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監獄街  作者: 俊衛門
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第十七章:11

 扈蝶の目の前、十メートル先に男は立っていた。山高帽をちょっと持ち上げて、おどけた風に言う。

「逃げている間も、逃げきれる気はしなかったでしょう」

 いつの間に回り込んだのか分からないが、男は衣服の乱れもなく、全く息が切れていない。走ってここまで来たのであれば、少しは疾走した感があるはずなのに。それがないということは。

「機械ですね、あなた」

 やられた左肩を引いて、右の真半身に構える。そうして身体を真横にすることで少しでも相手に晒す体面積を小さくする。苦肉の策だ。

「その言い方は正しくもあり、正しくもない」

 すい、と男はステッキの先を開く。まるでこちらに誘いをかけているかのようだった。

「あなたの疑問はもっともです、私がどのような存在か。どこから来て何を成すか――大方知りたいことはそのようなことでしょう」

 心なしか男の身体の重心が下がったような心地がした。低い体勢から飛び込んでくるつもりか。

「ですが、それは些細な問題。機械であろうとなかろうと、私が何者であろうと、物事の本質とは関わりがない。それにも関わらず、時に人は幹ではなく枝葉にこだわる。あなたの知るべきは一体なにか? 深い洞察とは、自分に聞くこと、自らに耳を傾けること。それが一番大事なこと」

「何を訳の分からないことを……」

 扈蝶はさりげなく左手を腰に回す。ベルトに装着したそれを抜き、放り投げた。

 左手から放たれた円筒状の物体二つ――地面に激突するより先に白光を弾かせ、火花をまき散らして盛大に爆ぜた。男が一瞬だけひるんだ、かのように見えた。

 同時に扈蝶駆け出す。男がいる方とは真逆の路地に逃げ込んだ。男が追ってくるかどうか、確認もせず、ただ走り、迷路のように入り組む小路を曲がりながら、在る場所を目指していた。

 拠点。《西辺》にはいくつか『黄龍』の出先が存在する。残党狩りによっていくつか失ったところはあるが、それでもまだ完全にはなくなっていない。そこまで逃げ込めればあの機械だって、迂闊には手が出せないはずだ――。

「人の話は聞くものですよ」

 声がした。頭上からだ。

 見上げる、同時に上から落ちてくる、陰。

 扈蝶が慌てて身を引いた、その目の前にスーツ姿と山高帽が降り立った。

「お転婆なお嬢さんだ。舞踏会はまだ終わらないというのに」

 その声に、その表情には、余裕のほどが伺える。疲労の色や、切迫した様子の、ほんの少しでもあれば扈蝶の方も気の持ちようがあるのに。

「少し、きつめのお仕置きが必要でしょうか」

「あなたに仕置きされるなんてごめんです」

 なるべく低く扈蝶は構えた。そうでもなければすぐにでも入り込まれそうだった。刀を縦に、自らを砦のようにする強固な構え。それがどれほど通用するか分からないが。

 男が飛び込む。ステッキを手中でくるくると回しながら。間合いに入るや否や水平に振り抜いた。

 下がる、扈蝶。紙一重打撃を避ける。男は再度ステッキを回し、斜めに、縦に、すくい上げ、振り下ろし、突き出す。連続で打ち込まれるステッキを扈蝶は受けることも流すことも出来ず、ただ下がりながら避けるのみ。それでもステッキの先が前髪に触れ、首元を過ぎ去り、胸元をかすめる。

 防ごうとした。しかし防げない。打撃の一つ一つが重く、サーベルを合わせようものならたちまち細い刃は折れ砕ける。攻撃の合間を縫ってすり抜けようにも全く入り込める隙はない。あのステッキは少しでも触れれば骨を砕き、内臓を潰すだろう。そう考えれば近づくことも出来ない。

 ただ躱すのみ、下がるのみ。それだけでしか、ない。

 下がる足に何かが触れた。壁。扈蝶は壁際に追いつめられた。もうこれ以上は下がれない。

 男が振りかぶった。斜めに振り上げ、同時に腰を落とす。

 ステッキを下段に払う。打撃が扈蝶の足に伸びる。

 扈蝶が足を上げてやり過ごす。

 その瞬間、体のバランスを崩した。

(しま――)

