第十六章:16
ふと、麗花が長柄を手中で滑らせる。そのまま薙刀の刃を引いた
何事かと思った瞬間、省吾は足下が崩れる感覚を覚える。踏み込んだ右足が、床を踏み外したようになったのだ。足場が消え、支えをなくし、省吾は前のめりに倒れる。
あわてて体を元に戻そうとしても、足は空を蹴るばかりで、それどころか足そのものが――右の臑から先の感覚が消え、それそのものがあるという手応えすらがない。
(――あれ?)
向こう臑の先から血が吹き出ている。あるべき足はどこかと目を凝らせば、省吾が踏み込んだはずの床に転がっている――切断された足が、赤黒い断面をこちらにさらしているのだ。
麗花は刃を引いた瞬間、斬撃の軌道を変えたのだ。そして低空の斬撃がとらえたのは、まさしく省吾の出足であり、つまりは。
(臑切り――)
省吾は体を戻そうとするが、成す術なく床に転がる。麗花がさらに振りかぶるのに、あわてて地面を這って遠ざかる。
だが、足を一本失った状態で逃げ回れるはずもない。すぐに省吾は追いつめられた。
「剣術使いは、すぐに足下がおろそかになる……」
麗花がひたりと、省吾の喉元に刃を突きつける。その刃先は、省吾自身の血で濡れている。
「一心無蓋流というものも、大したことないようね」
「その名を……」
度重なる拷問ですでに慣れてしまったのか、あまり痛みを感じることはなかった。ただ、出血のせいなのか、少しだけ頭がぼんやりとする。体中が熱を帯びて、脂汗が吹き出てきて、声をひねり出すと喉の奥が変にこわばる感覚がした。
「せめて楽に。あまり暴れ回らなければ、もうこれ以上痛めつけたりはしない。最後は潔く散りなさい、『疵面』」
麗花はそうして薙刀を振り上げた。逆手に持ち、切っ先を向ける。その延長線上に省吾の心臓があり、そこから先は容易に想像できた。最短距離で貫き、切っ先三寸突き刺して絶命たらしめる。
それは事実だと思えた。どこかで死ぬ運命、早いか遅いか。それが今だとしても何の不思議もない――
ふと脳裏をよぎるものがあった。
ほんの一瞬、短すぎるほど短いものだ。この街のどこか片隅で、ずっと待ち続けているもの。それは胸の内に潜んだ、甘い感傷と同義であり続けるものだ。
それは刹那であったけれども、それで十分だと思えるような――
麗花が振り下ろした。
反射的なことだった。ほぼ無意識に右手の長脇差を真横に振り抜いた。
薙刀の切っ先を弾いた。剣先が流れ、軌道がそれる。麗花が驚き、目を見張り、その一瞬で省吾は立ち上がる。
そして飛び込む。左足一本で跳ね、その勢いのまま長脇差で刺突した。
「はあああっ!」
省吾が気勢をあげた、その途端。薙刀の石突きが下半円の軌道を描いた。十分に勢いのついた先端が、省吾の右手を打ち据える。手指を叩きつぶされ、省吾はたまらず長脇差を落とした。
麗花が手を返す、石突きの先で省吾の胴を打った。衝撃でよろめき、しかし省吾は倒れない。遮二無二薙刀にしがみついて、長柄を両腕で抱え込むように掴んだ。
「しつこい――」
明らかないらだちをその目に浮かべ、長柄を引っ張りながら舌打ちして見下ろす。麗花の表に初めて感情らしいものが見えたように思えた。
「もう諦めたら? 足を切られて、武器を失い、そうまでなったら勝機はない。無様をさらすよりは、とどめを刺された方が良いのでは」
「お前たちと違って」
苦しい息の中、省吾が喘ぐ。ほとんど薙刀の長柄にすがりつく格好だ。
「人間てのは、欲深いからな」
「そう」
麗花の蹴りが飛んだ。
つま先が省吾の腹にめり込む。内臓がせり上がる心地を覚え、省吾はたまらず体を折る。喉の奥から零れ落ちる熱さは、酸と鉄の味交じりの液。その血と胃液を盛大に吐き出させる。
省吾が長柄を離すと、その柄が縮んだ。長大な薙刀が、一瞬にして短い刃の部分だけになる。
「それならこちらで終わらせる」
