第十八章:2
辺りは雪だった。
まばらに降ってくる乾いた雪は、まだそれほどひどく積もらないまでも、路上に薄い雪化粧を施すには足りる。アスファルトのすべてを隠しきれない、白い層が積み重なった、《西辺》の街並みだった。
早朝である。連日の通り魔に加えて、眠らない街もさすがに眠りにつくという時間だ。人通りの無い道、ネオンのすべて消えた道――そんな道を、一台のトラックが行く。濃緑の幌で覆われた軍用輸送車、およそ街には似つかわしくない無骨なフォルム。しかし、それを咎めるものなど誰もいない――だからこそのこの時間。
荷台には鉄鬼と扈蝶が乗り込み、その他数人の兵が抱えてうずくまっている。運転している私服兵も含めて、誰一人、何一つ発することはない。鉄鬼と扈蝶は向かい合ってはいるものの、皆と同じように黙り込んでいた。
扈蝶は負傷した腕を包帯で固定し、濃紺の作業着を着込んでいる。腰に拳銃を吊ってあるが、シグザウエルは先の通り魔との一件で破損してしまった。今あるのは、かつてヒューイが持っていたものと同じベレッタ製の自動拳銃だ。
しかし、今の扈蝶にはそれを扱いきれるかどうか分からない。腕も足も、傷を負っていない場所などないというほどだ。今は動くのもやっとなのだ。
それでも、武器を持たせないわけにはいかない。今から行くところは、在る意味では東辺よりも危険といえるのだから。
トラックが停まるのを受けて、周りの兵が立ち上がる。全員が全員、古びた襤褸を纏っている。格好だけ見れば、そこらの難民と見分けはつかない。ただし、それぞれが懐に拳銃を忍ばせてはいる。
鉄鬼が立ち上がると、扈蝶もそれに倣う。そうして二人して荷台から降りた。
《西辺》の光景とはずいぶん違う、荒れた野だった。西のビル群、南の廃墟、そうしたものとも一切縁のない。放棄地区に似た、瓦礫ばかりが散乱する場所。《西辺》から外れた、《北辺》との境目だ。
「ここから先は、徒歩で行ってもらう」
鉄鬼は初めて声を発した。扈蝶と、五名の兵は、ただ目の前の焼け野原を呆然と眺めているのみ。
「《北辺》に、西の者がいくと目立つからな。ここから歩いて北に入り、そこで金から得た情報を元に、例の機械の出所を探る。案内は、ええと」
「範首央です」
雪久や彰よりも若い、この少年は確か年のころは十四だったはずだ。浅黒い肌と彫りの深い顔、東洋系の顔立ちには見えないが、しかし言葉の訛りは現地語である。
「確か、彰が金の救出のために出した、捜索隊にいたのだったな?」
「はい。といっても、北に着いてからすぐに金大人が接触してきましたので、それほど詳しいとは言えないのですが」
「まあそれでも、他のものよりは分かるだろう。武装もそれほど良いとは言えないが、しっかり援護してくれ」
「承知。まあ私の援護など必要はないでしょうが――」
範首央はちらりと扈蝶の様子を伺う。扈蝶は、話を聞いているのかいないのか分からず、うつむいたままだった。
「傷を負ったお前が、こんな任務に就くべきではないとは思うのだがな」
身の丈が二メートルほどもある鉄鬼から見れば、扈蝶など子供のようなものだ。それがさらに小さくなっているのだから、鉄鬼はほとんど真下に向かって話すような心地にさせられる。
「来るべき機を待ち、それまでに傷を癒す。そうしておとなしくしていることも、また戦いのうちだ。レイチェル大人の手前、あまり強くも言えないが、俺は反対だったのだが」
「私自らが志望したことなので」
ようやく扈蝶が発した、かと思えば何ともか細い声だった。風の音にかき消えそうなほどの。
「それにしては元気がないようだが」
「恥じています、むしろこのようなことでなければ貢献できないことに。『マフィア』の機械に、手も足も出ず、来るべき機を待とうともそれに対応する力もない我が身を。こんなことでしか、お役に立てないことを」
