第十八章:5
何度か足を運ぼうとして、しかし途中で引き返しを繰り返していたが、今日ようやく赴こうとしている。これ以上先送りにもできない。
何しろ明日だ、ここを離れるのも。
(さすがに引き延ばせない)
省吾は腰を上げた。
さっさと行って、用事を済ませればよい。そのはずだったが、いざ行こうとなると躊躇する。重い足取りは、別に義足のせいばかりではないだろう。道を歩く、いつもの通り道がやけに遠く感じられた。
もともとその気が無かったのだから、簡単だと思っていた。自分の立場を伝えて、この街にとどまることがないことと、彰たちに協力することができないことを話す。その全てをだ。しかしいざ実行しようとすると、どうしても気が重くなり、しり込みしてしまう。
もちろん、伝える義務があるわけでもなく、黙って街を発つこともできた。事実、そうしようとも考えたのだが、それはそれできまりが悪い気がした。たとえ気が向かなくとも、ちゃんと話をしたかしなかったかで随分な差がありそうで。
《南辺》の廃墟群に紛れて地下通路への入り口がある。地元のものでさえも分からない、ひっそりとしたたたずまいだ。何の変哲もない廃ビルの一つに、ストリートギャング『OROCHI』の根城があることを知っているものは、『OROCHI』の面々とレイチェル・リーを除けば省吾だけである。
思えばバカな連中だ。ここに地下通路の入り口があることを、もし省吾が誰かに売ったとすれば不利になるのはあいつらだというのに。省吾がそのようなことをしないのだと、完全に信じ切っているかのようだった。あの雪久でさえも、省吾がこの入り口を知っていることについては何も言わない。
もう、彼らの中では、省吾は仲間みたいなものであり、省吾もまたそう思い始めている。ここに来ることに、何の疑いもない。
だからこそ、今日のことは一層気が重い。
アジトの近くまで歩いたとき、なにやら機械の駆動音が聞こえてきた。重い鎚を打ち付ける音も。駆け寄ってみると、基地の入り口にイ・ヨウが立っていて図面を広げながら作業員に指示を飛ばしている。
「何しているんだ」
イ・ヨウは省吾に気づくと、図面から目を離して胡乱な目を向けた。
「真田か、また引きこもってたんか? 最近見ることがなかったからよ」
「傷がな、痛むんだよ。寒くなると」
これは嘘ではない。気温が低くなると、傷口が疼く。特に夜になると、その痛みは顕著になる。
「それで、これは? この前来たときにはこんなものなかったはずだが」
省吾の目の前、入り口をベージュ色のシャッターが覆い隠している。頑丈そうな鉄の板だ。何枚もの装甲を重ねてあるような作りをしている。
「これじゃ中に入れないだろう」
「ああ、これな。入るときはこう」
イ・ヨウが手元のスイッチを押す。するとシャッターがゆっくりと上がってゆく。完全に上がりきったころには、もとのように入り口が現れていた。
「防火扉みたいだ。彰がここの図面を漁っていたら、ここに備わっていたのが分かった。電気系統が死んでいないかどうか見てみたんだけど、どうやらちゃんと動くな」
「こんなもの、どうする気だ」
「連中がここに侵入してきたときの防波堤にするんだと」
「これで防げるものか?」
シャッターはかなり厚いものではあるが、相手が機械となるとどうか分からない。孔翔虎であれば破ってしまうかもしれない。
「奥にも、あと2、3カ所は同じようにシャッターがある。逃げながら、それらを全部下してゆくらしい」
「だがこれらはどれだけ放置されたものなのか分からないが……電気系統が生きているといっても、いつ壊れるか分かったものじゃない。それにこの程度を破れない奴らじゃないだろうし、これだけじゃなくてもっといろいろ罠を仕掛けとかなきゃならないだろう。あと、こいつで防げたとして、他に逃げ道を確保しておかなければ」
「何、意外と乗り気だな。うちのことそんなに心配してくれてよ」
彰が言うのに、省吾ははっとして口を閉ざした。イ・ヨウは無表情ではあったが、その目にかすかな驚きが混じっているように見える。じっと省吾の顔を見、省吾の反応が意外であるという風に。
