第十七章:8
しばらくは二人して、黙って歩いた。件の男は二人についてくることはなかったが、どこか分からないところで見ていないとも限らない。路地にランダムに入り、細い小路を行き、時折廃墟の中に入ったりしながら様子をうかがう。
「あの物腰、その道の奴かな」
路地を五回ぐらい曲がったところで、玲南が呟く。ユジンは前を見据えながら、小声で話した。
「たぶんね、難民にしてはちょっとこなれすぎている。もしかしたら……いえ、もしかしなくても『マフィア』の」
「やるのか? どうする?」。
「向こうの出方次第ね」
しかし、何メートルと歩いても、男の姿はどこにも見えない。どうやら撒いたか、あるいは最初からつけてなどいなかったのだろう。それでも念には念を入れ、二人は手近な廃墟の中に入った。背の低いビルで、《南辺》にしては特徴的な、円筒の形をした建物だ。
「会話聞かれたかな」
玲南は辺りを警戒しながら言う。今、二人は建物の入り口付近にいる。互いに壁に背をつけて、路をよく観察できる位置だ。あまり建物の奥深くに入ると袋小路になりかねないので、建物の一階部分、ロビーみたいになっている場所でとどまっている。
「分からないわね。でも、会話を中断させたいならその場で襲ってきても不思議はないし」
ユジンは一つため息をついた。気づけば衣服の下は汗で濡れ、下着までぐずぐずになっている。それほど緊張したつもりはなかったのだが。
「襲われたら厄介だったな。あたし今こんなんだし、やりあうってもそんなに頑張れない」
玲南は怪我している腕をちょっと掲げて見せた。片腕であれば自由に動けるとも言えず、攻撃の範囲も狭くなる。
一方のユジンも、万全とは言い難い状況だった。手持ちの武器は六連発のリヴォルバーと特殊警棒で、ここ最近は出歩くときにはそれらを衣服の下に仕込んで行く。しかし銃は持っていても撃つ方はからっきしで当たるかどうかも分からない。警棒の方は多少慣れているが、それだけだと少々心許ない感じがする。
「でも、あいつ。あんな奴がここにいるってことは」
「来ているんでしょうね、『マフィア』が」
「本当厄介なことで」
玲南はコートを脱いで、壁に寄りかかった。動き回ったので暑くなったのだろう。
「ねえ、まだ同盟って生きてるの?」
「あ? 同盟って」
「ほら、あなたのところと共闘するっていう」
「ああ、あったねそんなの。それで?」
「いやそれでじゃなくて……『マフィア』が《南辺》に来ているなら、また共闘した方がいいんじゃなくて?」
玲南は視線を宙に漂わせた。といっても本気で考えているわけでもなく、ただそうすればいくらかマシである程度にしか考えていないかのような仕草である。
「そんなの、金の心一つだよ。あたしらがいくらそうだといっても、あいつが耳を貸すことはないし」
「だって同盟そのものは金が」
「あんたのとこの、何だっけ『牙』の妹? あいつを気に入ったから手を貸すっつったわけだよ。気まぐれなんだ、基本」
「そういうこと」
だから、初期の方で金と遊撃隊の方では温度差があったのだろう。ただ一組織の頭が気まぐれというのはどうなのだろうという気はしないでもない。
「共闘するっていうなら、まあ必要になりゃそうするでしょ。けど『マフィア』相手じゃあたしらなんて所詮烏合の衆。やるっていうなら個々の体制を整えなきゃね」
「兵を増やすとか?」
「進んでギャングやりたがる難民がいるとは思えないけどね」
そう言って玲南は寝転がった。もう追っ手はこないと思ってのことだろう。
「でも、はっきり言って被害の大きさじゃ、うちよりユジンのところの方が多いんでしょ。遊撃隊は何だかんだで残ってるし」
「そうなのよね」
ユジンは思わずため息をつく。雪久は左目を負傷し、失明こそしていないものの『千里眼』を発動させることができない。韓留賢は足を砕かれ、他にも戦力と呼べる戦力は先の戦いで大分減った。まともに動けるものはユジンを含めてわずかしかいない。
「あ、でも」
宙を見上げながら玲南は、思い出したように声をあげた。
「でも、あいつは入るんだろ?」
「あいつって」
「ん、だから真田の奴は。あれ、もう加わってんだっけ?」
「あ、ああ……」
こういう時に過剰な反応を示してしまえばからかいの餌食になると学んでいたので、ユジンは努めて冷静に返すことができた。
「省吾は、まあ彼の場合ってよく分からないのよね。何度も誘っているけど、どうしてもこちらになびこうとしないし。でもピンチのときには駆けつけてくれるから、私は頼りにしているし仲間だと思っているけど……」
「けどなんだよ」
心なしか玲南はうんざり気味という風である。
「けど、私は省吾に何かしてもらってばかりで、こっちからは何も返していない。彼はいつも一人で、歩み寄ったとしてもどこか拒んでいるみたいで。少しでも返したいから、仲間になってって頼んでいるけど、彼はそのつもりはないみたい。それでも何かの時には助けてくれて、今回も助けられて、それじゃいけないって思っているけど、省吾はそんなことも気にしないみたいで――でも少しでも彼の助けに、私だってなりたいのに」
「あーもう分かったよ」