「お前のそのクソまじめな所は、時としてはマイナスに作用するな」
鉄鬼は扈蝶の肩に手を置いた。
「そんな心づもりでは、北でも生きてはいられまい。お前が倒せなかった機械を、倒すための武器を手に入れるための、この《北辺》入りだ。お前が行く意味は、十分にある」
「恥を、晒すと。そう思ったからです。西にいたままだと」
扈蝶と鉄鬼のやりとりを、範首央ら他の面々が不思議そうに眺めている。いい加減さっさと行きたいのだという視線を送ってくるのだが。
あいにく扈蝶をこのままの状態で送り出すわけには行かない。
「恥を晒すだと? 機械にやられて、誰が恥だと思うものか。そんなもの、先に機械と対峙して十分分かっているはず。あれを恥とするならば、真田や『千里眼』などはどうなんだ? 機械と対して死んだものたちは。恥だ恥だとお前が言えば、それは即ち彼らを侮辱することにもなるのだぞ」
やや強い調子でそう言ってやる。と、扈蝶がはっとして顔を上げた。
すかさず鉄鬼は扈蝶の頭に手をやり、乱暴に撫でくり回した。
「わっ、なんですかいきなり――」
「命を拾ったってことは、まだ奴らと対することがあるということ。恥と思うならば、この北辺でその汚名を返上することを考えて見ろ。今から思い悩むことでもない」
「分かりました、分かりましたから、その手、やめっ……」
扈蝶がじたばたしだしたので、鉄鬼は手を離してやった。くしゃくしゃになった髪を直して、扈蝶は恨めしそうな目で見上げてくる。
「子供じゃないんですから、やめてくださいよそういうの」
「ほほう? 思い通りにならなくていじけていたのにか。まあ一度や二度、死線をくぐったところでこの街じゃ大人にはなれん。大人扱いされたければ、レイチェル大人の期待に応えてみることだな」
「言われなくとも」
ふくれっ面で扈蝶は言った。
「絶対に戻って来ます。何倍にもなった軍勢、引き連れてきますからね」
「おお、是非ともそうしてくれ」
鉄鬼が笑いながら言うのに、扈蝶は憮然とした風に踵を返した。慌てて範首央が後を追い、他の者も追いかける。
その背中を、鉄鬼は見送った。砂塵の中に消えて、完全に見えなくなるまで。
トラックを運転していた私服が、そろそろ戻りましょうと声をかけたところで鉄鬼は車に戻った。
だが、助手席に座りドアを閉めようとしたところで、再び目線を戻す。扈蝶の行った先――もう、姿を見ることは出来ないけれども。
「まだ何かあるんですかい」
運転席の私服が苛立ちを隠そうともせずに言う。所詮、街のチンピラなどこの程度だ。することさえ済ませて、小遣い程度の手間賃を稼ぎ、それ以上のことなどない。
だから鉄鬼の、今の心の内を漏らしても、こいつには何も通じまい。
「出せ」
鉄鬼はドアを閉めて命じた。エンジンがかかる音を聞く間も、鉄鬼は北を見つめていた。
確かに扈蝶は子供だ。それを子供のままに許さないのもまた、この街。けれども、子供に子供でいさせないことが果たして本来的なのか、分からない。子供が子供でいられないことが正しいことか――。
そんなことは考えたところで意味のないことだと知りながらも。そんな意味のない問いばかりが浮かんだ。正しさなどどこにも無い、本来のものなどここにはない。
車は走り、やがて荒野を抜けた。
ただの木材を刀の形に削りあげた、粗末な木刀を構える。
あまりにも不格好で、これならば普通の木の棒でも振っていればいいのではないかと思える。なにせ棒の先がわずかに尖っている程度でしかない。つくづく、自分の不器用さが嫌になる。
省吾は中段に構える。切っ先を棚の上にある花瓶につけた。一輪挿しには、花ではなく木の枝がさしてある。
息を吐く。呼気とともに体の力が抜けてゆく感覚を得る。腕の筋肉が詰まった状態ならば剣は振れない、剣を振るのは腕ではなく体である。