「そんなんじゃない」
「まあいいんじゃないか? 俺はどうでもいいけど、お前を歓迎するって奴は一杯いるぜ、彰だとか」
「いや、だから」
歓迎されても困るのだ。決別するためにここに来たというのに。
ただ、ここでそれを言っても仕方がない。省吾は息をついた。
「ところで、雪久はいるか」
「雪久? さあ、知らないね」
「知らないって、どこに行ったのかとか分からないのか」
「あいつ最近、ふらっといなくなるからな」
「それじゃあ彰は」
「さあ、西の方にでもいるんじゃねえのか? レイチェル・リーと、なにやら話することが増えたからなあ、あいつ」
なぜか雪久と彰のこととなると、素っ気なく返事をした。その話題に触れられることがひとつの困難であるかのように目をそらし気味にして、しかし口調だけは平静さを保っている。
「話があったんだが……」
「話なら俺が聞くよ。何?」
「いや、ここで話すようなことじゃない」
周囲にはディエン・ジンを始め、他のメンバーが作業をしている。その中で話すというのも躊躇われた。
「なら戻ってくるのを待つんだな。いつになるか分からないけど」
「最大でいつまで待てばいい」
「彰の奴が西まで行ってるなら、まあ今日の今日ってこたないな。何だ、急ぎか」
「急ぎと言えば急ぎだ」
何せ明日までなのだから、残された猶予が。
しかしいないのならば仕方がないことだ。イ・ヨウに言付けをして帰るしかない。そう思ったとき、イ・ヨウがなにやら思いついたように声をあげた。
「ああ、そういやユジンならいるが、どうする?」
「え?」
「いや、雪久と彰じゃなきゃ分からない話ってなら別だけど。けどお前さん、他にも色々話もあるだろうしよ、あいつに」
「別にそんなものは」
だが、ユジンにはユジンで、話しておかなければならないことがあることを思い出す。ついでにもう一つの方も、決着をつけておかなければならない。
「そうだな、じゃあユジンに言付けを頼むか」
「そうかい。なら部屋にいるから、ちょっと呼んでくるか」
イ・ヨウの表に、微笑が差した気がしたが、すぐに元の無表情に戻った。ここで待っていろ、と告げてからイ・ヨウは部屋を後にした。
「食糧庫? 何でまた」
ユジンはイ・ヨウの言ったことをおうむ返しで訊いた。
「そうだ。ちょっとそっちにいってくれないか」
いきなり自室に押し掛けておいて、この男はずいぶん奇妙なことを言う。
「あのね、イ・ヨウ。食糧のチェックならもうすませたじゃない。昨日、あなたと私でさんざんやった。違う?」
「そうなんだが、どうも帳票と合わない気がする。俺じゃよく分からないから、ユジンに頼みたいんだが」
「だから、一緒にやったでしょう? そのときはちゃんと合っていたのに」
「でも今見たら合っていない。どこかでミスがあったみたいで」
「じゃああなたのミスでしょ。私はちゃんとやったんだし」
正直、疲れているので休みたかったのであからさまに不愉快さを滲ませてみせるが、イ・ヨウはあまり堪えていないようである。
「悪いが、俺はまだ防火壁の確認がある。そっちは外せないから、チェックはお前に頼みたい。一番ここが長いお前の方が正確だろうし」
「ちょっと何それ、私のミスじゃないでしょう? あなたがミスしたなら自分でやってよ」
「彰によ、今日中に合わせるよう口うるさく言われてんだ。頼むよ、今度埋め合わせはする」
「いや、そう言っても」
とはいえ、食糧の数が合わないというのは死活問題なのだ。現状を把握しないとどれだけ補給すれば良いのか分からないし、いざというとき全員に行き渡らないようでは戦いにもならない。そして資金、食糧、そうしたものの管理はユジンに一任されていた。
「分かったわよ、一つ貸しだからね」
「ありがたい」
なぜかイ・ヨウの顔が、一瞬だけしまりのないものに見えた。少しだけ気になったが、ともかくユジンは上着をひっつかみ、部屋を出た。
「ああそうだ、さすがに一人じゃ大変だろうから。後で助っ人寄越す」
イ・ヨウが後ろでそう言ってくるのを、ユジンは無視した。最悪な気分だった。