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監獄街  作者: 俊衛門
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第十八章:7

 水の量は決まっているので、シャワーも一人10分程度しか使えない。それは燃料も同じで、携帯用のボンベの中に入ったガスは一時的に水を温める程度のものしかなかった。

 省吾はわずかな湯を頭から浴びる。湯というよりもぬるい水といった感じであった。体をぬらして、あとはひたすらに体をこするだけである。

(本当に、あの野郎は)

 肌が赤くなるほどこすり、省吾は心中で毒づく。対象はもちろんイ・ヨウである。

 うまくやれとはどういうことだ。そもそも自分はそんなつもりでここに来たわけではなく、むしろ行うことはその逆であったはず。一緒にはいられない、仲間にはなれない。ここで告げるべき最後の言葉として、今生の別れとするべきだったのに。

 ここでユジンと過ごしてしまえば、それこそ離れることなど出来なくなる。未練を断ち切るはずが、未練に引きずられてしまうだろう。

 それならばそれでも良い気もするが、そうではいけないのだ。省吾と一緒にいれば、ユジンはきっと巻き込まれる。それだけは避けたいのだから。

 残った湯をかぶって、省吾は頭を振った。タオルで拭くと、こすりすぎた肌がひりひりと痛んだ。服を着て、シャワールームを出ると、金属棚に向かい合うように座っているユジンの背中が目に映った。

「なあ、おい」

 声をかけると、ユジンがぴくりと肩を震わせた。おずおずと振り向き、その顔にはなにやら緊張の色が見て取れる。

「あいたから」

「あ、うん」

 省吾と入れ替わりにユジンは脱衣所に入る。省吾はなるべく早くにその場を離れた。入り口近くに行き、鍵のかけられた鉄扉に手をかける。無駄だと分かっていたが、何度も押したり引いたりを繰り返した。あいかわらずびくともしない。

 次に倉庫の奥でみつけたバールを扉の隙間に差し込んだ。何とかこじ開けようと努めるが、やはり何度やっても無駄なことだ悟り早々にバールを投げ捨てた。汗を流しておいてまた汗だくになるほど馬鹿げたことはない。

 省吾は倉庫の中を見回した。三段重ねの鉄の棚の横にはタラップがついており、どこの段にもあがれるようになっている。食糧の乗っていない棚もいくつかあるので、寝るならばそこで寝れば良いだろう。倉庫内はかなり底冷えするので、どうせならば少しでも上で眠りたい。