 扈蝶が体を戻す間もなく、男が打ちこむ。真向よりステッキの打ち込み。

 がん、みしり。

 二種類の音が響く。男が振り下ろしたステッキを、扈蝶はサーベルの護拳で受け止め、受けた護拳はひどく歪み扈蝶の指を押しつぶしている。痛みに扈蝶は顔をゆがめる。

 だが倒れない。無我夢中でサーベルを振り回す。男が一瞬下がった、ところに前蹴り。わずかに男の鼻先をかすめ、山高帽を弾き飛ばした。

 ふいに目の前に、ステッキが差し出される。

 堅い樫の木目、それを知覚したときには扈蝶はステッキを首に押しつけられていた。そのまま壁際にまで押しやられ、押しつけられる。

「私はね、本当は貴女のような子供を殺すのは趣味ではないのですよ」

 ぎりぎりとステッキが、扈蝶の細い首を圧迫してくる。いたぶるようにじわじわと力を加えてくるのが分かった。徐々に首が締まり、気道が押しつぶされてゆく。

「けれどもね、往生際の悪い子供、しつけのなっていない子供を見ると、どうにも我慢出来なくなってしまう。悪い癖だとは自覚してはいるのですが、なかなかこれがうまくいかない」

 息が出来ない、どころか首の骨までもが軋む心地だ。もう、男が何を言っているのかすらも分からない。

「ならば、仕方ないでしょう。行儀のなっていないものに厳しいのは、どこの世でも同じ。それが我慢出来ないなら、我慢などする必要性もない。せめて醜くない形で送って差し上げましょう。頸骨一つ、砕くだけで」

 骨が悲鳴を上げている。意識が遠のく。声もでず、息も出来ず、しかし扈蝶は最後の力を振り絞って左腰に手を伸ばした。

 指先に触れた。

 抜き去る、円筒状の物体。

 人差し指と中指をすりあわせた。マグネシウムを仕込んだ指輪同士こすりつける。火花が散り、円筒の先に着火。その物体を男の足下に放る。

 続けざまに破裂音がした。閃光弾がいきなり足下で弾けて男は少なからず狼狽した。

 そこに隙が生まれる。

 渾身の力で扈蝶はステッキを払いのけた。新鮮な空気が一気に喉を通り抜け、一瞬せき込みそうになるがそれをこらえる。男が向き直るよりも先に扈蝶は飛び上がった。

 ほとんど助走はつけない――後ろの壁の凹凸を足がかりにして男の頭上を飛び越える。空中で身をよじり、男の背後に着地。すぐさま走った。

 右へ曲がる。雪で滑り、通路脇にあったゴミ箱を蹴とばして盛大にゴミをぶちまけて、しかし脇目も振らずに走った。ほとんど道順などもなく、ただ走るだけ走る。

 後ろから男がついてくる気配がする。振り向こうともしたが、それよりも走る方に意識を集中させた。そうでなくとも、少しでも気を緩めれば、ひしゃげた指先が痛みを主張してくる。その痛みにとらわれてしまえば、もう走れなくなるような予感がした。

 路地を曲がる。

 その瞬間、背後に殺気を受ける。振り向くと同時に目の前に、ステッキの先端部分が飛び込んで来た。反射的に横に逃げる扈蝶に、さらにステッキが二度、三度と浴びせられる。斜めに、真横に払い打つ打撃を、扈蝶は下がりながら避け、しかし避けているうちにまた壁に追いやられる。

「諦めが悪いのは」

 男はこれだけ走っても、薄笑いを浮かべて余裕そうな表情である。

「美しいとはいえない」

「そう」

 手近な武器はないかと扈蝶は辺りを見たが、石ころ一つ落ちていない。ここいらの路地は、ストリートにしては小綺麗過ぎる。

「ほめ言葉として受け取っておくわ」

 ならば、武器はもう己自身でしかない。扈蝶は握れる方の拳を強く握りしめ、低く体勢を取った。

 男が一歩前にでた。

 それと同時に飛び込む。扈蝶はまっすぐ男の懐めがけて走る。無我夢中で、ほとんど自棄ともとれる突進だが、そうではない。

 男が振り下ろす、その瞬間。男の手元に蹴りを放つ。右の回し蹴りがステッキを持つ手を弾く。

「やっ!」

 旋回。扈蝶が続けざま後ろ回し蹴りを打つ――男の首をそっくり刈り取った。堅い手ごたえを得る。

 男が一瞬ひるんだように見えた。その隙に扈蝶は身体を返して反対方向に逃げる。路地を抜け、通りに躍り出た。

(誰か――)

