第十七章:6
《西辺》はヒューイの反乱以前に戻りつつある、そんな印象は誰しも抱いていた。
それはレイチェルが《西辺》に戻ってきたことが大きい。崩壊した本部に再び拠点を構え、手足となる私服兵もかき集め、以前より規模はだいぶ縮小したものの『黄龍』は組織としての機能を取り戻そうとしている。徐々に、レイチェル・リーが主だった頃の姿に戻りつつある。
本部の、レイチェルの自室に戻ることもまた、あるべき姿になるためのものといえた。
「ちょっとみない間に、悪趣味な部屋になったものだ」
レイチェルがかつていた部屋は、調度品の類はすべて片づけられ、代わりに木人やらトレーニングチェアやらが据え付けられている。レイチェルはこの部屋に明代の文化を残した絵画や壷を飾っていたのだが、ヒューイの目にはそうしたものは邪魔だと写ったらしい。マホガニーの机はそのままだったが、あとは見るも殺風景な空間になっていた。
「絵とか骨董とか……結構高かったんだけどもね、どこぞへ叩き売ったかそれと処分済みなのか」
「ヒューイには、価値など分かりますまい」
両拳を開いたり閉じたりを繰り返している鉄鬼は、ようやく最近になって腕が回復したばかりだ。両腕を折られたり、雪久にぶちのめされたりと散々な目にあったのは何も前線にいた者たちばかりではない。
「しかしこの木人はまた。どうしてこんな状態に」
扈蝶は部屋の隅においてある木の残骸を見やる。木人は部屋の中に二つあった。一つは中央に鎮座してるがもう一つは両断に割られた状態で、脇の方に押しやられている。切断面は刃物のようなもので切られたようになめらかだが、この巨大な丸太を両断できるような人間が、この世にいるのだろうか。
「まさかヒューイがこれを」
「確かめようもないが、それよりも。二人に集まってもらったのは、ここ最近のことだ」
思えば側近連中で寝返ることがなかったのはこの二人だけだった、とレイチェルは思いながら机の上に写真の束を放る。扈蝶と鉄鬼がそれぞれ写真を眺め、一様に顔をしかめさせた。
「どこでこんなもの手に入れるのですか」
鉄鬼が手に取ったのは、脳天を割られた男の死体である。後頭部がぱっくりと割れて赤黒い肉が覗いている。
「その男は、最近集めたばっかりの私服だ。《西辺》の第三ブロックに駐在させているが、その拠点を何者かに襲撃された。そいつだけじゃなく、全員が同じように頭をかち割られていたよ」
男の出で立ちには、『黄龍』の構成員であることを表す黄色が見受けられる。それだけで『黄龍』を表す意味だと、この街では受け取られるが、その黄色を的にかけるということはすなわち『黄龍』に弓を引いたと見なされる。だからこそ、最初の衝突、雪久や省吾が私服を蹴散らしたときもレイチェルが動いたのだ。
「いったい誰が」
扈蝶は写真から目を背けつつ呟く。この娘は散々血を浴びていながらも、凄惨な死体には拒否反応を示す。もっとも死体に慣れきってしまうことがよいことなのかどうか、レイチェルには分からない。
「例の一件から、『黄龍』が弱体化していると踏んだ輩が、攻撃を加えたのでしょうか」
「あるいはヒューイの手の者、残党がまだいるということでしょうか」
鉄鬼と扈蝶は二人して腕を組んだり首を傾げている。
「ただのギャングならこれほどの腕はないだろう」
「腕とは」
レイチェルがいうのに、鉄鬼が問うた。
「一撃で頭をかち割られているというのがね。鈍器で殴られたのは確かだろうけど、この傷を見る限りでは余計な傷も争ったあともない。ただの一撃で、しかも頭蓋骨を砕くほどのことができるものがいるとは思えないし」
「確かに、そうですね。そもそもギャングなら銃かせいぜいナイフを使うでしょうし……」
ちょうど扈蝶が手に取った写真には、頭どころか顔全体がひしゃげた死体が写っている。顔の右半分が完全につぶれて、左半分はきれいに残っている状態であった。こぼれた脳髄はあたりに飛び散っていて、男の残った方の顔は驚愕の形相のまま固まっている。抵抗する暇も与えず、顔を吹っ飛ばしたということだろうか。
「《南辺》での状況も、少し似ているかもしれませんな。あちらでは斬殺死体だが、やはり抵抗も許されずにやられた風で」
「では、レイチェル大人。やはり」
二人の目がレイチェルを向き、レイチェルが小さく頷いた。
「全拠点に通達を。守りを堅くして、しばらく我々は地下に潜るようにと。私服兵には今後、カラーを外すようにと伝えて、陣容を整えるまでは召集しないように」
「承知」
鉄鬼がうやうやしく一礼する。次にレイチェルは扈蝶に向き直った。
「それと、扈蝶。あなたには第二ブロック周辺の調査に当たって。私服を十名ばかり貸すから、下手人を突き止めて欲しい」
「心得ました」
意外なほど明るい声で、扈蝶は了解を示した。敬礼のまねごとのような手つきまでつけて。
「ただ、もし見つけてもなるべくなら交戦を避けて。やむをえなく接触した場合も身の安全を優先して回避してかまわない。連中が送り込んだ何者かであれば、あなたがいたとしても敵うかどうかも分からないから」
「逃げ足は速いですから、大丈夫ですよ。何だかんだでヒューイの手勢には捕まりませんでしたから。誰かさんと違って動きは良いんですよ」
「俺のことかい、そいつは」
鉄鬼が噛みついたのを受けて、扈蝶はますます調子に乗り出す。
「別に誰とも言ってないですよ。ただ大きさと足の速さは反比例しますからしょうがないですよ」
「言わせておけば」
鉄鬼が腕をのばして軽くこづこうとするのを、扈蝶はひらりと身を翻して避ける。鉄鬼はムキになって捕まえようとするが扈蝶はその手の下をすり抜けては逃れる。何度か繰り返して、しかしそのうち鉄鬼の方が息が切れてしまった。
「まあまあ、足の速さだけが戦いじゃありませんから」
扈蝶がからかうのに鉄鬼は何か言い返そうとしたが、息があがって何も言えずにあえいでいる。扈蝶は得意満面に胸を反らしている。
レイチェルはそんな二人のやりとりを見て笑い、そしてふと窓の外を見た。
空は曇り。今にも雨が降り出しそうな寒空だった。まるで先行きの見えない気分を代弁するような空だが、この街ではそもそも先行きが見えた試しなど無い。
その時目の前を、白い筋が流れるのを見た。窓の外に一つ、また一つと雪の粒が舞い落ちてゆく。