 そうして見ていると、ユジンが出てきた。

「何をしているの?」

 ユジンはタオルで頭を拭きながら、こちらの様子を伺っていた。大して湯などかぶっていないはずであるが、その顔は少し上気しているように見えた。

「寝床を探していた」

「庫内で寝るつもり?」

「ああ、まあな」

 庫内でなければ宿直室になるのだが、そこで二人でいるわけにもいかない。

「夜は冷え込むわよ。暖房が入っているわけじゃないから」

「別に、慣れている」

 省吾は鉄棚のタラップを昇り、鉄棚の二段目にたどり着くと腰を下ろした。周りの食糧を片づけて一人分横になれるスペースを確保する。

「俺はここで寝るから、お前はその宿直室? だかってところで寝ればいい」

「でもそんなところじゃ風邪引いちゃう」

 ユジンが見上げてくるのに、省吾は心配いらないという風に手をあげた。

「野宿の経験は一度や二度じゃない。それに、風邪程度で済むんならこんな快適な場所はない。別にお前は気を揉む必要はない」

「でも」

「いいから」

 省吾が言うと、ユジンはあきらめたのかそのまま引き下がった。シャワー室の隣の部屋に行くのを見届けてから、省吾は支柱に寄りかかり、そのまま目をつむった。

 だが、しばらくすると誰かがタラップを昇ってくる音がした。目を開けると、ユジンが何かを小脇に抱えて、省吾の目の前に立っている。

「ユジン、何をして--」

「これ」

 とユジンは手に持ったそれを差し出した。

「毛布、ないと困るでしょう」

「気にするな。別にこのぐらいは」

「でも、ないと寒いし」

「それがないとお前が困るだろう。さっきそれは一組しかないと言っていたし、俺はこの程度ならば」

 省吾が言い終わらぬうちに、ユジンは右隣に座り、毛布を押しつけ気味に差し出した。顔を背け気味にして、しかし手だけは強情にそれを押しつけてくるのだ。

 省吾が躊躇していると、ユジンは受け取るまでは許さぬというようにさらに押しつけてきた。省吾は観念して毛布を受け取る。受け取って、それを膝の上に置いた。

 しばらく二人で並んで座っていた。省吾は毛布を手にしたまま、ユジンは膝を抱えたまま、二人して薄暗闇を眺めている。

 ちらりと、省吾はユジンを見る。ユジンは相変わらず顔を背けたままだ。何か思い詰めたように唇をかみしめた横顔が、少しだけ見えた。

「ああ、その」

 沈黙に耐えきれず、省吾の方から切り出した。

「この間は、助かった」

「何が?」

 ユジンの声は、硬い。

「いや、だからその……《東辺》に、連を差し向けたのもお前が進言してくれたからだって聞いたから」

「私は何もしていないわよ。礼なら金に言ってくれればいいから」

「その金が、教えてくれたんだよ。お前が言ってくれたおかげで、助けられたんだって」

「それは……」

 ユジンが一瞬、こちらを見た。

 互いの目があったと同時に、二人して目をそらす。そうしてまた長い沈黙があった。

「最初にも、助けられたな」

 今度も、沈黙を破ったのは省吾の方だった。

「この街に来たとき、あの青豹のナイフ使いにやられそうになったときに。あれがなければ俺はあの場で刻まれてただろうな」

 くすりとユジンが笑った。

「青豹だなんて、すっかりこの街の住人ね、省吾。普通の難民ならそんな風に呼ばないよ」

「ん、ああ。それも、そうか」

 どうも、調子が狂う。会話が上滑りしている気がする。省吾は咳払いをして、何とかごまかそうとするが、ごまかしきれるものでもない。

「どうしてあのとき助けたのか、教えてあげようか?」

「教えてもらわなくても。あの後、お前から仲間にならないかって言われたから」

「あなたは、仲間にはなれないって言ったんだっけね」

「で、薬代とか請求された。そんながめつい女の下になんて誰がつくかと思った」

「何それ、そんな失礼なこと考えていたの?」

「そりゃそうなるだろうよ」

 気づけば省吾も笑っていた。こんな風に笑って話せるなんて、久しぶりのことだった。

「でも仲間になってくれた」

「いや、それは」

「もう仲間だって、みんなそう思っているし。私が何よりそう思っている。けど」

 心なし、ユジンが少し身を寄せてきた、ように思えた。

「けど仲間って、対等じゃないとね」

「俺とお前が、対等じゃないとでも」

「私は何かしてもらってばかりだから。あなたに何かをしてもらったことばかりで」

「そんなことはない」

 強い調子で省吾は言った。

「その、東で、奴らから逃げるとき。脚を斬られて、動けなくなったときに、頭に浮かんだのがお前だったんだ。何というか、ここで死ねば会うこともないと、そう感じて。まあその後、色々幸運もあって逃げおおせたけど、あのとき、お前のことがあったから」