 辺りを見回した。少しでも人の群がいれば、そこに紛れ込もうとしたのだ。人通りは少ないとはいえ、メインストリートにはまだ人はいる。そこに逃げ込んで攪乱すれば――

「どうしました?」

 背後から声。背中が粟立つ感覚。

 振り向くとすぐ目の前にステッキを見る。体をそらして一撃を避け、空振りしたステッキは近くの街灯にめり込んだ。銀の柱が根本からぐにゃりと折れ曲がる。

 扈蝶はその電灯を盾にしながら後退する。

「逃げるのは、良い。けれどあなたの方も、限界ではありませんか?」

 男はステッキを肩に担ぎ、続いて手に添えて、最後に一回、手中で回した。ステッキだけ何か別の意志を持っているかのように動いた。

「諦めが悪い、それは自分自身をも傷つけることとなります。潔さは自分自身を助けることになります。どちらを選びますか、あなたは」

 男の物言いは気にくわなかったものの、確かに限界だった。どれほど長く攻撃を避けて、どれほど長い距離を走ったのか分からないが、疲労は極限に達している。今だって、左腕と右手が痛みを存分に訴えてきている。

 それよりも、絶望感が先に立つ。これほど逃げても逃げられないという思いだ。策というほどの策もないが、出来うることはすべてやったつもりだ。

 けれど、だからこその潔さなんて御免だ。

 ゆっくりと手を伸ばした。腰に下げた手榴弾、いざというときのために持ってきたものだ。

「潔い、っていうならそれでも――」

 もはや逃げることは出来ないだろう。生きて帰って、レイチェルに報告することなど不可能だ。

 しかしもう一つ出来ることはあるだろう。こいつを道ずれにしてしまえば、少なくとも他の仲間がこいつにやられることなどない。

 半歩ずつ近づいた。次の瞬間には男のステッキが伸びてきそうな気がしていた。

 それでも良いのだ、次に男が何か行動を起こせば手榴弾のピンを外し、男につかみかかる。機械の人間をどれほど押さえ込めるのか分からないが、一瞬だけでいいのだ、動きさえ止めれば。自爆する、少しの間だけ稼げれば。

 男が動いた。半歩だけ踏み込む。

 扈蝶がピンを抜こうとした、そのとき。いきなり男が動きを止めた。振りかぶったステッキをそのまま下段に打ち下ろす。

 その先端が扈蝶の足を捉えた。ステッキによる強烈な下段払い。扈蝶の身体が宙を一回転した。

 体勢を戻そうとしたときにはもう間に合わず。扈蝶は顔から地面に叩きつけられる。受け身も何もない、本当に無様にそのまま落ちた格好となる。

 起きあがろうにも力が入らない。伏したまま扈蝶は、手前に手榴弾が転がっているのを見た。ピンはまだ刺さったままだ。

 手榴弾を取ろうと手を伸ばしたが、それより早く男のステッキが阻む。軽く先端で手榴弾を弾いてやれば、手榴弾はゴルフのアプローチショットよろしく放物線を描いて道路の脇に飛んでいく。

「そのような選択も、悪くはないでしょうが」

 見下ろしてくる、男はこんな場面でもほほえみを浮かべている。この男にとっては自分など幼子をあしらうようなものなのだろう、何か微笑ましいものでも見るような。

 つまりそれは、自分が全く相手にされていないということである。

「良いでしょう、足掻くのであれば、それはそれで良し。ここで送るのは止めて差し上げます」

 と男は東の空を見た。薄く光が差してきている。夜明けだ。

「時間も時間ですからね。あなたの頑張りに免じて、ここで終わりにしましょう」

「待……て……」

 身を起こそう、身を起こそうと、何度も何度も試みる。そのたびに痛みや痺れが、身体のあちこちが故障を訴えてくる。起きあがることが出来ない、完全に敵の足下に伏した状態。それなのに。

「待ちな、さい――」

 それにも関わらず、男は自分を見逃そうというのか。痛めつけるだけ痛めつけて、そのまま命を奪えるのに奪うことなく

 こんな男に生殺与奪を握られたまま。

「私のことを、好きに吹聴してもかまいませんよ。あなたの仕事は本来そうなのでしょう。私はいつでもここに来るのだから」

 そういって男は離れた。

「いずれ、また」

 扈蝶は去りゆく男の方に手を伸ばしかけた。すぐにその手は力を失い、地面に落ちる。薄く積もった雪の層を握りしめた。

 どこかで誰かの大声が響く。死体を見つけたのだろう、仲間の死体を。誰かがこちらに駆けてくる足音を聞きながら、扈蝶は目を閉じた。


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