第十六章:10
遠く、《東辺》の灯を眺めていた。夜ともなれば廃墟とわずかな歓楽街しかない《南辺》と比べれば、どうしても目立つ街の灯、東辺は遙かにきらびやかな光に彩られている。
雪久はそれを、アジトの屋上から見ている。距離としては、さほどではないかもしれないその場所が、実際に挑もうとすれば相当な距離がある。この街に来たときは、そう思っていたのだった。
流れ着いたこの街で、最初に出会ったのがあの兄妹だった。梁と舞、二人もまた朝鮮難民に紛れて企業船に乗せられてたどり着き、企業の下働きにさせられたところを脱出したのだという。その後、どこからかふらっと現れた彰を迎え、しばらくは三人で仕事をしていた。彰が絵を描き、雪久と梁が二人でギャングどもを襲撃する。『千里眼』を使い、梁は梁で空手の技を振るい、今思えばその三人が今の『OROCHI』の前身とも言えた。
ただし、そのころ相手にしていたのはストリートの片隅の、木っ端ギャングどもだ。そのころは、『千里眼』を駆使してもなお、すべての敵は強大だった。ギャングどもの銃と金、そうしたものが脅威だったから、東の『マフィア』なんて手の届かない存在だった。東辺の光をながめながら、何度も何度も敵の巨大さを思い知らされる毎日だったのだ。
今はどうか――光を見ながら思った。あのときには勝てなかった『BLUE PANTHER』を蹴散らし、西の雄『黄龍』を、レイチェルや『STINGER』の助けを借りながらではあるが下した。機械どもをねじ伏せることも出来た。俺は少しは近づけているのだろうか、あの灯の元に――
立ち上がった。腰に帯びた長穂剣を抜き放つと、月明かりに照らされて刃は銀色に輝いた。
腰を落とし、踏み込みながら刺突。刃がうねり空間を裂く。
すぐに手首を返す。剣を縦横に切りつけた。銀の軌道が二転三転し、空中で剣穂が廻転する。
剣身をくるりと回し、身体ごと反転。振り向きざま水平に切りつける。剣はひた走り、風切る音をたてる。
その場で跳躍する。背後に向けて蹴りを放つ。左脚の上段廻し蹴りが空を切り、蹴りの軌道をそっくりなぞるよう剣を斜めに切りつけた。鋭い刃が過ぎ去る。空気を切り裂く。
切り裂いたままの格好で停止する。
「孔飛慈の剣か」
後ろから別の声が飛んでくるのに、雪久は構えを解いた。
「見てんなよ、姉御」
雪久が振り向くのに、入り口の階段付近に立っているレイチェルの姿を認める。
「型としてはいまいちだな、雪久。適当に切っているだけでは、それは凶器のままであり武具とは言えない」
「なんだそれ、どう違うってんだ」
「武器はほとんどの場合、道具から始まる」
レイチェルが遠慮もなく近づいてくるのに、雪久は剣を納めて向き直った。少し足を引きずっているのが気になった。
「ただの道具。農具や工具が、武器の出発点。ただし、それらを殺意に任せて振り回せば、それは凶器となる。武具ではない」
「どうせぶっ殺すなら、同じことだろう」
「違う。凶器は、見境もなく殺すためのもの。しかし武具は、殺すことも出来るがその一歩手前でやめることも出来る。相手を殺す手前で追いつめて、相手を諭すことも出来る。正確な技、習熟した使用法がそれを可能にさせる。あるべき術のもとに運用されて、初めて武器は凶器から武具になる」
まるで幼子に諭すように、言うのだった。レイチェルは雪久の前に立ち、雪久が持つ剣の柄尻に手を添える。雪久も剣の柄に手をかけていたので、二人して手を重ね合わせるような形になった。
「しかし諸刃の剣は、その始まりからして違う。道具ではなく、最初から凶器として作られた。凶器として生まれたものは、道具には戻れない。ならば武具になるしかない。きちんとした剣術を習わないのであれば、それはずっと凶器のままだよ、雪久」
「だからあんたに教われってんかい、レイチェル」
そういって雪久は、レイチェルの手を振り払う。
「あんた、二言目にはそれだな。拳法、武術、それがなくたって俺はやれるといつも言っているのに、信用しない。俺は武術なんて窮屈なものはごめんだって言ってるのに」
「しかし、二年前はそのせいで守ることが出来なかったのだろう、あの娘を」
「今は違う。青豹どもを食ってやったし、機械どもにも……」
そこまで口にして、すぐに口を閉ざした。二年前、『黄龍』と友好関係にあったときに少しだけ学んだ八卦掌。あのとき、孔飛慈に対して用いたのは、紛れもなくそのときの術理だった。レイチェルの手ほどきを受けなければ、勝てたかどうかもわからない――
「この戦い、お前たちには関わって欲しくなかった」
レイチェルは遠く、西の方を見つめている。
「最初にヒューイがお前たちと手を組んだと知ったとき、お前が敵になるのだと私は随分悩んだんだ」
「別にそうしてやっても良かったんだがな」
雪久は軽口をたたくが、レイチェルはそれには応えなかった。
「お前がこちらについたとき、私は嬉しかった。と同時に、不安でもあった。こんな内輪もめに巻き込んで、お前や彰が死ぬようなことがあれば、私は『黄龍』がなくなる以上につらいことだと」