踏み込む。
袈裟に切った。
木刀の先端が枝の先を飛ばした。花瓶は倒れない。
そのまま一歩踏み込み、転身。右を向く。
踏み抜く、同時に突き込む。剣の先が何もない空を貫く。すぐさま体を転換、右に向けて振り切る。
瞬間、右の義足が床にめり込みバランスを崩す。慌てて体を戻そうとするが、踏ん張りが効かず、そのまま倒れてしまう。転んだ瞬間、顔面をしたたかに打ち付けた。
「痛った……」
よろよろと起きあがった、省吾の顔をのぞき込む者がいた。
「何してんの?」
燕は呆れ顔で、手を伸ばしてきた。省吾はその手につかまりながら立ち上がる。
「見て分からないか」
「肯定的に見て取れば、受け身の練習?」
「笑えないな」
木刀はどこへいったのか、と辺りを見渡せば部屋の隅に転がっている。足を引きずり、木刀を拾い上げ、また中段に構えた。
「リハビリってわけ? そんな体じゃ剣も振れないだろうに」
「剣も振れないだろうから、少しはこの足にも慣れておかないと。足の一本なくした程度じゃ、この街じゃ誰も優しくしてくれない」
そういって省吾は木刀を振った。下半身の支えがないためか、剣先に力が伝わり切れていない感じがする。
「それで、何でお前はここにいる。人の家に勝手に上がり込んで」
「あー、まあ何だな。あれ以来だし」
燕ははっきりしない口調で言った。
「しかし省吾、そんな体で『マフィア』とやり合おうってんじゃないだろうな」
「積極的にやり合うつもりじゃないが」
剣を握る位置を変えたりしながら振ってみる。長く持ち、短く持ち、両手の間隔を広くしたり狭めたりと。今のこの体、右足を失っている状態ではどんな風に持てば一番自然に動けるのか。それを模索する。
「けれど、黙っていたって奴らはここに来るのだろう。それを迎え撃つ準備はしておかなければ」
「でも」
燕は許可を願うように、省吾をちらちらとみる。そこらに座れと顎でしゃくったら、遠慮がちに椅子を引きずり出して座った。この辺りの検挙さはあの女にも見習って欲しいものだ。
「でもお前、監察官は全員解任だ。何せ大本がいなくなっちまったんだしな。俺も、あの女についてこの街を色々探るはずだったんだけど、全部無しになって、今は自分の身の振り方考えなきゃって段階で」
「そうだな。俺もそれを考えなければ」
省吾は木刀をベッドに投げ捨て、腰掛けた。
「監察官をクビになったということは、稼ぎがなくなったということだから。ここに居場所がなければ、どこかへ行くってなっても」
「何だかあんま焦ってないな、省吾」
燕が唐突に割り込んで言う。
「焦るって?」
「いやだからさ、監察官じゃなくなった、しかも俺たちの大本は殺された。『マフィア』が来るかもしれない、早く逃げなきゃって俺なんか思っているのに。稼ぎ云々も大事だけど、それどこじゃないんじゃねえかって話」
「そうか? これでも焦ってはいるが」
「いやいや、かなり余裕だよ。その証拠にこの部屋、逃げだそうとか言う準備まったくしてないし。素振りなんかしてまるでここに居座るつもりみたいに見えるぜ、省吾」
指摘されて、省吾は初めてそれに気づく。
「もしかしてさ、本当に居座るつもりか? ここに」
燕はやけに真剣そうに言う。省吾の本心を問うつもりであるかのようだった。それこそ省吾の考えが馬鹿げたものであれば止めようとでもしているみたいである。
「あの女が言ってたけど、ほかの特区の監察官たちは全員逃げ出している。あの女がいうには、まだ仲間のネットワークは完全には死んでいないらしくて、監察官たちを全員、特区外に脱出させているそうだ」
「なんだそれ、ずいぶん手厚い待遇じゃないか。どこで野垂れ死んでもかまわないみたいなことを言っておいて」