玲南がいきなり制止しにかかった。
「そんな熱っぽく語って、あたしはあいつの状況を聞いたけどのろけていいとは言ってないよ」
「な、のろけるなんて――」
「心配しなくても、その辺りの事情は金の奴から聞いてるからさ、誤魔化そうったって効かないよ」
玲南はいたずらぽく片目をつぶり、すべて心得たというような顔をする。
(……あのバカ)
やはり、先日の一件だ。金のことだから言いふらしてまくっているのだろうとは思っていたが。今度あったらどう落とし前をつけてやるべきか。
「それでさ、ユジン」
ユジンが想像の中で金のにやけ面に蹴りを入れているところで、玲南が不意に話しかけた。
「何」
「いや、もう寝たの?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「え……」
「だから、真田とヤったのかどうかって話だよ」
みるみる体温が上がるのを感じる。意識せずともそうなるのは、自分がそういうことに慣れていないからか。
「いきなり何を、そ、そんなことを――だいたいあなた、こんなところで何てこと口走って」
「何あわててんだよ、まさか生娘ってわけじゃあるまいに――あれもしかしてそうだった? あれ、何かごめん」
玲南はなにか哀れむような目になったが、ユジンはそんなことを気にしていられる場合でもなく。
「そういうことじゃなくて、こんなところでそんなことを、だいたい省吾と私はそんなんじゃないし」
「なんだかえらい親密だって話じゃんか、いつにもまして」
「な、仲間だから……」
「取り乱したっつったっけねえ、その辺詳しく聞こうか、なあユジン」
結局はからかいの餌食となってしまう。玲南が問いつめてやろうとするその姿勢はまるっきり金のそれと同じだ。
「このボスにしてこの部下あり……」
「何か言った?」
「いえ、変わらないなと思ってあなたたち。そんなどうでもいいことに熱を上げられるなんて」
「ま、あたしも金もいつ死ぬか分からない身だからね。おもしろそうなもんがあれば食いつくんだよ」
そのおもしろそうなことが自分であるということが、どうにも納得がいかない。
「けどさ、まじめな話。こんなことしてりゃあんただってそう、いつ死ぬか分からないってのは誰も同じだよ。今生きてられるのはラッキー、死ぬのは今このときかもしれない。あたしら、すでに死んでる人間なんだ」
「それは、まあ」
そんな改めて言われるまでもないことだった。難民として飢えて死ぬか、ギャングとして銃弾で死ぬかの違い、どのみちここでは長く生きようとは望めない。
「だからだよ、だから生きてるうちに後悔しないようにすることも、まあ大事なんじゃないか? あんたが思うようにすることが、それが可能なら可能なうちに済ませておけば。まあ今際の何秒くらいは安らかに逝けるかもしんないよ」
結構気楽に言ってのけるが、玲南の言葉はそれだけに重く響く。だけど、それは妙に説得力があるものだけれども、言葉そのものにも違和感があるのは確かだ。
「玲南は」
その違和感の正体に気づくのに、時間は要らない。
「玲南は、後悔しないようにしているの? 何も後悔なく生きて、いつ死んでもいいようにって」
「何だい、あたしのことなんてどうでもいいだろ」
「答えて、あなたは死ぬこと前提に話を進めているけど、私は死ぬために戦っているつもりはないよ。生きるために戦って、生き残るために誰もが懸命になっている。もし、あなたの言うように後悔のないように生きようとつとめるなら、それはいつ死んでもいいとかそういうことじゃなくて」
「きれいごとってね、ユジン」
玲南が立ち上がった。負傷した右腕をかばうようにコートを羽織る。
「あたしは別に嫌いじゃないよ。あたしだって簡単に死ぬつもりはないし、もちろん生きるために死にものぐるいだ」
「なら――」
「だけど、死ぬことだって考えてる。うまく言えないけど、あたしにとっては生きることも死ぬこともそんなに差はない。たぶん、金だってそうだよ」
何か玲南は、らしくないことを言う。
「哲学的ね」
「そんなんじゃない、偉そうなこと言ってもまとまらないしね。けど、明日死ぬかもしれないって思うことと、生き延びるってこと、そんなに矛盾してない気がするんだよ」
ユジンは、やはりすべて納得することもできず、しかし言わんとすることも分からないでもない気がしていた。確信するには遠いけれども、言葉にしなければどうにかそれと分かる感じである。
「あなたって不思議ね」
「そうか?」
むしろそう評価されることが不服であるかのように、玲南は訝しむような顔になった。
「ま、ごちゃごちゃ言ったけど、つまりはうまくやれってことだよ。あんたは否定するかもだけど、心が決まってるんなら早めに決着つけな。色恋い沙汰なんて、こんな街であるもんじゃないし」
もはやはっきりとそう告げられると、返す言葉もない。自分はやはりそうで、そしてそれは傍から見ていてもそうなのだろう。
「玲南は」
去り際にユジンが言った。
「あ?」
「玲南は、そういう後悔とかしたことないの?」
「どうだかね」
そう玲南は投げやり気味に言ってのけた。