 どうして、そんなことを言うのか。

 そんなことを口にすれば、戻れないことは必至だ。それを口にすれば未練を引きずってしまうことは明白なのに。なのに何で、こんなことを口走っているというのか俺は――

「だから、何というか。俺はお前に助けられたんだ。金がどうとかじゃなくて」

 もはやユジンの顔をまともに見ることも出来ない。だから省吾は自分の手元にじっと視線を落としていた。

 また、沈黙が支配した。今度はかなり長い間、黙りこくっていた。互いに互いの反応を測りあうかのような、長い沈黙だった。

「省吾が連れ去られてから」

 その沈黙を、今度はユジンの方から破った。 

「ずっと考えていた。省吾が殺されたり、どこか手の届かない場所に行ってしまったら、私は耐えられるのかなって。それを想像したら、怖くなって」

 ユジンは消え入りそうな、どうにか絞り出しているかのような声だった。

「それで、居ても立ってもいられなくなって。東に救援に行くって言ったのも、ほとんど私のわがままで。馬鹿よね、そんなことするぐらいならば、あのときあなたと一緒に」

「あのときは」

 その声を打ち消すように、省吾が発する。

「あのときは、俺が逃げろと言った」

「そのせいであなた一人、危険な目にあわせてしまった。こんな仕打ちを受けてまで」

 ユジンが省吾の右足に触れた。まるで愛おしいものであるかのように、省吾の膝を撫でる。

「安いものだ、脚の一本ぐらいは」

 こうして戻ってきただけでも。そんな風に口走りそうになるのを、こらえた。

 代わりに省吾はユジンの手に、自らの手を重ね合わせる。寒さのせいか、少しだけ冷たい。

 その手が、徐々に熱を持ち、指先に血が通ってくるのを感じる。

 細い指だと思った、手も腕も。重たい棍を振り、敵をなぎ払い、縦横に駆けめぐるものとも思えぬほどの。この数十人ほどの、難民崩れのギャングは、こんなにも華奢な腕にのしかかっているとは。

 ユジンが寄りかかってくる。最初はおそるおそる、徐々にすべてを明け渡すように。省吾の肩にかかる柔らかな重みが心地よく、肌はすぐに熱を帯びてくる。

 手を引き寄せた。しかしまた押しとどめる。もう一歩、まだ躊躇うものを押しのけて、何もかも未練をかなぐり捨ててしまえば良いのにと。何度も自分に言い聞かせても尚、それを手にすることがはばかられた。それを、今、腕の中に抱えている。

 抱き寄せてゆくのは、どちらかともなく。近づいて行くのは距離だけではなかった。体温が一つとなってゆく心地は、我のみではない。どちらかが求めていることがあれば、それは自然に引き寄せあうのだから。

 からみあった指をほどき、肌をなぞる。かすかに身じろぎした彼女が吐息をもらす。さらに深くかき抱いて、見下ろす彼女の身体を包み込み、 


 そうして省吾はゆっくりと体を離した。 


 地下経路を出るまでは一人だった。後ろに視線を感じたのは、地下を出てからだった。

 朝の陽が差している。この季節には珍しい日の光だった。まぶしさに目を細め、軽く腕を伸ばすと、省吾は後ろをつけてきている人物に声をかけた。

「尾行ならうまいことやれよ」

「そういうつもりでもないが」

 背後のビルの陰から茶のコートを纏った男が現れる。男を装ってはいるものの、省吾にはそれが誰なのかということはすぐに分かる。

「昨日から見ていたことは知っていたが、まさか一晩ずっと張り付いていたってことか? 趣味が悪い」

「ハンドラーはエージェントの位置を、把握しておくものだ」

 こちらに近づくにつれ、低い声音から、急に高い声になる。隣に並び立つころには元の女声になっていた。ハンドラーはもはや隠す気などさらさらないかのようである。

「中までついてこなかったのは良いけど」

「中までついてこられたら、何かまずいことでも?」

「……いや」

 首を振って、昨夜のイメージを払拭しようとした。もはやそれは過去のものだ。二度と戻ることのない。

「何があったのか、大体想像はつくけどな」

 ハンドラーはからかうような口調で言うが、あいにくそれに乗ってやるほど省吾は暇ではない。

「船とやらは、もう来ているんだろう」

「逸るな。来るのは今夜。今は港に待機している」

 ハンドラーもまた、元のように冷たい口調に戻る。

「お前たちを二四時間以内に保護し、港の船着き場に集合かける。それが我々の、この街における最後の仕事だ。すでに燕は港にいるから、私の管轄ではあとはお前だけ」

「分かった」

 省吾はふと後ろを振り向いた。省吾が歩いてきた方向だった。

 一度だけ、その場で省吾は足踏みした。硬い土の感触を足裏に受ける。二度、三度、それだけ。そうしてから顔をあげた。

「未練でも残したか」

 女は特に関心はなさそうに言う。

「いいや、何も残していない」

 省吾もまた、平静さを含ませる。実際、気持ちは平らかだった。そうすることが自然に感じられた。事実何も残してはいない、最初からそんなものはどこにもなかったかのように感じられた。

「何というか、お前らしくもないな、省吾」

「どういう意味だ」

「別に、そう思っただけだ」

 ハンドラーが先に立って歩く。その先は港だった。

「らしいとか、らしくないとか」

 省吾はそう口にしかけたが、ハンドラーはもう何も言わなかった。だから省吾もその先の言葉を飲み込んだ。らしいとか、らしくないとか。お前に俺の何が分かる、と。 

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