第十七章:14
ビルの灯りを足下に見る――《東辺》の街並みの、一般的なメインストリートを臨み、通りの光は煌びやかな彩りに満ちている。通り沿いのビル群、ビルの合間を走るネオンサイン――光の激流は、まさしく闇という闇を消し去る存在である。
その光の及ばない場所がある。摩天楼から頭一つ飛び抜けて突き出る塔の最上部は、かつては観光客向けの展望台だった場所だ。建設当時はアジア最大の電波塔であったものの、現在では使われることもなく放置されている。行政特区制度が発令し、成海市が生まれた後もそのまま存在し続け、いつのまにか成海という街を象徴する建造物の一つになっていた。
「魔窟なんて呼ばれてはいるけれども」
麗花は足下の光を見下ろす。ここから見れば街の灯も小さなものに見えてくる。ここは光の及ばない場所、その場所こそが自分にはふさわしいとさえ思えるほどの。
「その象徴が廃墟だなんて、笑えない冗談ね」
「だが、世界最大級の廃墟だ。象徴としてはこの上ないのでは」
しわがれた声が割り込んできた。麗花はそちらを振り向かずに言う。
「クロード?」
「仰せのままに」
フランス語なまりの英語を操る、その声の主が言う。わざとらしい慇懃な態度を取るクロードの後ろには、《東辺》の灯の光を背景にして数人の人間が立っていた。
「どうなの? 全員、問題はないわけ?」
「検査の結果、平時の戦闘には支障がないようには調整出来ている。問題なく動けている、そのはずだ。なにしろ、私がそのゴーサインを出す前に暴れる輩がいるぐらいだからな」
クロードが軽くにらみつけた先、暗がりで壁により掛かる人物を、麗花は見た。右と左、それぞれの方向に、順繰りに。
「確かに、好き勝手やれとは誰も言っていなかった。おかげで西と南に、いらぬ警戒をもたれてしまったけれども、それについての釈明はまだなの? 二人とも」
「釈明とは、それが必要な者にこそ向けられる言葉。私には少なくとも必要がないものですね」
気取った口調で、長身の男が暗闇から一歩前に出た。背広姿に山高帽、樫の木のステッキをついている。ステッキの先には、まだ少しだけ血のあとがついていた。
「どの口が言う、黄龍の奴を取り逃がした奴がよ。始末もつけられねえんじゃ、言い訳の十や二十は用意しとこうな、フランス野郎」
麗花の左側から声。北京語のなまりが強い、乱雑な口調である。
「目立ちすぎたあなたが言うことでもない、王春栄。おそらくは一番警戒されておいて」
麗花は左の人物ににらみつけると、暗がりからその男が出てきた。タンクトップにカーキ色の作業ズボンという、やけにシンプルな格好をしている。ぼさぼさの前髪の向こうから、やたらと鋭い両目が見据えてくる。
「いんだよ、あんぐらいで。なんならあんたの心臓もひきずり出してやろうか? ノミみたいにちっちぇえだろうぜ」
「私にそういう口を訊いてただの肉に戻った者は、数知れない……」
クロードは、そうはいってもまともに目を合わせようとしなかった。王春栄はそんなクロードをせせら笑うように鼻を鳴らし、山高帽の方に向き直った。
「始末つけんならよ、完璧に仕上げなきゃなあ、ジョセフ。姿ばっちり見られておいて、逃げられてってんじゃいいとこなしじゃんかよ」
「一つ、訂正させてもらえば」
ジョセフは帽子のつばを指先でくいっと持ち上げた。細い目つきで軽くにらみつける。
「逃げられたのではなく、逃がしたのですよ。殺す必要もなかったのでね。ついでに言うと、私はあなたと違って粗雑ではない。あんなに汚く散らかして」
「どうせぶっ殺すってのに、汚いもクソもあるか。みみっちい奴」
「大雑把なよりは良いかと」
ジョセフと王春栄は数秒間にらみ合った。心なしか両者の距離がせばまった気がする。麗花が、そろそろ止めようとしたとき、別な声が響いた。
