第十七章:1
雨の音が聞こえた。
今年最後となるかもしれない、冷たい雨だった。過ぎ去る秋の終わりとともに冬の訪れを予感させるに足る氷混じりの雨。降り注ぐそれが戸板を叩き、雨樋を伝い、地面に落ちるまでの音を、男は闇の中で聞いていた。
それとなく見るにはちょうど良いが、目が慣れなければ難儀するという程度の薄暗闇。男のいる場所はだだっ広い板の間で、端から端にたどり着くまでにはそれなりの距離がある。その端も、今では闇の中に埋没している。
男は暗がりの中であってもはっきりそれと分かる、白い胴着を着込んでいる。柔術着に身を包み、馬乗り袴を穿き、腰には長尺の刀を差している。
常寸の刀とは違う、刃渡りは3尺3寸ほどもある大太刀である。太刀といっても反りは通常の刀と同じである。その長刀を腰に差し、男は正面に向かって座っている。
その座り方も独特なものである。左の踵の上に尻を乗せ、右の踵を左の臑につける。両のつま先と左の膝のみで体重を支え、右膝は浮かした状態。蹲踞から右膝を開いたような形だ。その状態を保ち続けて、10分ほどは経っているだろうか。男はじっと、正面に申し訳程度に備え付けられた燭台を見つめていた。
蝋燭の、ぼんやりとした光が照らし出すのは、神棚。そして神棚のかかる壁面には、一枚の旗が貼り付けられている。
かつて存在した国の旗だ。白地に鮮やかな朱の円が描かれていて、その朱の円は日輪を表している。戦後になって掲げることは許されず、その国のあった場所は特区ですらないただの荒れ野となっている。
旗と対峙して、男は座っている。何か、感慨深さを演出するでもなく、そのままの格好で、ただじっと――
ふいに音がした。何かが板の間を叩く音。
その音が響くか響かないかの間で男は刀を抜いた。腰を浮かす、それと同時に長大な刀が鞘走り、白刃が引き抜かれて空間を斬る。一文字に切りつけ、切りつけたまま止まる――すべて一挙動。
そのまま停止していると、明かりがつけられた。それによって男のいる場所がすべて照らされる。板の間ばかりが続く部屋が明るみに出た。
「見事」
声がする。男は納刀してから振り向いた。
男の後ろに、男が立っている。紺の着流しに金茶の羽織りを身につけた、中年の男だ。白髪の混じった頭をかき、しかし気配もなく近づいて、立っている。
「工藤さんですか」
「なかなか良い抜刀だったな。起こりが少し見えたが、反応は良い」
工藤という中年男はからからと笑い、男の正面に座った。
「まだまだということですか」
「なに、最初に比べたらずいぶん良くなった。ここに来たばかりの頃は、抜くことすら出来なかったのになあ」
感慨深く工藤が言うのに、男は長刀を帯から抜き、右側に置いて座り直した。今度は正座だ。
「改善点はいくらでもありますから、抜刀出来る程度では」
「そう焦りなさんな。剣に関しちゃ素人だったお前さんがここまで出来るようになった。自分を甘やかすのはいかんが、出来なかったことが出来るようになったことを認めるってことも大事だぞ、宮元」
「恐縮です」
そういって男は――宮元梁は頭を下げた。
「ここに来てどのくらいになるんだ」
工藤と呼ばれた中年男が、梁と差し向かいに座る。工藤が崩せと言うのに、梁は一礼してあぐらをかいた。
「夏からですので、まだ3、4ヶ月といったところでしょうか」
「ほう、それだけでよくここまで習得出来たものだな。やはり体が出来ているから、上達の早いのだろう」
「剣と空手では、それでもかなり違うところがありますので。最初は難儀しました。特にこの」
と、梁は3尺3寸もの大太刀の柄に触れる。
「この長大な刀を、趺踞という不安定な姿勢で抜く。これだけでも大変なのに、これを一挙動で行うことは、体全体の協調が必要となる」
「まあな。しかも本来、それは二人組でやるものだ。互いに向き合って密着し、脇差の相手を制する。やってみれば、これはなかなかにきつい」
工藤がいつのまにやら徳利を用意していて、杯を二つ取り出した。一つに注ぎ、もう一つを梁に渡す。
「やるか?」
「いただきます」
工藤がついだ酒を、梁は一息で飲み干した。芳醇な香りが鼻を抜け、しばし余韻に浸る。
「いい飲みっぷりだな」
と工藤が徳利を傾けてきた。
「お前さんの国の酒もいいけど、こいつも悪くないだろう」
「どの国のものだろうと、所詮手に入る酒はまがい物ばかり。北辺はおろか、成海全体見ても唯一まともな酒が飲めるのはここだけですよ」
「独自のルートがあるんだよ」
工藤は自分の杯に、二杯目を注いでいる。
「《南辺》や《西辺》、《東辺》の連中ですら知らない、な」
「《南辺》と言えば」