レイチェルはかぶりを振り、雪久の方を向く。その目には、いままで見たこともないような柔和な光が差しているのに気づいた。慈しみ、か弱いものを愛でるかのような、そういう顔。『飛天夜叉』レイチェル・リーは、今ではただの女であるかのような表情を見せれる。
「だから、俺を前線に出すまいとしたのか」
じっと見ていれば妙な気分になりそうだったので、雪久は慌てて視線をそらした。
「あんたは俺のこと、低く見過ぎている」
「彰にも言われたよ、見くびるなってね。確かに、お前たちは二年前とは違う」
「なんだか」
やけにレイチェルがしんみり言うものだから、こちらの居心地が悪くなる。その空気を払拭すべく、わざと挑発するような口調になった。
「今日はえらく神妙じゃんかよ、え? 部下を殺ってブルーになったか」
「お前を見ているとね」
そんな雪久の弄した策などまるで意味がないというように、レイチェルは続けた。
「台湾の時を、思い出すんだよ」
一瞬、どきりとした。レイチェルが過去のことに口を出すことなど、ほとんどなきに等しいから。
「あの施設を抜け出して、お前はそのまま海を渡ったのかもしれないけど。私はしばらく台湾にとどまっていた」
雪久と同じように、遠くの灯を見ている姿は、見た目よりも大分年が上であるように見えなくもない。そんな雰囲気を目の当たりにしては、雪久はもう口を出せなくなっていた。
「逃げた実験体の行き場所なんて、決まっている。生命力が弱い奴ならその辺でくたばって、そうでなくても生き延びるには表の世界じゃいられない。あんたと同じように路上にいて。そこで一度だけ、奴らに反抗しようとした」
「奴らって?」
「私やお前に、こんな仕打ちをした連中だよ。といっても、直接対峙したわけじゃない。連中が飼っているギャングどもに反抗を試みた」
「どうなったってんだ?」
「うまく行っていれば」
レイチェルはふとまなじりを押さえた。
「こんなところにいやしないよ。結局、仲間は皆殺しにされて、私はやっとこ逃げ出してきた。築けばこの街にたどり着いて、また同じように裏の社会に逃げ込んで、っていう寸法だよ」
「それで」
雪久は、レイチェルがひょっとして泣いているのではないかと危ぶんだ。別に泣いちゃいけない法はないが、レイチェルの涙など何か見てはいけないような気がしていたのだ。改めて見れば、涙の一筋も見受けられないのではあるが。
「それで、そのことを何で俺を見て思い出すんだよ」
「似ているんだよ。圧倒的な力の差があっても、自分の思うとおりにぶつかっていこうとしていた昔の自分に。力がなければ、無力だということを知りながら」
そこまで言うと、レイチェルが雪久に向いた。どこかすっきりした顔であった。
「お前のその猪突猛進なところ、昔の私と同じ轍を踏ませたくないから、あえて口を出していた。もう少し、お前に力をつけさせてから、と思ったんだけど。今のお前を見て、それも無駄だと感じたよ」
「さっきから何を言ってんだよ」
雪久は、なんだか居心地の悪さを感じてしまう。
「いきなり来て、そんな話を」
「挑むつもりだろう、『マフィア』に」
果たして本心を言い当てられた心地になった。
「その剣、孔飛慈のものだろう。あの兄妹は、お前と同じ。インプラントを施した実験体。それを手にしているということは、お前は――」
「別に、あいつらに同情なんかしてねえさ」
そう雪久は剣を鞘ごと、ベルトから抜き出して、
「あの女、孔飛慈は確かに俺と同じ、広東の実験場で生まれたタイプだろう。話聞いてて分かった。俺はあそこを抜け出して、あいつはそのまま戦闘要員として育てられ、『マフィア』に使い捨てにされたけど、だからあいつの仇をとったりとか、弔い合戦だとか、そんなつもりでいるわけじゃない」
長穂剣を担ぎ上げて、再び東を見る。
「ただ、この眼を埋め込んだ連中が、つまりはあそこに。《東辺》にいる」
「だから復讐というわけか。その眼の」
「まさか。むしろ、礼をしたいぐらいだよ。便利な眼をくれてありがとう、ってな。お礼にいいもんくれてやろうって、そういうことだ」
雪久の物言いに、レイチェルは少しだけ笑みをこぼして、しかしすぐに真顔になる。
「私もね、会ったよ。例の施設の実験体」
「台湾のか」
「マインドセット型のね。私とまったく同じ遺伝子を共有する、本当の意味の片割れを」
そこで二人して黙った。黙っていても、自ずと理解できた――和馬雪久とレイチェル・リー、二人が共有するものがある。
「二年前、あんたがあそこの出だと知ったとき、驚いたもんだ。俺以外にあそこを逃げ出した奴なんて、いねえと思っていたから」
「それは誤りだよ。私以外にも、逃げ出したものはいる。そもそも同じ遺伝子プールで生まれたからには、生命力も同じ程度有している。それこそ、思考もある程度似通ってくるんだ。私のいたプールで生まれたもので、あの施設から逃げたものはそれなりにいる」
「それで、そのうちの一体に会ったのか、レイチェル」
「真田省吾が使いとして寄越した女がいただろう。あの女が、私と同じだった。マインド・セットタイプの初期型モデル、あそこを抜け出した私と同型のクローンは決して多くはないが、それでも遺伝子型と染み着いた技は変わることはない」