「止せ、二人とも。今はそんなことをしている場合ではないだろう」
ちょうど王春栄の後ろから歩み寄って来る男がいた。
編み笠を目深にかぶっている。表情はうかがい知れない。絣の着物に黒い野袴を履いている。身の丈は低いのだが、妙な迫力を醸していた。
「これからどうせ南と西に征くというのに」
「佐間。口出しするのか、下等なBグループ風情が」
佐間と呼ばれた男が、その言葉に露骨に反応した。
「確かに貴様よりは劣るかもしれないが、それとこれとは話が違う。訳もなく血筋を持ち出すまでもなく、ここでは貴様と俺は対等であるはずだ」
「あ? 対等? 何言ってんだお前、遺伝子型が劣れば個体としても劣る。常識で考えろ」
「血筋が劣るとしても、腕が劣るとは限らん。何だったら、一度試してみてもいい。ただしこの場では押さえろ」
「俺に命令するってか? 別にいいんだぜ、ここでやってもよ」
王春栄が唐突に構えを取った。
佐間はさりげなく右足を引き、半身の体となる。だがその時にまた新たな陰が二人の間に割り込んだ。
「やめなさい、今は」
涼やかな声だが、良く通る声でそう告げる。佐間はそれを受けて構えを解いたが、王春栄の方がかみついた。
「アニエス、お前そいつの肩持つんか」
ブロンドの長い髪。その艶やかな髪色を体現したような端正な顔立ち。まだ少女のようでもあり、しかし妖艶さを備えた佇まいを見せる。アニエスと呼ばれた女は青緑の目を向けた。
「そんなことをするために、ここに来たわけじゃない。それに、ここにいる者は皆、敵ではない。これから目的を果たす、仲間であるはず」
「そんな言葉がてめえの口から出るなんざ」
「何でもいいから、やめなさい。ここでことを起こしたところで、何も生まない」
挑発するかのような王春栄に対して、アニエスはただ静かに告げる。二人してにらみ合っていたが、やがて王春栄の方が肩をすくめ、舌打ちしながら退いた。
佐間もまた後ろに下がる。アニエスが振り向くと、ジョセフが苦笑いを浮かべて帽子のつばをちょっと持ち上げた。
「終わったかしら」
麗花が声をかけると、全員がそちらを向く。
「もめごとは仕事が終わってからにしてよ。そうでなければ私の監督不行き届きになる」
「それはそれはご迷惑を。私は降りかかる火の粉を払うだけなのですが」
「ジョセフ」
隣にいたアニエスがぴしゃりと発した。
「失礼、姉上」
ジョセフがおどけるように言って、麗花の方に向き直った。
麗花はため息を禁じ得ない。いくら目的のために集められたとはいっても、所詮は烏合の衆であることをまざまざと見せつけられる。といっても、まとまることに意義を見いだし、連れてきたわけでもないのだからかまわないといえばかまわないのだが。
「ともかく、全員揃ったところで、クロード」
麗花は、さっきから息をのんでいるクロードに声をかけた。クロードは我に返ったように液晶パネルに目を落とした。
「すでに通達したように、お前たちには《西辺》と《南辺》、それぞれに散ってもらう。基本的には目標の殲滅なのだが、その行為自体もすでに試験対象だ。お前たちには各、監視用ナノマシンが埋め込まれる。その評価によって、今後のお前たちへの対応も変わるから、そのつもりでいるように」
説明する間、クロードは若干緊張しているように見えた。麗花自身は何とも思わないのだが、これほどの人数――すべてに戦闘用のセルを埋め込まれた者たち――を前にすれば、何の力もない一般人は恐れを成すのだろう。《東辺》の灯りを背景にして居並ぶ男女――無手のものもいれば、武器を手にしているものもいる。あるものは小銃を携え、あるものは異様なほどの巨体を揺らし、またあるものは長柄の武器を担いでいる。皆が皆、麗花たちを見、ある種独特な空気を生み出している。
「それで、作戦は」