「慈悲とかじゃないさ。つまり、生き残っている監察官はわずかなりとも情報を持っている。そういう奴らを、むざむざ敵に殺されるわけにはいかない。だから半強制的に、監察官は逃亡させられているそうだ」
「あの女がそんなことを」
ふと気になって、省吾は燕に訊いた。
「待てよ、半強制的にってなんだ? それは任意じゃないのか?」
「お前なんか、特区で一番最悪な成海の、東に囚われたぐらいだ。たぶん、有無をいわさず召集されるだろうな」
思いがけない言葉だった。監察官の任を解かれれば、そのままお役御免ということで放置されるのかと思っていたのだが。
「で、ここに残るつもりだったのか? 省吾」
「いや、ここを出ることも、考えたには考えたんだが」
「ユジンのところに、転がり込むつもりだったのか」
今度こそ本心を言い当てられた気がした。
「な、何のことだ」
「隠すなよ、ここまで来たら。だけどよ、雪久や彰、ユジンたちと行動をともにしても、あいつらはそもそも、お前とは違うものだろ? まあ俺だってそうだ、今はもうあいつらとは違うものになっちまってる」
「だって、監察官は解任ってことで」
「解任ったって、過去そうだったって事実は変わらないんだ。『マフィア』ども、お前の面覚えてるからな。きっとお前を真っ先に消しに来る。そのときあいつらと一緒にいたら、あいつらも狙い撃ちにされるぞ」
「そんなこと」
分かっている、と反論しかけた。それを最後まで言わせなかったのは、燕がユジンのことを口にしたからだった。もし自分がここに留まれば、『マフィア』は自分だけでなく、自分とつながりのあるものにも攻撃を加えるかもしれない。
「まあ、ともかくだ。あのハンドラーの女がいうには、迎えは三日後には来るらしい。そのときまでに準備しとけってさ」
「お前は」
省吾が訊くのに、燕は不思議そうな顔をする。
「は、何?」
「いやだから、お前はどうするんだ」
「どうするって、そりゃ行くに決まってる。俺だって一応、監察官なわけだから。今は」
「でも、ほら。雪久とは揉めたんだろうけど、『OROCHI』の、ほかの連中について名残惜しかったりとかしないかと」
燕は、少しだけ眼を宙に泳がせた。何か一つ、言葉を失いかけたかのようだった。
「まあ、少しは気になるけど。雪久なんてどうだっていいけど、彰には世話んなったし、リーシェンなんかはまだ大丈夫かなってのはあるけど」
しかし燕は、やはり心は変わらないとばかりに言う。
「だけど、この街じゃ別れなんてそんなもんだ。死んでいようが生きていようが変わりない、俺だってあいつらの中じゃもう死んだものって扱いになってるだろうし」
それは確かに、この街ではそうなのだ。ここだけではない、国を失い、故郷を出てから、別れというものはある日突然に、ただ消え去ることのことを言う。何も特別なものではなかったはずだ。 省吾が消えたとしても、誰かが何を言うとしても、すぐに忘れる。そういうものだ。
「まあ繰り返しになるけど、俺らに選択の権利は無さそうだぜ。すべて召集、その後にどうなるのか分からないけど、ここに居続けるよりはいいかもな」
燕はつと、腰をあげた。
「3日あれば、十分だろ、省吾」
「何が」
「ん、だからよ。俺は未練なんてないけど、ユジンに未練残してるんなら。迎えが来るまでの間に、あいつに会うぐらいは。思いの丈ぶつけて本懐遂げるんなら、今しかない」
「俺は」
「3日だ、3日経ったらまたここに来る。準備なんてそんなに無いだろうから、今すぐにでもユジンのところに行っておけ。これから先も引きずって生きてくよりは、ここですっぱり区切りをつけちまえ。今のお前には、それが必要なんだよ」
そうして燕は出て行った。去りゆく燕に向かって省吾は言葉を投げかけようとしたが、何も言うことなく飲み込んだ。
ただ一人、部屋に残された。