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監獄街  作者: 俊衛門
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第十八章:8

 目覚めたときには、省吾はいなかった。

 そのこと自体、驚くべきことではなかった。むしろそうなることが必然であるかのようだった。ユジンは急いで着衣の乱れを直し、毛布を丁寧に畳む。と、すでに倉庫の入り口が開いていることに気づいた。

 倉庫を出てすぐ、イ・ヨウと対面した。ユジンの姿を認めるとぎょっとした顔で硬直したが、もはやユジンは何かを言う気すら起きなかった。

「省吾は?」

「2、30分ぐらい前に」

「そう」

 気のない返事をしてから、ユジンは雪久たちがいるであろう広間に向かう。後ろからイ・ヨウがついてきた。

「あ、あのよ。真田がよ」

「省吾が、何」

「い、いやその。まあいいや、俺は彰に伝えることがあるから」

 イ・ヨウが逃げるようにユジンの傍を離れた。

 途中何人かとすれ違った。誰も彼もがユジンの顔を見るや、あからさまに驚いて目を逸らし、足早に駆けてゆく。だが別にどんな顔をされようが、ユジンにはどうでも良かった。むしろ今は、避けられるぐらいでちょうど良い。今は一人にして欲しい。

「ユジン、おいユジンってば」

 だから、後ろから彰に呼び止められたときは、さすがに切れそうになった。

「ユジン、聞こえているのかよ、おい」

「うるさいよ、彰。何の用?」

 振り返らず、立ち止まらず、そのまま応じる。彰はしつこくついてくる。

「さっき、イ・ヨウから聞いたぞ。お前、省吾と一緒だったんだって」

「そうよ、それがどうかした?」

「省吾はお前に何か言ったのか? 省吾と一緒だったなら、いつ省吾は出て行ったんだ」

「分からないよ、そんなの」

「待て、待てったら! 省吾はどうし――」

 強引に肩をつかまれた。そこで初めて彰の方に振り向いた。

 彰の表情が固まった。

「さっきから、何なのよ」 

 もう少し、感情が高ぶれば怒鳴りつけていたかもしれない。声だけでも平静さを保てたのは奇跡じみている。

「私が何で省吾のこと知っていなきゃいけないわけ? 何で私が彼のこと知っているって前提なの? 意味が分からない、どうして省吾の居場所を私が知っているってことになるの、ねえ?」

「お前、その顔」

「何よ、私の顔に何かついているっての?」

「いや、その」

 彰はユジンの肩から手を離し、まじまじとユジンの顔を見た。

「お前、泣いているのか?」

 ユジンの眼は赤く充血していた。涙こそ流れていないものの、しばらくは泣きはらしたという風であり、誰が見てもそれはそうだと思うだろう。

 だが当のユジンはそんなことにも気づかず。

「泣いてるって、私が?」

「どうしたんだ、省吾と何かあったのか。そもそもどうして一緒にいた、あいつと」

「彰」

 問い正そうとする彰に、割って入る声があった。

 彰が振り向くと、舞が立っている。いつになく険しい表情であった。

「舞、どうした」

「少し外してもらえないですか。ここは私が」

「いや外すったって」

「お願いですから」

 何か有無を言わせない迫力があった。彰は不審そうな顔で、ユジンと舞の顔を交互に見て、しかし最終的には引き下がった。

「他の皆には、私から言っておきます」

 彰が去ってゆく、後ろ姿を見送りながら舞が言った。

「その前に、ユジンさん顔を洗った方がいいかもしれません。自分では分からないでしょうけど、ひどい有様でから」

 舞は背中を向けたまま、そう言った。ユジンは舞に礼を言うべきかどうかと迷ったが、結局そのまま立ち去った。


 自室に戻って、しばらくベッドの上に横たわっていた。

 鏡を見れば、なるほど舞の言うとおりひどい顔をしていた。自分ではそのつもりはなかったものの、真っ赤に泣きはらしたその顔はすれ違う者を硬直させるには十分過ぎる。タオルに水を含ませて両目をこすって、上を向いて時間をおく。少しだけ腫れが引いたような気がした。

