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監獄街  作者: 俊衛門
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第十八章:3

 ベッドに寝転がって、天井を見上げた。

 空虚な闇が広がっている。灯りの少ないこの部屋、今はテーブルの上にあるランプ一つで照らし出されたこの空間では、ほとんどが闇の中に埋没している。今、灯りの元に照らし出されているところと言えば、テーブル周り、ベッドの端、そして省吾の手元――右手に掲げているネックレスのみだ。金色の鎖、その先にエメラルドグリーンの石が埋め込まれている。

 その石を眼にすれば、省吾はいつでも過去に、あの日に戻ることが出来る。焼け野原、何もない故郷の風景。それを思い出せば、いつでも胸の内に空虚さを抱くことができる。

 一輪の花を添えようと。幼心にそう思った日の光景だ。花なんてどこにもないと、それも子供ながらに知っていた。焼野原で、望むべくもないことなのに、それでも何かをしてやりたい。そうでなくとも墓標となる石は、瓦礫を積み上げたような粗末なものでしかないのだから。

「花のひとつもないんじゃ、しょうがないね」

 先生、と省吾が呼んでいたその人は、省吾の傍らにしゃがみこむと髪留めを外した。赤い石が埋め込まれた、案外洒落たデザインだった。

「一応、女の子ってことで」

 それが花の代わりになるか分からなかったが、とにかく先生はそれを墓の前に置いた。ただ石を積み上げただけの墓に。それがあるのと無いのとでは随分と違って見えた。

 省吾はそんな師に、感謝の意を伝えなければいけないと思ったけれども、思った言葉はどうしても口にすることができない。ただぼんやりとその石積みの塔を見つめることしかできなかった。

「花はそなえた」

 先生が立ち上がる。

「弔いは済んだ。だからこれで終わりだ」

「どうしてそんなこと」

 自分でも驚くほど枯れた声を、省吾は絞り出す。その声に、今の感情の何分の一かでも乗せることが出来ればいいのにと思った。こんな掠れた声では、何も表せない気がした。

「死んだからだよ、省吾」

 かつてないほど、師は冷たく言い放った。それが必要なのだと言わんばかりに。

「死んだものは、ここで忘れるんだ。無理矢理にでも」

「簡単に、そんな」

「ああそうだ、簡単なことじゃない」

 省吾は先生を見上げる。まるで憐れむようでもない、師の乾いた目が見据えてくる。

「簡単に忘れられるようならば、その程度なものだ。その人が自分に深く根ざしてしまっているのならば、なおさらだ。人が簡単に人のことを忘れられるなら、誰も神なんて信じたりしない」

「じゃあどうして忘れろなんて」

「それが必要だから。ただそれだけだ。お前にとって重要なことは、世界にとって重要なことではない。酷なようだけど、この子の死はあんた以外の誰にとっても、些事にすぎないんだ」

 省吾は一瞬、この師に掴みかかりそうになった。そうしたところで返り討ちになると分かっていても。一発でも殴りつけてやろうと。

 ただ、そうする前に師が言葉をつなぐ。

「私の言うことが納得できないのならば、今はそれでいい。けれどこれから先、生き延びようと言うなら否応なく忘れなきゃいけない。死者を悼むこと、誰かを愛すること、何かを慈しむとかそういう人らしいことはすべて。心を鋭くして、泥にまみれて砂を噛んで、ひたすらに獣みたくにね」

 相変わらず物言いは冷たいものだったが。

「それこそ、国を失った民はそういう扱いだ。人じゃないと誰もが思うし、人らしい感情を抱くことを彼らは決して許さない。お前は獣だ、虫けらだ。お前がいくら違うと言っても、誰もそうとは認めはしない」

「じゃあ、どうすればいいの」

 あまりにもそれは絶望に過ぎると思った。人がどうあろうと、自分は人間であって、それ以外ではないのだ。

「僕は僕だって、それ以外に一体何があるの? 人であることを忘れなきゃ、僕は生きちゃいけないの?」

「そう言ってくる連中が多いってことだよ、省吾。だけど、お前はお前だ。それに違いはない。だからそれを貫き通すための術を、私はお前に教えている」

 風が、吹いた。乾いた砂を巻き上げて、先生の黒く長い髪をたなびかせる。思わず目をつむってしまうほどの風であったのに、師は微動だにすることなかった。

「意を通す、剣だろうと拳だろうと。ただ在るがために在る。今あるすべてを燃やす。けれど世界と対立するのではなく、お前を取り囲むものですらも自己に取り込むための術を」

