第三章:7
「ちいとばかし効いたな……」
列車の陰に隠れながら、雪久は呟いた。
日頃から持ち歩いている、血止め薬を太ももに塗りたくる。しかしそれでも傷口が疼いて仕様がない。
だが、と再び足に力をこめる。
「この程度じゃ、止まらんよ」
駆けだした。銃声が雷鳴のごとくに鳴り響く。
弾道が、黄色い線となって千里眼に写った。それらを掻い潜り、パイプで弾きながら再び戦場に躍り出る。
がっ、という金属音。めきりと骨が砕ける音。振り下ろす一手一手に全身全霊を注ぐ。
――何せ負けられねえ。
跳躍し、男の顎を蹴り上げた。
「俺の背中にゃ、『OROCHI』の全てがかかってんだかんな!」
叫び、飛ぶ、鉄塊を振るう。男たちが、血を撒き散らせて崩れていった。
「撃ち方やめぇー!」
戦場に、新たな声が響いた。その声に男たちがぴたりと射撃をやめた。
「皆、手を出すなよ。こいつは俺がやる」
ジャケットを脱ぎながら、一人の巨漢が前に出る。
ユーリ・ウロボスが、雪久の前に姿を現した。
「ふん、ここまでの奮闘褒めてやろう。だが、この俺が来たからにはそうはいかない。秒殺で首を極められ、折れるまでの数瞬お前は後悔する」
びしり、と雪久を指差した。
「この俺と同じ時代に生まれた事を」
「ああ、すまん」
雪久は気の抜けた声を出した。
「熱く語ってもらっているところ悪いけど……お前、誰?」
がくり、とユーリは肩を落とした。
「誰、じゃないだろうが! 我こそが『BLUE PANTHER』の新NO,3、そしてこの討伐隊の副長、ユーリ……」
「あ、ところでジョーはどこにいんだ? ジョーさえ叩きゃとりあえずは」
「人の話を聞けぇぇぇぇぇぇぇ!」
完全に無視されたユーリは、激昂し叫ぶ。興奮のためか、声が裏返った。
「人の店つぶしといて、何だよその態度は!」
真っ赤になって、怒り狂う。その様子を雪久はしばらく見ていたが
「ああ、なんか見た事あるよ、お前。ウォッカの専門店だっけ?」
「専門店じゃねえ! バーだ」
「そうそう、ウォッカ専門のバー」
と、ひらひらと手を振りながら雪久はため息をついた。
「悪いがゴリラ相手にしてる場合じゃねんだわ。ジョーはどこだよ」
「お前ごとき“クライシス・ジョー”が相手するまでもない」
そういってユーリは腰を落とした。身を屈め、両腕はだらりと低くする。
「我が、コマンド・サンボの前に敗れ去るがよい」
「はあ? なんだそりゃ。ちびくろサンボの親戚か?」
「違うわボケェェェェェェェ!」
再びユーリの怒声がこだました。
サンボは、旧ソ連で開発された徒手格闘術である。柔術、相撲、レスリングなどを融合させた、関節、投げを主体とした武術だ。スポーツとして行われるものもあるが、軍隊で採用されているそれは「コマンド・サンボ」または「コンバット・サンボ」と呼称される。
「んで? どうするってんだよ」
「一対一で勝負だ。貴様はその棒切れを使っても構わん。それでも、俺は負けん」
「そうかい」
雪久は投げやりに言うと、鉄パイプを投げ捨てた。
「じゃ、ハンデだ。あんまりボロ勝ちしても悪いからな」
「ほう、いい度胸だ。ならばその減らず口を聞けなくしてやる!」
ユーリが吠えた、と同時に雪久めがけて猛然とタックルを仕掛けてきた。
地面スレスレの、超低空のタックルである。一気に飛び込み、雪久の下半身に食らいついた。
「これでどう……」
だが。
崩れない。雪久は悠然とその場に立っていた。
「えーっと、これで終わりか」
「バ、バカな……」
ユーリは腕に、腰に力を入れた。だが、やはり雪久は倒れない。
「あのさ、そろそろ離れてくんない? 男に抱きつかれて喜ぶ趣味はねえんだよ」
「ふん、心配するな」
ユーリは雪久の腰に両腕を回す。と同時に
「これからが本番じゃあ!」
雪久の体を持ち上げ、地面に叩きつけた。
「……がっ」
雪久は頭を打った。すかさず右腕を取り、両足ではさんで腕ひしぎ十字固めにもっていく。雪久の腕が、伸びる。
「食らいやがれやあ!」
身を反らし、関節を粉砕せんとする。が
「……あれ?」
極まらない。腕は伸びているが関節を伸ばしきることが出来ない。
「それで?」
雪久は腕に力を入れていた。関節が極まらないのはそのためだった。
ユーリがいくら力をこめても、曲がらない。一本の硬い鉄棒のような感触である。
ばかな、とユーリが発するより先に雪久は身を起こした。両足でがっちりと上半身を押さえつけられていたが、難なくそれを払いのける。
「全く、退屈なお遊戯だな。真田の小手ひねりのほうがよっぽど効くぜ」
腕をとられたまま、立ち上がった。ユーリの巨体を腕からぶら下げた格好になる。
「死にな」
そのぶら下がったままのユーリの体を、壁に叩きつける。
脳天を、したたかに打った。口と鼻から血を噴出し、ユーリは地面にうつぶせになった。
「昔っから、ウォッカを飲む奴は早死にするって決まってんだ。今度から控えるこったな、ロシア野郎」
「ウォッカを……馬鹿にする……な」
そういって、ユーリは事切れた。
もはや、男たちは撃ってこない。
「どうした? クソ豚ども」
それどころか戦意はとうに失せている。各々鉄の筒を持ったまま、硬直していた。
悟ったのだ。目の前にいる小男、和馬雪久を跪かせることなど不可能である事を。野生の鹿が強大な肉食獣に敵わないように、この男には勝てない。そう本能で理解した。そして捕食される側は、天敵を前に逃走する以外にない。青装束のギャング達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「しょうがねえな、これから豚の角煮に仕上げてやろうかと思ったのに」
雪久は鉄パイプを拾い上げた。大きく歪んだその顔は、恐れを知らない幼子。しかし純粋無垢なそれではなく、狂気に満ち満ちた笑みだ。
「バラ肉で勘弁してやるか」
手にした鉄は朱に染まっている。雪久は逃げる男たちを追った。