有様だ」
手ぬぐいはすでに乾いていた。ハンドラーは刀の目釘を外し、拵えを取って茎から刀身までを丁寧に拭った。海水に浸かったのだ、すぐに拭かないと錆びてしまう。本当は油を差したいのだが、今は無理だ。
「お前と、省吾にも前に注入したことがある。民生用セルよりも遙かに強靱で回復力のある器官を造りだす、それが奴らの血肉に導入されたセルだ。生半可な武装では、文字通り歯が立たない」
「そりゃあな、刃だ何だってそんな原始的なものじゃ。せめて銃は欲しい」
「おそらく、無駄だろう。銃弾でどうにかなるならば、船の兵がどうにかしているはず。あれでも手練れだったんだが」
つい先ほども外で倒れている仲間を見た。首が切り離されていて、抵抗した風でもないから一刀のもとにやられたのだろう。こういう街なのだから、当然それなりの覚悟を持ってはいるのだが――
「連中、私たちをこの街から出さないつもりらしい」
「あんたの仲間って、特区のあちこちに散ってんじゃなかったっけ?」
燕は乾いた服を、傷に触れさせないようにおっかなびっくりといったように着た。
「そういうのと連絡はとれないのか」
「船の通信機は壊れていた。電話でやりとりといっても、その辺りもすでに手が回っているだろう。すんなりと連絡とれるか分からないし、第一、ここがそうならば他でもやられている可能性がある」
「何だよそれ、じゃあお手上げなわけか? 俺ら、ここで奴らに追い回されるってのか?」
「そういうことになるな」
燕が絶望に打ちひしがれている間に、ハンドラーは服を着込んだ。まだ生乾きだが、この際仕方ない。刀の拵えを戻し、鞘に納めた。
「とにかく、しばらくは『マフィア』に見つからないように身を隠さなければならないな」
「そんなこと言ったって、あの連中、南や西にも行ってるってよ。そんなんじゃ、どっこにも逃げ場はないじゃん」
燕はそう言って頭を抱え込むが、ハンドラーは燕の言葉に反応した。
「今なんと?」
「ん? ああだから。あいつら、《南辺》と《西辺》のギャングどもやりに行ったんだ。あの眼鏡女が言ってたから間違いないだろう。省吾はそれで、南の方まで行っちまったんだ。俺をおいて」
「港の方は制圧し終わったそうです」
麗花がそう告げるに、皇帝はただそうかと応じた。
「あとは西と南の、仕上げに移るわけだな」
「これで終わりです」
麗花がつぶやく。
「あとは、逃げる術もない」