梁は杯を置いて、居住まいを正す。
「支援を断ったそうですね」
工藤は手を止めて、興味深そうに梁をみた。
「支援とは」
「南の、ギャングどもの中から。救援を求めてここまで来た者がいたと」
「ああ、それな」
杯に残った酒を煽って工藤は言う。
「気になるか? お前さんの古巣だものな、《南辺》は」
「古巣というほど思い入れはありませんが。ただ、装備を整えたり兵を増やしたりと、準備を進めていたにも関わらず、打って出るということがないというのは」
「まだ時期じゃない、それだけだよ」
工藤が徳利を差し向け、梁はそれを受ける。梁の杯をなみなみ満たしたところで、徳利を引き下げた。
「『黄龍』を狩るのに兵を貸したところで、『マフィア』どもを引きずり出すには至らない。所詮、『黄龍』だって東の奴らに踊らされているだけだろうよ」
「機械が出張ったと聞いていますが」
「それ、それこそが『黄龍』が道化にされている証拠。『マフィア』が動くなら、最初っから『マフィア』として動くはず。何だって黄龍に、機械を派遣させるんだって話だ」
工藤が杯の半分まで注いだところで、酒がとぎれた。徳利を逆さに振っても、酒は二三滴こぼれる程度。工藤は残念そうに徳利を倒した。
「しかしまあ、連中の考えることも分からんね。何がしたいんだか、ギャングを粛正したいなら回りくどいことしなきゃいいのに機械を差し向けるとなると……ああ、そういえばその機械ども。倒したのはお前の連れ合いだったっけな? 確か、『千里眼』とか呼ばれている」
「別に連れ合いというわけでは。この街に来たときに、たまたま手を組んだだけで」
「でも仲間だったのだろう?」
「敵だったこともあります」
しかもつい4ヶ月ほど前、最近の話だ。敵として相見え、本気で命のやりとりをしたのだ。
しかし敵である理由だった『BLUE PANTHER』を潰した。だからもう敵である必要などないのだが、『OROCHI』の者を手に掛けたのだから、今更味方にもなれない。今もし会ったとしたら、雪久とはどういう関係となるのだろうか。妹を――舞を託しているのだから、少なくとも敵ではないのだろうが。
「しかし、南の奴らがここに来ることなんて珍しいことだな」
「私が《南辺》にいたときは、《北辺》とは何もない場所だと思いこんでいましたから。よほどのことがない限り、北まで出張ろうとは思いませんよ」
「ま、確かに何にも無い。何せ掘っ建て小屋みたいのが並んでるばっかりで、あれを見ればまだ南の方がましだって思えるな」
「こんな道場が建っている時点で、何もないとは言えませんよ。まして、機械の部品が手に入るなど。どこでも禁制のものであったはず」
禁制であったからこそ、雪久やビリー・R・レインがあそこまでの優位性を保っていられたのだ。だから難民くずれの雪久たちが、南辺でどこにも潰されずに済んだ。
だが、ある時優位であったとしても、それが永遠に続くなどということはあり得ないのもまた事実。
「南、『STINGER』やらの長。そいつに機械の脚を、与えたそうですね」
「与えたっていうか、それなりの取引はしたんだがな。しかも俺が直接やったわけじゃない」
「どちらにしても。あの機械の脚が《南辺》に渡れば、奴らも《南辺》に目を付ける。南に支援を断っておいて、こちらから目をつけられるような真似を」
「だからだよ、宮元」
と、工藤はずいっとにじり寄るように身を乗り出す。
「だからとは」
「まあつまり、わざわざ『黄龍』とやらを傀儡にして、西や南をひっかき回す真似をしなくとも、この《北辺》が危険だとにおわせる。あの機械脚はそのための撒き餌になるってことだ。奴ら、東でふんぞり返ってる連中を引きずり出すにはちょうどいい。禁制の機械が北にあるってなれば、連中も自ら動かざるを得なくなる」
その口調はいかにもおどけているようで、しかし梁は工藤の目の中に、何か途轍もない大きなものが満ちているように思えた。これから先に、もっとも大きなことをするのだという意志のようなものを。
それを薄笑いの向こう側に、うまいこと覆い隠しているかのようだ。
「奴らがそんなにうまいこと食いつくとは」
「俺がやろうとやるまいと、奴らは動く。西の騒動見てても、そいつは分かるってもんだ。ただ、どうせならこっちからアプローチかけてもいいだろうってことだ」
雨足は、すでに弱まっていた。あれほどうるさく屋根を叩いていた雨音は、もう聞こえない。
梁は肩をすくめた。
「読めない人だ」
「そうかい」
そういって工藤は笑う。その笑いもまた、どことなく裏がありそうな、意味深な笑い方だった。その証拠に、目は笑っていない。