 2、30分ほど経ったとき、部屋の扉がノックされた。

「宮元です、今よろしいでしょうか」

「何よ」

 あからさまに不機嫌そうな声で返してやるが、これが彰や雪久だったら返事もしないだろう。

「もしだめでしたら、このまま帰ります。でもよろしければ、お話聞かせていただけませんか? どうですか?」

 どうしようか一瞬だけ悩んだが、すぐにユジンは扉を開けて舞を招き入れてやった。舞の顔からは先の険しさが抜けて、いつもの柔和な表情を浮かべている。

 ただしそれには、別の思惑めいたものもあった。気遣うような色が。 

「ユジンさん、真田さんといたらしいですね」

 扉を閉めるなり、舞が訊いてくる。ユジンは素直にうなずいた。

「もう知っているんだ」

「小耳に挟みましたので」

「小耳にって、それは誰から訊いたの?」

「先ほど、彰から。真田さんは、それで」

「行っちゃったよ、もう」

 ユジンは、舞の方を見ることが出来なかった。舞がどうこう、ではない。今は誰かの眼をまともにみれる気がしない。

「昨日、一晩。省吾といた」

「そうですか」

 舞はそれほど深く追求はしない。ユジンが自ずと話すのを待っているようだった。

「私は、何をされてもいいと思った。いずれはそうなると思っていたし、そうなってもいいって思った」

 だからというわけでもないが、ユジンは気づいたら話していた。まるでそうすることが自然なことなのだと思えるほどだった。

「同じ気持ちなんだって、確認できた。少なくとも私はそう感じた、省吾も同じでいてくれたんだって。でも省吾は私に触れただけで、それ以上のことはしなかった」

 思い出すのは、夜のことだった。

 省吾が体を引き寄せて、ユジンは省吾の腕に身を預けた。

 どちらともなく唇を寄せた。互いのそれが触れあうのに、時間はそれほど必要なかった。最初に唇を、徐々に舌同士を絡ませた。

 省吾がユジンの身体に手を伸ばした。ジンはそれを受け入れた。互いに触れあい、肌と肌を合わせた。

 だがあるときを境に、省吾の方から身を引いて行った。求めるその先を、自ら押し殺し、ユジンを抱きしめるもそのまま何をするでもなく。

 そうして朝を迎えたときには、省吾は隣にいなかった。肌にはまだ熱が残っていたけれども。

「拒まれたのかな、私」

 手を組んだ、その上に滴が一つ落ちる。また一つ。それが自分の涙だと気づくのにも時間がかかった。

 止めるべきと、思っていても思考は留められない。あとからあとから、そんな愚にもつかない考えが浮かんでくる。それが呼び水となって、訳の分からないものが押し上げてくる。

「私には、省吾のことが分からない。分からないよ……」

 あとはもう何も言うことも出来なかった。ただ流れるままに涙が流れるのを、そのままに。一度それを許してしまえば、あとは堰を切ったように感情はあふれてくる。舞がいるという事実も忘れ、嗚咽を漏らした。肩を震わせ、手を握りしめ、それでも御しようのない内なるもの。一体自分にもまだ、こんな激情があったのかと思うほど。

 舞は何かを言うでもなく、ユジンの傍に寄り添っていた。慰めもなく、言葉を尽くすこともなく。

 ただずっと。ユジンが泣きやむまで、そこにいた。



 冷気が、流れ込んでくる。

 肌そのものを締め付け、その下の筋肉まで軋ませてくる。毛穴の一つ一つが、ぎゅっと収縮されてゆき、ぴりぴりと頬を刺激してくる冷たい風。

 そよぐ風が、やがて吹き荒れる嵐となるまで、麗花は見下ろしていた。それにともない水混じりの雪もまた勢いを増し、横殴りに吹き付けてくる。

 感触の一つ一つを確かめるように、感覚の一つ一つをかみしめる。かつてあれほど恋いこがれた、人なるものの生の感覚だった。鉄の塊ではない、人なるものと同じ細胞を与えられ、しかし人のそれよりもはるかに鋭敏な神経組織が、今宵の雪をいっそう冷たいものにしている。

 寒い。けれどもそれこそが今、自分であることの証。それが永続性を持つのかどうか、それを永遠に我が物と出来るかどうかの戦いが、今より始まる。

 麗花はビルの屋上から下界を見据える。吹き付ける雪から逃れるように難民たちは路上より消え、今はもう誰もいない。ただ闇のみがある。

 振り向いた、その後ろにめいめい控える者たちを見る。暗がりに人だかり、それぞれがそのときを、今か今かと待っている。これより始まる戦いの、最初の火蓋が切られる時を。

「この先には、後戻りはなく。これより前にも、道はない。それは誰にも知れない戦いだけれども」

 熱が膨らむ。この冷気の中でも、雪の中でも、関係ない。肌の下に宿した火種、それぞれが抱える熱は麗花もまた宿しているものだった。

「誰かに知られずとも、今ここで知る。刃と拳のもとに知らしめ、己が有意を示せ。そしてこの空の下で、己の証明とせよ」

 熱が、十人分の熱がピークに達した。

 麗花は声をあげた。

「今より我らは死地に入る!」

 応、と十人分の声が重なった。十人の影が、めいめいに闇に消え、あとには静寂が残った。


 そして火蓋は切られた。


 第十八章:完

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