ジョセフが唐突に訊いた。
「考えてはいるのでしょうか」
「《南辺》と《西辺》の、大体の把握はしてある」
佐間が、麗花の代わりに答えた。
「おや、それはどういうことでしょうか?」
「どうもこうもない。お前たちが遊んでいる間に、西と南を俺が回って、下見してきたんだ」
「それはそれは、わざわざご苦労様です」
全く労うつもりもなさそうな口調で、ジョセフが言う。佐間はかまわずに続けた。
「ついでに『OROCHI』と『STINGER』、だとか言ったか。孔翔虎らと構えた連中も見てきた」
「接触したのですか?」
「いや、少し様子見しただけだ。こっちに気づかれたから、本当に垣間見ただけなんだが」
「何だよ、お前人に偉そうな口聞いておいて、自分はヘマしてんじゃんかよ」
と、王春栄。佐間は一旦、そちらをにらみつけておいてから言った。
「無論、細心の注意を払っていた。だが俺がつけていたのは両チームの中でもかなりの実力の奴ららしい。孔翔虎らを追いつめた、棍使いと縄標使いの女だ。さすがに奴らには隙がない」
「女……」
にわかに王春栄の目つきが変わったのを、麗花は見逃さなかった。
「女がいるのかよ、その『OROCHI』とかいうとこに」
「事前情報によれば」
と、今度はクロードが口を開く。
「『千里眼』の下に朝鮮人の女が一人、南でも名は知れているらしいな。孔翔虎以外、こちらが放った刺客も、奴によって倒されているらしい」
「へえ、女だてらに棍を振り回すんか」
王春栄がにやりとして、麗花の方に向いた。
「おい、南と西でどうせ担当分けするんだろ?」
「全員が希望に添えるとは限らないよ」
考えていることが露骨に顔に出る男である。麗花は半ば呆れながら言った。
「選別は、戦力のバランスと、各々の能力によって分けるから。そしてそれを決めるのは皇帝であって、私じゃない」
「なら、俺を《南辺》に振り分けるように伝えとけよ。お前、皇帝の女なんだろ?」
「そういう、下卑た発想は確かに《南辺》向きかもしれないね、王春栄」
麗花が侮蔑の視線を向けるのに、王春栄は少し目をすがめて、目つきを鋭くさせる。そのまま沈黙していれば、まさにその場で始めるかのように思えた。
「口には気をつけろよ。別に俺は、あんたの下についているわけじゃない。いつでもてめえなんかツブしてやれるんだからよ」
「それをやるのは、後の楽しみにしておきなさい。すべてが終わればいくらでも相手してあげるから」
麗花はそう適当にあしらってから、暗がりの方を向いた。
「皆に動いてもらうのは、まだ先の話になる。けれども、ようやくここで皆の働きを、世に知らしめることができる。その機会が与えられたことを、まずは喜んでも良い」
暗がりにいる連中は麗花の言葉に対しても、何かを言うわけでもなかった。ただ黙って聞いているだけだが、彼らがそうする理由は分かっていた。まだ自分に、『マフィア』に対して彼らは完全に心を許したわけではない。否、心を許すはずなどそもそもないのだろう。
それでもかまわない。彼らに好かれようなどと毛頭思わない。自分は所詮、皇帝の声を伝えるだけであり、彼らにとっては『マフィア』でさえも敵であるのだから。
「あなた達が行うべきは、ここで有用性を発揮して生き残る。もし認められれば生きられる。認めて欲しいならば認めさせる。それが唯一のこと」
王春栄が嘲るように鼻で笑った。ジョセフは薄く笑みを浮かべたままで、佐間は編み笠をぐいっと引き下げる。アニエスは無表情のまま。
背後に連なる者達は一様に黙り込んでいる。その中でも、あるものは鼻で笑い、またあるものは力強く頷いた。各々が違う反応を示し、そうしたすべてを麗花は見渡す。その先にある、《南辺》と《西辺》、足下の《東辺》の街並を背景にして浮かび上がる者達を。
夜が更けてゆく
第十七章:完