「よく分からない」

 省吾が率直な感想を述べると、初めて先生が笑った。

「まあいいよ、分からなくて。けれどそれを出来るようになるには、まだ時間がかかるからね。だから今だけは忘れるんだよ。過去にとわられるのではなく、過去を取り込み自らの血肉とする度量。それが得られるようになったら、ちょっとは私の言ったことも分かるようになる」

 そう言うと先生は首の後ろに手をやった。そうして首に下げてあったペンダントを取り外し、省吾に差し出す。

「けど、完全に忘れちゃったら、世間の奴らの思う壷だからね。今はこいつで我慢しな。自分が抱えきれない思いを外部の装置に託す。それが無くても大丈夫になったら、それは少しは近づけたってことだ」

 省吾はそのペンダントを見る。墓前の花となった紅の石と対になる、エメレラルドグリーンに輝く宝石が埋め込まれている。

「物は偽物だけど。これも代替品で悪いけどね」

 受け取ったそれを、省吾は首につけてみる。まだ幼い身体には、鎖がひどく長すぎた。胸元どころか、下腹部に届きそうなほどに。

 やがて輝いていた石は大分色もくすみ、省吾が成長するにつれて鎖はちょうど良い長さとなり、今ではすっかり馴染んだ感のあるそれ。すべて忘れるとして、しかし忘れないための象徴だったものは、今省吾の手の中にある。

(在るがためにある……)

 けれども、今それを手にしたところで、もはや何の思いもよみがえってはこなかった。あのとき、あれほどに悔い、あれほどに罪の意識にさいなまれ、怒りとも哀しみとも分からない思いにとらわれていたというのに。今ではそれは単なる石だった。先生の形見だという特別な思いはあるけど、ただそれだけだ。外部の記憶装置としての役割は、もはやなくなっている感じがある。

 ならばもう過去にとらわれているのではないのだろう。だが、先生があのとき言ったことを、省吾は未だ理解しきれていない。

 先生と別れて、一つだけ知ったことがある。忘れることは容易いということだ。誰に言われるでもなく、記憶なんてものは風化してゆくものであり、自分もそれに適応してゆく。考えてみれば当たり前のことだが、当時の省吾は忘れないことそのものが要であるかのように感じていた。

 簡単に忘れる、思いの丈の何もかも。もしかしたら、あのとき感じていたものは、簡単に忘れる程度のものだったのだろうか。そうでないと信じたい気と、どうでも良いという気もある。

(そんな程度か)

 そんな程度のものだから、誰かと関わりを持とうとも、深く交わることなどなかった。深く交わったとしても、浅くつき合おうとも、所詮は一過性のものだから。

 だから今だって。ユジンと生き別れになろうとも、簡単に忘れられることなのだろう。どれほど思っていたとしても、年月が経てば忘れる。これが平和なときならばつゆ知らず、難民として生きていけばそうなる――泥にまみれて、砂を噛んで、そうでもして生きていくならば思い出など邪魔となってゆく。生きていかないならば、死ぬしかない。

 ならば今だって、そうだ。今思い悩んでいることが、何年か後になってもそのままであるとは限らない。所詮、何か大きな力に飲み込まれてしまって二度とは浮き上がることのない思いの残滓として忘れてゆくのだ。

 だから、今回だって大したことはないのかもしれない。いつも通り、日々を過ごして、最後にはこの街を離れる。それでいい。

 こんな街に未練など残す必要は、どこにもない。

 一つ、天井に放り投げた。碧の石を空中に投げる。ネックレスは一瞬、闇の中に消えたかと思うと、すぐにまた省吾の手の中に戻ってくる。

 それを掴まえると同時に飛び起きる。そのままテーブル上のランプを掴み、灯りを消す。果たして室内は真の闇に包まれた。

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