麗花は小太刀を逆手に取る。上段に振りかぶり、しゃがみこむ省吾の肩に足をかけた。省吾を踏みつけて固定するような恰好だ。無防備な後頭部向けて刃を振り下ろす。
ふいに陰が割り込む。
省吾の頭を飛び越え、麗花に体当たり気味にぶつかる。よろめいた麗花に向かって、陰はテッキョン式の蹴りを二度見舞った。
麗花が切りつける。連は体をのけぞらして斬撃を避ける。避けた反動で蹴り上げ、連のつま先が麗花の目の前を通過する。
麗花が一瞬だけ顔を背けた。一瞬だけ、隙が出来た形となるが、しかし一瞬で良かった。
省吾が掴み取る――ナイフ。連が落としたものだ。左手で持ち、右手を柄尻にあてがう。
起き上がり、飛び込む――というよりもほとんどつんのめるようだった。足が一本だけならば必然、そうなる。
だがその転ぶ勢いが、そのまま刃に乗ればそれは力となる。
麗花が振り向いた。
体ごと省吾はぶち当たり、刃を突き出す。剣先が麗花の白い首筋に突き立った。切っ先が、確実に頸動脈を捉え、さらにその刃を押し込む。
だがそのとき、手中に違和感を得た。
(刺さらない?)
十分に勢いをつけた刺突は、しかして一向に刺さってゆかない。刃の先は首の一点を押すばかりで――胴に防護服を着込んでいる可能性を鑑みてわざわざ首を狙ったのに――皮膚を破ることがない。
かといって固いから刺さらないということでもなく、皮膚は刃で押されて一点が凹んでいる。だから固い感触はない。代わりに手の中に、ゴムのような弾力を得た。押し返してくるような手応えを。
(何故――)
その疑問が浮かぶよりも早く、麗花が体を転換し、小太刀で斬りつけた。
寸ででのけぞる。その瞬間に体勢を崩す。ひざまづく省吾の目の前に靴のつま先が迫る。あわやと思ったときには省吾の顔面は、遙か後方にすっ飛ばされていた。
立ち上がるが、すぐに麗花が迫る。薙刀を下段下から切り上げた。省吾は不完全な体勢ながらも横に飛び斬撃を避ける。刃先が耳元をかすめて、肩先の肉をそぎ落とす。
麗花が向き直る。薙刀を下げて刺突の体をとる。
省吾は座したまま体を向ける。斬られた右足を引き左足を立ち膝に、左手にはナイフ。
麗花が踏み込む。
省吾はナイフを強く握り込む。
その省吾の目の前に、唐突に連が割り込む。まるで省吾をかばうような立ち位置でもって麗花に対した。
「連?」
「目と耳、塞いで」
言うと同時、連が円筒の物体を投げつけた。
麗花の目の前でそれは弾けた。見慣れた白色の光が最初に瞬き、すぐに破裂音をたてる。刺激の強い煙を充満させて麗花の姿を覆い隠した。
「早く、走って!」
すぐに連は向き直って省吾の手を引いた。走れと言われても足がなければ走りようもないのだが、ともかく立ち上がる。連のペースについて行きようがないので、とりあえず壁に右手をついて左足で跳びはねながら走った。
「こっちです」
連が走りながら呼ぶ。至近距離で閃光を受けた割にはしっかりとした足取りだった。爆発の瞬間に目を閉じたのだろうけれども。
省吾はちらりと後ろを向く。何故か麗花は追って来ず、煙の中にたたずんでいた。あの程度の閃光弾はダメージにはならないはずだが、ひょっとしたら『千里眼』は閃光弾には弱いのかもしれない。雪久がそうだったように。
それにしても。
「閃光弾、あといくつあるんだ」
「それほど数はそろえていませんので、今のが最後です」
連の先導に従い廊下を出ると、広い空間に出た。吹き抜けの、どこかのホテルのロビーかのようだ。
「なんでもっと早く使わないんだよ」
壁がなくなれば省吾はもう飛び跳ねるしかなくなる。片足で間抜けにもぴょこぴょこと、バランスをとりながら跳ねてゆく。
「最後の最後のためにとっておいたのですよ。たとえば――」
連が口にした、とともに。省吾の足下に銃弾が刺さる。勢い余って転んだ省吾の頭上を、さらに銃弾が1ダースほど通過した。
銃声が響く。省吾は思わず身を伏せるが、肩に鋭い痛みが走った。着弾の痛みは感じるのに、何故足の方はちっとも痛くないのだろう、などと仕様のないことを考えていると、警備兵たちが省吾と連を取り囲んでくるところだった。
「こういう場合のために、使用は控えていたのですが」
「なるほど」
省吾は肩を竦め、連は峨嵋刺を振り上げて投擲の体を取るが、並び立つ警備兵どもには通用しないだろう。
(ここまでか……)
警備兵たちが向ける銃口は、寸分違わず自分たちを向いている。引き金に指をかけ、鉛玉が吐き出される瞬間を待った。
そのとき、入り口で衝撃音が響く。
ガラスが盛大に割り砕かれた音がした。
省吾がそちらに目をやったときには、入り口の扉をぶち破って複数の車が進入してくるところだった。運搬用トラックが、障壁もなにも無視して、近くにいた警備兵どもを何人かはね飛ばしてこちらに走ってくる。助手席にいる誰かが手を伸ばしてサブマシンガンを掃射し、省吾たちを取り囲む警備兵どもに浴びせた。
トラックは二人の真横につける。すると助手席の人物が身を乗り出してきた。
「乗れ、早く」
ドイツ語らしい発音の広東語で怒鳴った。覆面をかぶっているので誰かわからないが、連はそれが誰だかわかったようだ。
「どうしてここに? あなたの仕事はここまでではないはず」
「いいからさっさとしろ、死にたいなら乗らんでもいい、死にたくなきゃ今すぐ!」
警備兵たちが駆けてくる。新たに銃撃を加えてトラックの車体にも着弾する。連は省吾の顔を見て、そしてうなずく。
「乗って、さあ」
「あ、ああ」
何がなんだかわからず、省吾はトラックの荷台に飛び乗った。幌に覆われた真っ暗な中に、まだ何人か乗っているようである。連が乗ると同時にトラックが急旋回した。省吾はあわてて近くの荷物にしがみつく。荷物からは甘いような草のにおいがした。
銃撃が鳴る。トラックはそこから遠ざかるようにして走る。省吾は荷台で転がらないようにと必死に荷物にしがみついていた。
やがてトラックはビルを出て、通りの向こうにと走り去る。
煙が晴れるまで、麗花は立っていた。
振り上げた薙刀を下ろし、こぼれた刃先を見つめ、やがて刃を下に向ける。省吾たちが走り去った後をみれば、入り口の方で何やら爆音じみた衝撃が走り、銃撃が一定時間続いていたもののすぐに止む――その一連を聞いていた。
「取り逃がしたぞ、麗花」
背後から皇帝の声がして、振り向く。言葉とは裏腹に、それほど気に留めていないかのような表情である。
「申し訳ありません、皇帝」
「やはり閃光弾は苦手か? ずいぶん間近で食らったようだったが」
「気をつけてはいたのですが、不覚を取りました。侮って対した、私の甘さ故です」
「『千里眼』の閃光弾対策は出来ていると思ったが、不完全だったようだ。強い光を関知すればその刺激が神経を圧迫してしまうのが旧型、新型はそうならないはずではあったがな」
「それもありますが、神経をシャットダウンすると視覚そのものにも影響を及ぼしてしまいます。ほんの一瞬ではありましたが、光を失いました」
「改善が必要だな。全く、生身に影響のないようにと気を使っても、どこかで対応出来なくなる。繊細すぎて参るな人体とは」
皇帝は少しかぶりを振った。
「追いましょう、連中を」
「連中? ああそれならいいさ。奴らの目星は大体ついているし、それに」
広間の方が騒がしくなっているのに、皇帝は顔を向けた。目をすがめて、うるさがっているようであった。
「それに、もうすぐそんなことも関係なくなる。どこのギャングがどうとか、どこそこの破落戸が噛みついたとか、それはもう些細なことだ」
「あなたはどこまで本気なのですか?」
問いかけに答えることなく、皇帝はただタバコを取り出し火をつける。